空蝉の裂け目 自分のことをまだ男だと思い込んでいる精神異常TSっ娘を壊してしまった僕の話 作:あかん子を説法
「ただいま」
帰ってきて、いつもの第一声。
ほとんど独り言のように呟いたそれに、返事は無かった。
誰もいなくて、エアコンもついていない。ねっとりと熱く、水を吸った空気がただ僕を迎え入れた。
……なんだ?
なぜか、慣れ親しんだ玄関なのに、薄氷の上に立っているような。そんな感覚が背筋を走った。
恐る恐る一歩踏み出す。
靴を脱いで上がってしまえば、まったくそんなことはない。雨と汗を吸った靴下が硬い床を踏んだ。
なのに、悪い予感は止まらず。僕は疲れた身体を押して、一歩、また一歩と慎重に、足音を殺すようにして自分の部屋へ進んでいく。
えっ。
自室の前にまで来ると、なぜか。誰もいないはずのドアの向こうに気配を感じた。
一瞬の間にいくつかの可能性が頭をよぎる。
母親? ありえない。母は僕の部屋に勝手に入らないし、よしんば入るとしてももっと堂々と存在を主張する。
空き巣? 可能性はある。自分の部屋の窓から侵入したばかりだというなら、状況に納得だ。
あとは、隣の部屋は────と、そこまで考えて、怖くなってやめた。
風が窓を揺らす音がする。
あれだけ五月蝿かった蝉の鳴き声は、なぜか今はまったくしない。
違う。気のせいだ。気のせいであれ。
祈り、静かに息を吸って、呑む。
そして意を決して、僕はドアを開けた。
「────っ」
瞬間、むわり。室内の空気が纏わりつく。
息を吸い込むと、鼻腔に届いたそのニオイに、脳を揺さぶられ。
僕は、僕のベッドでうつ伏せになり、ナメクジのように這う彼方を見た。
ぁ。
向こうが振り向いて、目と目が合う。
とろんとして細められた瞼の隙間から、妖しい光を放つ双眸が向けられて、灼きつけられる。
濡れた唇。切なげなハの字眉。見たことのない、別人のような、妖艶な彼方を。
「ぁ」と。掠れたソプラノが微かに空気を揺らして、時が止まった。
「────」
それは永遠のようにも思えた。
が、少しずつ、少しずつ。彼方の顔だけが、色を失っていく。
赤らんだ頬が。汗ばんだ首筋が。瞳の光が。
失われて、冷え切った。
「……かな、た?」
僕は思わず、震える声を絞り出していた。
瞬間、硬直は破綻する。彼方は勢いよく起き上がったかと思えば、顔を伏せたまま走り出し、突風のように僕の横を通り抜けていった。
────────え? あ?
吹き飛んだ思考を戻すのに、また時間を要した。
幻を見たのだと思いたかった。けれどたっぷりと残った彼方の残り香が、ひたすらに僕に現実だとうったえてくる。
どうしてこの部屋にいたのか。
僕は基本的に部屋の鍵を掛けない。家族に入られて困るようなものは何もないから。
だから物理的にはあり得ることだ。けれど、動機がわからない。
本当に?
ここで何をしていたのか。
ここにはベッドと、勉強に関わるもの以外何もない。
ゲームの類は全部リビングにある。だから、彼方がすることなんてなにもないはず。
わかりたくないだけでは?
自問自答が回る。頭のなかをぐるぐる、ぐるぐる。
いや、ちがう。
そんな場合じゃないだろ、と。
わからないことを考える間を惜しんで、気持ちの整理もつかないまま、僕は駆け出した。
彼方は相変わらず脚が速くて、家を出たころには彼方の姿は無かった。
この天気だ。あまり遠くには行っていないはず。
そう思いながらも、心配と不安からあちこちを探した。
雨のなか傘も刺さず。ガラにもなく走って、何度か転んで。
そうこうしているうちに雨が止んできて、西陽が雲の隙間から射し込み始めたころ。
昔よく遊んだ、ちいさな公園。
そこにあるブランコのうえに、ちょこんと。彼方は座っていた。
「はぁっ、はぁああぁ……」
肺に溜まった空気をたっぷりと吐きながら、僕はひとまず安堵した。
「はぁっ……はっ……」
息を切らしながら徐に歩み寄って、少し手前で立ち止まり、膝に手をつく。
見えない壁があるように感じられて、途中でなんと声をかけていいのかわからなくなってしまった。
言葉に詰まっていることを隠すように、呼吸を整える。
「あ」
そうこうしているうち、彼方のほうが口を開いた。
虚空を見つめ、どことなく抑揚を欠いたトーンで、「おそかったな」と。
言いたいことが頭のなかを駆け巡った。
しかし、肩を落として、やっとの思いで出た言葉は、これだけ。
「ごめん」
僕としては、頑張ったつもりだった。
けれど、心外だと笑えるほど自信は持てないし、意図しない悪手を打った気分は拭えないから。いろいろ含めて、謝ることしかできなかった。
そんな僕に、なにを思ったのだろうか。
彼方はブランコを降りると、ようやくこちらへ顔を向けた。
「シーソーやろうぜ、ひさびさに」
西陽に照らされて光る、いたいけな面影は。
血のような赤のなか、光を吸い込むような暗い瞳をしながら、妖艶に微笑んだ。
えも言えない、痛々しい美しさに言葉を失って、僕は固まった。
ツクツクボウシ、ツクツクボウシ。
思い出したかのように蝉が鳴きだす。
脳が揺さぶられ、眩暈がした。
痛い。
胸が、喉が、下っ腹が、締め付けられて痛くて、声も脚も出なかった。
彼方はそんなこちらを気にしない。
悪戯な風のように軽やかに足を運んで、僕の手を取り、赤いシーソーへ連れていく。
「ほれ、ぼーっとしてないで座れ」
濡れた鉄骨に言われるがまま座った。
生温い感触が尻に染みる。下のクッションになっているタイヤがひしゃげ、対面の座面がより高く上がった。
彼方の背丈では、そこに手が届くかどうかギリギリの高さだ。難しいかに思われたが、彼はシーソーの真ん中からよじ登って、あっという間に辿り着く。
「んっ、しょっと。よーし……!」
彼方は「ふぬぬ」といきんで、後ろへ必死に体重をかける素振りを見せた。
しかし、今の僕らの体重差はその程度じゃ覆せず、びくともしない。
憐憫が胸を刺し、僕は静かにそっと腰を上げる。
するとようやく彼方はゆっくりと降りていき、勢いでにわかに僕のほうが持ち上がった。
ただ、これまたこちらが加減しなければ、向こうは地面につかずに終わってしまいそうだ。
「……」
僕は、慎重に地面を蹴った。
ぎったん、ばっこん。
ぎったん、ばっこん。
僕は跳ねない。
彼方は大きく跳ねる。
ぎったん、ばっこん。
ぎったん、ばっこん。
彼方はきゃっきゃと笑った。
僕は、よくわからなかった。
ぽーんと跳ね飛んでしまわないかが心配で。
加減がバレてしまわないかが不安で。
怖いのに胸の奥が爛れて、焦がれて。
よく、わからなかった。
せめて僕も、童心に帰れたらよかったのだろうか。
正義感。友情。親愛。
それらでいくら外の殻を固めても、中身はすでにドロドロに溶かされて、変わっていた。
残酷なほどに大きくなってしまった、身体と心のズレ。
一度変わってしまったものはもう、元には戻らない。
「お風呂、あがったぞ」
「ん」
ひとしきり遊具で遊んだあと、彼方は何事もなかったかのようにけろっとして、僕と一緒に家路に着いた。
帰ってきてすぐ、風呂の順番をじゃんけんで決めて、負けた僕は、長風呂から帰ってきた彼方の様子をあらためて見る。
「うっは、座るとちょっとおしりいてえ」
「はは」
湯上がりのためか血色はいいが、声には少し元気がない。目元も腫れている。
ただ、悪い兆候はなさそうに思える。全身に異様な強張りがなく、自然体だ。
「ん? どうした?」
眼差しも柔らかい。眉尻も、自然な形で穏やかに下がっていて、ちょっと眠そうに見える。
おかしくはない。おかしいとしたら────
「入んないの?」
はっとして、ようやく視線を逸らす。
「いや、入るよ」
諦めて、すごすごと浴室へ向かった。
……膝が痛い。
脱衣場で膝を摩りながら考える。
あれは、いわゆる退行なのではないか。
過去に巻き戻ることで、彼方は自身の変化に蓋をしたのではないか。
胸がざわつく。誤魔化すように服を脱ぎ捨てて、気もそぞろに浴室に入る。
彼方の気持ちには今、確実に変化が起こっている。
その変化とはなんなのか。
彼方が入ったあとの湯船をぼーっと眺める。
ずんと頭が重くなり、また胸が痛んだ。
……あれ、なんか、だめだ。
息が詰まる。
どうしようもなく苦しくて、湯船に入ることができない。
耳の奥で轟々と、耳鳴りが響きだす。
手が震える。こめかみを抑えようとした指が余って、取り留めもなく宙を彷徨う。
「────っ!」
衝動的に、風呂の栓を抜いてしまった。
「っ、はぁっ、はぁっ!」
息が、できる。
水面が徐々に下がっていくのを眺めていると、胸の奥に溜まって吐き出せなくなっていた空気も比例して抜けていく。
「……はぁ」
気がつけば、全部が抜けるまでぼーっと眺めていた。
「はは」と空笑いが出る。やはり相当疲れているらしい。
仕方ないので、自分の身体と風呂だけ洗って不快感を流し、短時間で浴室を後にした。
そうだ、仕方ない。
あんなことがあったあとだ。疲れているのも無理はない。
今日は早く寝てしまおう。
そう思いながら、洗面台の前で先に歯磨きを済まし、気もそぞろにリビングに戻ると。
彼方がソファーの上で横になって、すーすー寝息をたてていた。
僕の前では無防備さを見せることの多い彼方だが、それはあくまで性自認のズレからくるものだ。
基本的には常に気を張っていて、男女の関係がないような不用心は晒してこなかった。
だから、男子だったころも含めて初めてだった。その寝顔を見るのは。
「すぅ……すぅ」
そうだよね。彼方も疲れたよね。
よっぽどくたびれたのだろう。ゆっくり休ませてあげないと。
でも、ここで寝させるのはよくないかも。
風邪ひきそうだし、一回起こしたほうがいい?
悩んだ末に、とりあえず毛布を取りに行こうとする。
と、そのとき。
「んんっ」
突然、彼方の様子が変わった。
なにやらうなされ始めたようだ。うんうんと唸りながら眉間に皺を寄せて、身をよじり悶えている。
「かな、た……?」
確かに、心配からくる行動のはずだった。
しかし、「ん、ふ、ううっ」という悩ましげな吐息と共に、無防備な肢体がソファーに押し付けられて、柔和さが強調される様を見たら、ぐっと下っ腹の奥がまた熱くなって。
吸い寄せられるように、近づいてしまった。
「とお、さん……」
彼方は、父親を呼んでいた。
彼方に酷いことをしていた、あの父親だ。
酒癖が悪く、不機嫌になるとすぐ手を上げ、あろうことか、難しい病気を患った息子を欲望の捌け口にした、あの。
いったい、どんな悪夢を。
彼方は当時のことについて一切しゃべっていない。
とはいえ、結末からその内容は察するにあまりあって。
今現在、自分のなかに湧き上がるものと共通する醜さが感じられた。
──僕も、これじゃ、あれと一緒では。
「とおさんっ、はぁっ、ぁ」
彼方の息が荒くなる。その額に次々と汗が浮かんで、玉になる。
全身が強張って、反り返りが激しくなっていく。
どうにかしてあげたい。けれど、どうにも。
「とおさん、もっと」
耳を疑った。
聞き間違いだと思った。
しかし、続く言葉はそれを否定するように熱っぽく囁かれ。
苦悶に見えた表情には、思っていたものとは大きく異なる、愛情に飢えた切なさが浮かぶ。
「もっと、して」
ありえないことではなかった。
どんな酷い人間でも父親だ。愛されたいと、興味を持ってもらいたいと思って、身を尽くしてしまうこともあったのかもしれない。
それが、禁じられるべき行為であったとしても。
兆候はあった。
理性では、わかっていた。
ただ、受け入れ難くて、ずっと目を背けていた。
「……どうして」
どうしてあいつなんだ。
どうして、僕じゃないんだ。
真っ先に思うべきは、そんなことではないのに。
歪んだ感情が頭を重くして、顔を近づけさせる。
彼方に僕の形の影が落ちる。
瞬間、ぱちり。彼方の目が開かれた。
「…………」
息が止まる。全細胞が警鐘を鳴らす。今すぐ退くべきだと。
しかし、胸の奥に焚べられた嫉妬が燻っていた感情を燃焼させて、僕をどうしようもなく意固地で浅ましい人間にしようとする。
彼方の奥に光のない瞳が、その姿を映し出す。
醜い。
と、すぐさまその像は揺らいで、黒い鏡のなかに感情の色が戻った。
かと思えば、「うわっ、近!」と彼方は俊敏に僕の目の前から脱して横に転がり込む。
そして床を何度か蹴って、脚を空転させたあと、すっくと立ち上がった。
「なんだなんだよなんですかぁ!?」
彼方はわざとらしく慌てて、おどけて見せた。
咄嗟で、そんなに余裕なんてあるはずないのに。
頭の回転の速い彼はもう、この場をなかったことにする方法を考えついたらしい。
「びっくりしたんだけど! どんなイタズラしようとしてたんだぁ?」
芝居がかった彼方は、にやにやと、悪辣に笑いながらそう僕をからかった。
お互いの失態を流してしまおうと。今まで通りに戻ろうと。
「もしかしてまそらって、そっちの趣味が!? そりゃ確かに、俺は昔よく女顔って言われてたけどさぁ」
「ごめん」
「……え」
無理だった。
「…………おやすみ」
言いたいことをぜんぶ飲み込んで、それだけ言い残して。
僕は逃げるようにその場をあとにした。