空蝉の裂け目 自分のことをまだ男だと思い込んでいる精神異常TSっ娘を壊してしまった僕の話 作:あかん子を説法
しこりのように残った、張り詰めた感情。
それを抱え、燻らせたまま、ひとつ、ふたつと、日は過ぎていき。
そうしてまた、夜が来る。
────大丈夫、かな。
大丈夫だよな。
痛いほどの静寂のなか、僕の心音だけがずっと暴れている。どんどん、どんどんと。
耳を澄まさずとも聴こえるはずの虫の鳴く声も、エアコンの音も、それに遮られて聴こえない。
ひとり布団のなかで身じろぎして、それでも収まりが悪くて寝返りをうつ。
その一連の動作を繰り返して、繰り返して。もうどれだけ経ったかわからない。
こういうときでも、彼方がよく眠れているならそれでいい、と。
いつもならそう綺麗事で片付けて、安心して眠れるはずなのに。なぜかそれができない。
心の奥底に残った何かが爛れて、ぐずぐずと苛んでいる。
どうしてだろう。
安らぎを願いたいのに、安らいで欲しくない。
大事にしたい。けれど、大事に思えば思うほど、傷つけてしまうから。
それならいっそ──なんて、そんな恐ろしい考えが、頭のなかから離れない。
真っ赤な彼方が焼き付いて、消えてくれない。
……大丈夫だ、大丈夫。
深呼吸して、ひたすらに唱え、瞼の裏を意識する。
瞼の裏の瞼。それを閉じて、真っ暗にする。
僕は、自分のことばっかり考えるようなダメなやつじゃない。
父さんのような立派な人になって、それで。
それで、彼方を────
きぃ。
静かに軋む音が、瞑想に割り込んだ。
気配がする。耳をすませば、吐息が聞こえる。
思わず息を殺して身を固めた。誰だ、なんて叫んで身体を起こせない。
だって、今日は両親がいないんだ。すぐに襲ってこないのなら、泥棒じゃないのなら、誰なのかなんてわかりきっている。
「……そら」
消え入るように、微かな声がした。
パニックだった。今まで僕のほうが彼方を訪ねることはあっても、彼方のほうから来ることなんてなかった。
だからこんなときでも、鍵をかけるなんて発想がなかった。緊急時にすぐ廊下に飛び出すのは僕のほうで、かける意味がないと思っていたから。
そもそも鍵をかけられること自体を忘れていて、入られて初めてその存在を意識して、後悔した。
「まそら」
より確かに、僕の名前が呼ばれた。
掠れていて小さかったが、静かな部屋の中でやけに響いた。
いや、いいや。
僕は背中を向けたまま、動かない。
声はひそやかに、しかしふーふーと荒めに息をたてながら「まそら、おきてる?」と、囁くように尋ねてくる。
「なあ」
微かに震えた涙声だった。
あどけなく上擦っていて、甘えているようにも聞こえた。
けれど、それ以上に。どこか感じたことのないような温度と湿度をはらんでいて、危険なほどに、僕の頭に染み込んでくる。
気のせいだ。
頑なに返事を拒んで、寝たふりを続けた。
すると、ひたひた、ぺたぺた。静かに、確実に。軽くて柔らかな足音がこちらへ忍び寄り。
ひとつ鼻をすすったあと「まそら」と、また小さな声で僕を呼んだ。
ありえない。
足音が止まり、気配が近づく。
これは夢だ。
どんな夜でも、僕の知っている彼方はひとりで泣いて、抱え込んで、決して胸の内は明かさなかった。
「なあ、まそら」
だからわからない。わからないんだ。
彼方、キミはなにを思ってるんだ? 僕に、なにを────
ぽん、と。背中に手を置かれた。
かと思えば、その手は僕のパジャマをぎゅっと握りしめる。
震えと体温が伝わってくる。
首筋に息がかかった。思わず震えてしまいそうになる。
それでも僕は動かない。息を殺して、ひたすら堪える。
ぐすり、またぐすり。荒い息遣いと鼻をすする音だけが部屋の重い空気を揺らす。
「まそら」
絞り出すように呟かれたあと、徐々に体重かかかってベッドが沈む。
沈んで、沈んで────ずるん。
シーツの上を擦れて、どたんと床に崩れ落ちた。
また、痛いほどの静寂が訪れる。
……あれ? 大丈夫、か?
心配し始めたそのとき、背中のほうですーっと息を吸う音がした。
吸って、吐いて、また吸って。吐いたときに、鼻にかかった感じの甲高い掠れ声がする。
なにを、して。
「ふーっ、すふーっ」
加えて、すりすりと、密やかに。
妖しい布擦れの音が、緩急を繰り返しながら何度も往復して、止まらない。
「ん、っ」
ベッドの凹み方が変わって、布よりしっとりとしていて滑らない何かが床を引き摺り始める。
不規則に床を擦って、そのたびに押し殺された小さな声が指で弾かれるみたいに出てきて、僕の耳に届く。
ばかな。
そんなわけ。
ちがう、そんなわけない。
やめろやめろ、やめてくれ。
僕の思いとは裏腹に。
声は秘めごとを自ら曝け出すように、少しずつ、少しずつ盛り上がり。
愛らしく、艶かしく、僕の名前を呼ぶ。
「まそら、まそら」と、切なげに。
「まそら、ごめん……」
え……。
そして今度は、謝り始めた。
「ごめん」の数は増えて、次第に小さくなり、声にもならなくなる。
ちがう、そんな。
彼方が謝らなきゃいけないことなんてなにもない。
悪いとしたら、僕のほうだ。
なんて、ひどい勘違いをしようとしていたんだろう。
決して抱いてはいけない煩悩に振り回されて、酷い考えを抱いて、酷い態度をとってしまった。
ぜったいに、謝らなくちゃ。
僕は勇気を振り絞って、背を向けていた現実に向き直り、目を開いた。
締め切っていないカーテンの隙間から射し込む、窓の向こうの電灯が発する光の下。
朱色に染めた頬に涙を伝わせながら、彼方は僕を見ていた。
「──あ」
泣き腫らした瞼が、花が咲くみたいに見開かれたかと思えば。
真っ暗な瞳に、妖しげな光が灯る。
柔和な口角は上がり、笑みが作られ。
馴染みの童顔は、悪戯にうそぶいた。
「はは、起きてんじゃん」
僕の口は、僕が何かを考える前に「なんで」と動いた。
それを聞いて、彼方は闇のなか、白い歯を見せる。
「なんでだと思う?」
明け透けな、挑発の笑みだった。
赤い舌をべーっと出して、先ほどまでのはウソでした、と。そう言わんばかりの。
「おいおい、そんな顔しないでくれよ!」
はたして、そんな顔とは、どんな顔をしているというのだろう。
彼方は同様したまま、上滑りしたような発言を繰り返す。
「わかった、言うから……あー、そう! なんか様子が変だから、ちょっと茶化しにきたってだけ! ドッキリだよほら、ドッキリ!」
わからなかった。
あるいは本当に謝りたいのが本心で、ただ気恥ずかしいから、それを隠すためにおどけて見せていたのかもしれない。
その可能性も、十分にあったと思う。
しかし僕にはもう、それに耐えるだけの余裕がなかった。
こっちの気も、知らないで────
かあっと、頭に血が昇り。
身体は傾れ込むようにして、彼方へ向かう。
どん、と鈍い音が床を打った。
「い゛った……」
痛みをうったえる彼方。
僕はそこでようやく、自分が彼方を押し倒したことを理解する。
「ちょ、いたいよ、まそら」
そう言いながら、彼方はまだ、へらへらとした態度を崩さない。
「ほんとうに?」
ほんとうに、いたいの?
疑わしくて、尋ねることを止められなかった。
顰められた表情は、相変わらずふざけた笑みを浮かべている。
ほんとうに、おまえはかなたなの?
手に力が込められる。
大したことない、男子のなかでは非力な部類に入る握力でだ。
「い゛っ」
彼方は、そんな僕の力の前にまた、痛みをうったえた。
今度は取り繕う様子もなく、本気で顔を顰め、微かに抵抗するような力が返ってきた。
けれども、無いに等しい。
「いたいってっ」
細く、柔く、脆い。
感触は、まさに赤子の腕のよう。
現実感もまた希薄で、夢のようで、僕の行動はいっそう、僕の考えを離れて先を行く。
「ちょ、ごめんて、怒らせたなら謝るからっ」
「やめろ? かなたなら、簡単にやめさせられるでしょ?」
ホンモノの彼方なら、僕なんて簡単に払い除けられるはずだ。
「は? オレをなんだと思って、っんぁ」
ズボンの下の痛みが直下に向かい押し擦られ、瞬間、ソプラノは甘くはじけ、華奢な身体は跳ねた。
揺すられて、さらに摩擦が生まれ、僕の脳髄にも電流が走る。
心なしか湿っていて、滑るような感じがして、よくない感覚に、支配されていく。
「なんだと思ってるかって? ……わかんないよ、そんなの」
目の前の彼方のからかうような表情が、ようやく失せる。
その変化を見ても、流れだした激情は止まらない。
「逆に聞くけどさぁ……かなたのほうこそ、僕をどう思ってるの?」
苦しくて、切なくて、縋るように問いかけた。
彼方はみるみるうちに表情を曇らせて、瞳に涙を浮かべ「ごめん」と謝り始める。
「教えてよ? ねえ、かなた」
「ごめん、おれ、そんな、つもりじゃ……っ」
言葉とは裏腹に、布越しの柔和な感触はぴくり、ぴくりと反応を続ける。
「教えてってば」
理解したくなかった感情が、怒張していく。
摩擦が止まらない。熱をはらんだ吐息同士が交差する。
「ねえ」
僕の声は、獣のように彼方の柔い首筋を撫でた。
「ごめん、なさいっ」
彼方はもう、謝るばかりだ。
ごめんなさい、ごめんなさいと。啜り泣きが混じって、どんどん細く、弱々しくなっていく。
「謝ってほしいんじゃないんだよ」
「ごめ゛んなさいっ……」
そうじゃない。欲しい言葉は、そうじゃない。
教えて欲しいだけなんだ、僕は。
彼方のほうが賢いんだから、わかるでしょ? ねえ、ねえってば。教えてよ、ねえ。
「教えて」
「────なさいっ……おとう、さんっ……!」
最悪の答えが返った。
お父さん。
僕の尊敬する父ではなく、対極の、クズの象徴みたいなほうの、彼方のおとうさん。
おとうさん。
木霊する。
ぐちゃぐちゃな中身が、熱されながら、掻き混ぜられていき。
筋張った欲望の形を成していく。
おとうさん、そうか、おとうさんか。
そうか。
「あ、あ」
か細い声が慄き震える、静かな夜の底。
彼の中身は隆起し、薄皮一枚の殻は、ついに裂けた。
「おとうさんに、見える? 僕が?」
「ひっ、あ」と怯える彼方、その顔の前。
ゆるさない。
僕の名前に変わるまで、絶対に。
ぬらりと、頭を出したその姿はきっと。
一夏限りの絶頂を舞うに相応しい、愚かな成体に似ていた。
数日後。いまだに衰えない熱気が快晴の空の下蒸し上がっていく、夏休み明けの登校日。
ツクツクボウシとヒグラシの増えた蝉時雨の中、教室に入った真空は「おはよう」と挨拶をして、前と同じように、窓際1番前の席に座った。
そこへ「おう、マソラ」と、クラスメイトの男子が彼を呼んで、開口一番からかう。
「カナタさんどうしたよ? いつも一緒だったのに今日はいないのか?」
真空はつつがなく笑顔を作って、用意した答えを返した。
「ああ、体調不良で休みなんだ」
「ありゃーそっか。休み明け早々災難だな」
放課後、生徒会でも。
書記の加藤が彼方について問い、彼は同じ答えを返した。
「みんな、同じことを聞いてくるんだな」
「そりゃ、お前たちいつもセットでいるからな」
加藤は彼の顔をじっと覗き込み、「なんだよ」と煩わしそうに身を引いた真空に言った。
「会長、ちょっと顔色良くなったじゃん」
「そうか?」
「いい夏休み過ごせた?」
真空は少し逡巡するように間を置いたあと、微かに口角だけを上げ、ただ一言「ああ」と返事した。
その様子を側から見ていた副会長の藤原は、訝しげに視線を送ってから、静かに目を伏せた。
「ただいま」
真空は帰宅するなり、いつものように行儀良くそう口にした。
しかし、返事はない。ただじっとりとしていて動かない、蒸し暑い空気だけが彼を出迎えた。
彼の瞳は、とくに感情の色を映さない。
玄関で靴を脱ぎ、濡れた靴下で廊下を踏むと、汗でベタつく身体を押して、のそのそと階段を上がっていく。
二階の廊下、立ち止まったかと思えば、ふと意を決したように彼は自室の前を通り過ぎて、ひとつ向こうの部屋の前に立ち、そのドアを開けた。
部屋のなかには、誰もいなかった。
あるのは、学校の制服と、必要最低限の教科書や文房具だけ。
それ以外は、部屋を使っていた人物のらしさがない、甘い残り香と、微かな生活感だけが残っている伽藍堂だった。
彼の目は、微かに悲痛に細められた。
しばらく何もない部屋の中をうろうろと歩き、なにかないかと探し回った。
すると、今までは気が付かなかった、否、気が付けなかった、布団で隠れたベッドの横の壁に残る、深い引っ掻き傷を発見した。
「……」
彼は無言でそれに触れた。
撫でて、なぞって、ただそれだけして、やめた。
真空は部屋を出て、名残惜しそうにドアを閉めた。
はあっとひとつ、肺に溜まった空気を吐き出して、手荷物をまだ持ったままだったことを思い出し、自室へふらふら戻る。
そうして先ほどと同じように、ドアノブを捻って開けた。
先ほどの部屋よりも濃密な甘い香りが、クーラーの冷風に乗って彼を迎えた。
「……あっ、おかえり!」
そこには、少女がいた。
薄暗い部屋のなか、灯りもつけないで、待ちぼうけていて。
真空が来たのを見て、その空っぽだった表情を俄かに明るくして、待ち望んでいたように声を踊らせながら、華奢な身体を彼のもとへ投げ出す、空っぽの無垢な少女が。
「ただいま」
真空は口元だけ微笑みを讃えて、少女を受け止めた。
シャツとショートパンツ一枚だけに包まれた柔和な感触が、彼の身に沈み込む。
「なんでまた、僕の部屋に?」
少女は瞳に妖しい光を浮かべたまま、「べつにいいじゃん」と返事して、まともにその問いには答えない。
はぐらかすように「それよりも、さ」と話を変えて、彼へ縋るような視線を向ける。
「おれ、なにかした?」
「……なんで、そう思うの?」
「だってお前、最近冷たいし」
少女はより身を寄せ、汗で濡れた彼の白いワイシャツを強く掴んだ。
その手は過剰に力が入っているせいで震えており、もう絶対に離したくないという強い意思が窺えた。
真空は、ひとつ嘆息した。
彼の目に、少女とは別の色の妖しい光が灯る。
「んっ」
彼の腕が、少女を抱き寄せた。
大きな手のひらが、少女の後ろ髪をそっと撫で、その唇が少女の唇を捉えた。
少女は拒絶しない。
むしろそれを求めていたといわんばかりに応え、彼よりも激しく、彼を求めた。
クーラーも、外の車通りも、蝉の音も、2人の擦り合う音に掻き消されていく。
薄らいで、なにも聴こえなくなる直前、息継ぎの隙間を縫って、言葉は交わされる。
「っは……ん、はは……っ、いいのかよ?」
焦れるように身悶えしながら、揶揄うように問いかける少女。
真空は、多くの言葉を呑み込んだあと、無機質に答える。
「いいでしょ、べつに」
そして再び、少女の薄紅を貪り、柔和な肢体を手のひらで乱暴に揉みしだく。
「ふっ、んっ……だよな」
少女の肢体は、その動きに合わせて踊った。
踊り、くねり、艶っぽく喘ぎながら、唇と舌がたどたどしく、調子のはずれた言葉を形にした。
「いいよな……男同士なら、いくらヤってもこどもできないし……バレなきゃ、いいよな」
仄暗い情熱を秘めた瞳同士が交差して、茹だるような残暑の中に溶けていく。
そこにはもう、お互いの姿は映らない。
「そうだね」
虚な闇の中、ただ男女の身体が重なって、見えなくなる。
カナカナ、ツクツクボウシ。
ふたつの蝉時雨が交差する、窓の向こう。
電柱にいつの間にかあった蝉の抜け殻は、風に吹かれて堕ちていった。
終