青春とは悪であり、嘘である。青春を謳歌せし者たちは常に自己と周囲を欺き、自らを取り巻く環境のすべてを肯定的に捉える。彼らは青さから脱却しようと足掻きもがき苦しむのだと言うが、それはただの現実逃避だ。彼らの言う「若さ故の過ち」とは一体何なのか?
答え。全て。
結論。全て。
考察。全て。
青春の二文字の前ならばどんな一般的な解釈も社会通念も捻じ曲げてみせるというその態度こそが青春の証なのではないか。つまり青春とは奪い合い殺し合い騙し合うものなのだ。
『人はなぜ恋をするのか』という問いには未だ明確な答えが無いように、『青春とは何か』という問いにもまた、解は存在しないだろう。
しかしあえて答えを出すとするなら、「青春とは、糞食らえ......
上記のような文章を提出した結果、比企谷八幡は担任にしこたま怒られた。あの三十路教師め、許せぬ。
四月。新学期の始まりを告げる桜の花弁舞い散る通学路を、一人の少年が小走りに駆けていく。まだ目覚めて一時間と経たない寝惚け眼を擦りながら、昨晩遅くまで起きていた己を呪ってやりたくなるが、今更仕方がないと思考を切り替える。
腕時計をちらりと見れば、とっくに登校時間は過ぎていた。急げば始業式には間に合うかは五分といったところだが、どのみち遅刻確定であることに変わりはなかった。
早々に説教される未来が見えた彼は溜息を吐くと、そのまま歩調を緩めずに学校へと急いだのだった。
◇◇◇
夕陽の射す放課後。人気の少なくなった校舎の中、閉めきられた備品庫で、比企谷八幡は一人思い悩んでいた。
額からは火照りによる汗が流れ落ち、胸やけがするほどに甘ったるい薫りが室内に充満している。
じゅる......ぐっぽ、ぐっぽ......。
暗く、狭い部屋に響き渡る水音。さらにその卑猥な音に紛れて、男の低い呻き声が時折混ざる。
「......うぁ、か、川崎ぃ......」
己の股間から感じる刺激に、思わずその原因となっている人物の名前を呟いてしまう。視線を下へと向ければ、強引にずり下ろされたスラックスから露わになった男根に、美女が口淫を施していた。
男の股ぐらに顔を埋め、豊かな結い髪を揺らしながら、一心不乱に肉棒をしゃぶる女──川崎沙希は、少年の呼びかけにも応えず奉仕を続ける。
窓から射し込む夕陽が彼女の白い肌を照らし出し、シャープで美しい顔立ちを歪ませてまで汚ならしい男性器を咥える、その表情は──。
◇◇◇
──減少世代、とされる世代に、比企谷八幡は分類されるらしい。
此処数十年……正確には二二年前だ。とにかくその辺りから、日本国はおろか全地球単位で、現代人ホモ=サピエンスの男性Y染色体を持つ生物は減少を始めた。
人口爆発による食料危機とか、二度の世界大戦を経て表向き小康状態だった国際情勢を破局させる武力衝突が発生した訳では無かった。
人類を襲ったのは未知のウィルス脅威だ。通称、
ウィルスの最大の特徴は、その増殖方法にあった。一度体内に侵入してヒトDNAと接触すると、自己構造を変化させて遺伝子塩基群とほぼ完全に融合する。人類の免疫機能を騙しきってしまう程の擬態能力に加え、感染から僅か半日足らずで全身へ。直径僅か四五~五五nmという超極小ウィルスは、既存のマスクは言うまでもなく医療、軍事用フィルタすらすり抜けてしまう。この感染力が強力で厄介なウィルスは、こうして瞬く間に全世界へと広がっていった。
MKウィルスは、奇妙な事に女性には無害だった。主たる症状のトリガーが、ヒトY染色体の有無だと各国は突き止めた。しかし、有効な対策らしいものを打てた国家、或いは組織は皆無だった。女性に対しては、特徴的な症状が見られない以上予防策は殆ど存在しない。
男女問わず、一度感染すれば遺伝子との融合は半永久的。感染部位の切除は出来ず、抗生物質もヒトゲノムを上書きしてしまうような遺伝子改変能力のMKウィルスには、効果は見込めない。これが傍目にもおぞましい身体的苦痛をもたらす悪魔の病気であったなら、人類は発狂していたかも解らない。
一方で、感染した男性には、身体の変異をきたす。睾丸の萎縮、性欲の慢性的な減退、陰茎海綿体の半壊死、無精子症──。これによって、男根に変異をきたした男性はEDに陥り、自然生殖能力を失ってしまう。即ち、人類の繁栄には確実にブレーキが掛かるのだ。
実に、当時の世界人口の八割が罹患した、人類史上最悪かつ最凶の病気であった。
一個体としての寿命がどれだけ延びたとしても、種族そのものが滅亡すれば意味がないのだ。
今の教科書には、その混乱を引き摺る大国の現状や一変した社会構造による新体制の名目が盛り込まれ、嘗ての教本に載せるには体裁のよろしくない知識がちょこちょこと載っている。
『今の時代、自然交配によるセックスが出来る男はそれだけで価値がある』
何となくネットサーフィンで見ていた掲示板に、そんな文言が書かれていたのを思い出す。確か、男性人口が激減した現状に対する煽りだった。
国家の威信を懸けた施策の影響なのか、特に若い世代では男女の出会い方に対して大らかになりつつある。
我が国日本では人口増加に関する規則や法令など、パンデミック後の他国に比べると相当に自由主義であり、寛容な体制を敷いている。
国内男女比は実に一対一〇という極端なものになっており、男性と女性の数は大きく偏っている。このため、人口を維持するために政府は結婚ないしは多数の実子を設けることを奨励し、結婚奨励金や家族手当等の福祉を厚くしている。
しかし現状では男が圧倒的に足りていない為、異性との恋愛には大変な困難が伴う事になっている。従来の一夫一妻制度も形骸化しつつあり、推し進めたグローバル化の波が国内にも一夫多妻の導入を後押ししている側面もあるようだ。
「つっても、野郎なら誰でも良いなんて女は少ないし。元々モテてなかった奴が急にモテるなんて旨い話は無いよな」
二年F組の教室……の片隅。公民の教科書に書かれている『現代の社会問題』の項を黙読し、比企谷八幡は誰にも聞こえないくらいの呟きを漏らした。
ウィルスの脅威なんて、騒動が終わってから産まれた己にしてみれば実感の湧かない話である。若年層の比率が高い都市部の出身であれば、そこまで性別の偏りは酷くない。女性が多いとは言え、十分生活に不自由は感じないのだ。今時珍しい生真面目さで女と清い交際をする男子生徒だって少なからずいるし、あまり関係ない事だと思うのが本音だった。
ふと思い返されるのは、中学校という名の暗黒時代。まだ純粋だった頃の時分に唯一好意を寄せていた女子が、クラスで最も人気のあった男子と付き合っていた事。相手の男子が快活で人当たりの良い好人物であった為に、クラス中が祝福ムード一色だった事も今思えば悪夢である。
……まぁ良いか。こっちは相変わらずぼっちだ。
仲間がいないという意味では高校生活も中学時代と同じだしな……深く考えるだけ無駄だと思い直し、元々猫背気味の身体を更に縮こまらせて机に突っ伏した。
◇◇◇
他のクラスではどうだか不明だが、二年F組では月に一回の頻度で席替えが行われる。誰と隣になるか、何番目の席になるのか、といったようなくじ引きの結果で運命が決まってしまう。
ぼっちからしてみれば相手が誰であろうと平等に無視を決め込むのだからとたかを括っていたのだが、今回は運命の女神が不正を働いたのかも知れない。
残念ながら窓際最後方の席にはなれなかったものの、その一つ隣というなかなかの良いポジショニング。内心ニヤつきながら新たな席に腰掛けるも、担任の平塚静教諭の鶴の一声が入った。
「あー、すまないが男子同士は出来るだけ分散させてくれ。その、なんだ......少し、PTAが五月蝿くてな」
平塚は明言こそしなかったが、その歯切れの悪さと煮え切らない態度から、どうやら何らかの圧力が掛けられているのは明白だった。数の減った男性との出会いが限られる女子生徒の保護者から、学生でも出来るだけ我が子と男子生徒が仲を育めるように学校側に要請が出された、という裏事情があったけれども、そんな事までは流石に比企谷も推察できかねるものだった。
「そうだな、じゃあ戸部は此方に。比企谷の隣は......川崎が入りなさい」
「......はい」
担任の指示に、教室の窓際最後列という絶好のポジションを奪われてしまった生徒が悲痛な声を上げる。その恨めしそうな視線を意にも介さず川崎と呼ばれた女子生徒はつかつかと歩いて行き、ドカッと腰を下ろした。
──一見すると素行不良のレッテルを貼られていそうな娘である。青みがかった黒髪は後頭部で一つに纏められ、切れ長の眼は長い睫毛に縁取られていた。
つんと澄ました雰囲気が印象的な、彼女が美形であるが為にいっそう非現実感を煽る涼やかな顔立ちは、超然とした存在感により周囲に畏敬を抱かせんばかりだった。
着崩された制服の胸元はやや大胆にボタンが外され、蠱惑的な谷間を惜しげも無く披露している。スカートは限界まで短くされており、そこから覗く白い太股が目に眩しい。
その立ち居振る舞いからして、大分遊んでいそうな雰囲気に見える。校則を逸脱した装飾を施された制服も着崩してはいるがこの美しさだ......自らの地位、即ち生まれながらの勝者としての宿命を自覚しているような華麗さと高慢さが垣間見えた。
「あー......宜しく」
しかしそんな事情は知った事ではないとばかりにぶっきらぼうな口調でそう告げると、川崎は完全に無視を決め込んだようでそっぽを向くように窓外へと視線をやったのだった。
数ヶ月後......。
──ミンミンと忙しない蝉時雨が夏の訪れを告げる、七月の上旬。
学期末の悪夢とも言える期末考査もとうに終了し、世の学生にとっては長期休みまで後一週だ。
地域柄、夏休みの開始は早い方で七月下旬から八月の上旬辺りまでが自然なのだろうが、近年文科省が改訂した生徒教育カリキュラムで夏季休暇の延長が為された。
そのお陰様で夏休みの開始時期は、中旬まで前倒しである。
とは言え、長期休みは待ち遠しくも嬉しいものである事に変わりはないらしく、教室内では浮ついた空気が蔓延していた。
ある日の昼休みの事、生徒に解放された校舎屋上にて。
転落防止に四方を囲まれた一角......柵の一つに凭れかかるようにして、比企谷八幡はポケットからよく冷えた炭酸飲料を取り出した。
プシュ、と気泡の弾ける小気味の良い感触でプルタブを引き上げる。
炭酸飲料を口に含む前に、その甘美なる香りを鼻腔一杯に吸い込んで堪能し、そして喉奥に一気に流し込んだ。
ゴクゴクという擬音が相応しいくらいに喉を鳴らして嚥下すると、食道から胃にかけて通過する冷たい感触が心地良い。夏の暑さと混じりあって汗の雫となって肌を伝う。その感触に、思わずぶるりと身震いした。
これから更に気温が上がっていく季節である事を思えば、憂鬱な気分になるのも無理は無かった。
「んく...ぷはっ......」
空になった缶を、屋上の床から突き出た鉄柵の上に置く。
そのまま視線を上げれば、そこには抜けるような青空が何処までも広がっている......キラキラ光るビル群と白い雲。陽炎の揺らぐ路面から立ち上がる蜃気楼が、夏の盛況振りを如何なくアピールしていた。
長期休みの始まり迄あと一週間という、学生の特権である『休み感』に陶酔しきっていた頃。
背後から軽い足音が聞こえたと思うと、ふわりと鼻腔を擽るのは柑橘類を想起させる芳香......。
次いで、やや掠れた女声がぶっきらぼうに、それでいて親しげに掛けられた。
「あんた、こんな処に居たの」
「......何だよ、川崎」
無愛想な声音が出てしまうが、それを気にするような間柄でもないと気を取り直す。
いつものように倦怠感の滲み出た薄暗い視線の先で彼を待っていたのは......眩い陽に勝るとも劣らぬ美麗さを湛えた少女。
その均整の取れた肢体を包むものは、いつものように着崩された制服であるのだが、生地も丈も少なくなった夏服はより瑞々しさを増幅させる一方、異性に対する色気と自覚無い性の誘惑が如実に表れているようだった。
「別に。教室に居ても暇だからサ......」
暇だ、と溢す川崎の言を額面通りに受け取るのは些か無理があると比企谷は言い返したくなった。本人がどう感じているにせよ、その見てくれや纏う雰囲気は紛れもない麗人なのだ。お近付きになりたいという輩は星のように存在している事だろうに、その態のなんと無防備なことか。
「つか、開放的過ぎんだろその格好。クラスの野郎共が凄い目で見てたぞ」
「いいよ別に、減るもんじゃないし。手を出す勇気も無いなら寂しくマス掻いてりゃ良いのさ」
眉根を寄せて咎めるが、当の川崎は薄く嗤うだけである。煽情的な夏の装いを欠片も恥じる様子はない......更に言えばその優れた容姿を以てして封殺しているようでもあった。彼女が性に奔放であるというのはこれまでの付き合いで重々理解しており、それを含めてこの女の飄々とした態度に繋がっていると考える。
夏といえば性的な営みが盛んになりがちで、男性は異性を容易に意識し易いシーズンである。それは逆もしかりで、強い陽の盛りになると自然とそういう行為に及ぶ機会は増加するものだ。
すたすたと無遠慮に歩み寄って来た川崎は、ぴたりと傍に寄り添う。
短いスカートから伸びる生足は羚羊のようであり、それでいて女性特有の肉付きを両立した四肢は日本人離れしたプロポーションを誇っていた。
比企谷少年は高校生男児に於ける平均値程度の体格だが、数値にすると約一七〇センチのそれも猫背気味の姿勢と目付きの悪さで余計に矮小に映ってしまう。
別に背丈のコンプレックスがある訳ではないけれど、川崎の顔を見るには見上げなければいけなく、小さな造りの頭部は頭身を引き上げる一助となって最早エキゾチックな雰囲気すら感じさせる。
更に比べる無かれと云った処であるが、前述したようにすらりと細く引き絞られた体型はネコ科の肉食獣を彷彿とさせるものだし、相反するように張り出した胸元や臀部は男好きする肉感的な魅力に溢れていた。
細い肉付きというよりは、全身隈無く鍛え上げられたしなやかさはアスリートのそれのようだ。そんな羨望が思わず籠った視線が気になったらしく、川崎はいつもは鋭い眦を猫のように緩めてふうわりと微笑んだ。
普段は面倒臭げに歪められてる唇が薄く開いて白磁めいた歯が微かに覗くと、それだけでどきりとしてしまう……男という生き物は実に単純である。
「......静かだね、此処」
一言、どう答えればいいのだろうかと悩む前に紡がれた言葉に首肯しそうになった。
同じようにして鉄柵に手を置きながら、時折吹く風に煽られた彼女の肩口から漂う涼やかな香りに眩暈を覚える。
色恋でもない限り屋上に入り浸る輩なぞ滅多に居ないので、基本的には貸切状態だ。ぼっちを極めつつある自分の横に極上の美女が張り付き、ご機嫌そうに眼下に拡がる運動場を眺めていても奇異の眼で見られはしないだろう。
陽に照らされた端麗な横顔は何処と無く楽しげで、白い肌とは対照な目元の泣き黒子が堪らなく妖艶に映る。
「処でさ、あんたって夏休み何か予定ある?」
「......いや、特に無いけど。強いて言えば家でゴロゴロするくらいか」
「ん、そっか......じゃあさ......」
川崎はそこで言葉を区切ると、一拍置いてから意を決したかのように口を開いた。その声音には緊張の色が見え隠れしてはいるが、同時に喜色にも満ちていた──。