【改訂版】異世界で淫魔師ハレム【コミカライズ作品】 作:ドン・ドナシアン
【歴史余話3】中央街道からアッピア温泉峡へ
ドロボークの旧国境城郭から、旧帝都ハロルドに向かうことにした。
伝承によれば、ロウ帝はこの城郭からおよそ一か月をかけて、当時の王都ハロルドに到達したという。
いまでは高速路が整備され、魔道炉を積んだ車なら二日もあれば着く距離だ。
だが今回は、あえて幹線道を外れ、古の中央街道──いまでは「旧街道」と呼ばれる道を行くことにした。
ところどころ路面は崩れ、橋は半ば苔むしている。
それでも、ロウ=サタルス帝が歩んだと伝わる道筋を、自分の目で辿ってみたいと思ったのだ。
かつて蹄鉄の音とともに響いた街道を、魔道炉を積んだ車が、静かな機械音とともに滑るように進む。
王国で舗装されていた道路とはいえ、当時は揺れも振動も大きかったらしい。
しかし、いまの車には音も振動もほとんどない。
文明が進むとは、音が消えてゆくことなのかもしれない──そんなことを考えた。
旧街道は地図の上では一本の細い線だが、実際には森に飲まれ、谷に埋もれ、ところどころは農地のあぜ道に姿を変えている。
私一人の力ではとても辿り切れそうにない。
そこで今回は、現地のガイドを雇うことにした。
約束の時間に現れたのは、思いのほか若い女性だった。
名をリネという。娘といってもいいほどの年で、旅装の上に薄い上着を羽織り、片手に携帯端末型の地図板を持っていた。
もう少し年配の案内人を想像していた私は、少しばかり面食らった。
「ロウ帝の旅を辿るのであれば、アッピア温泉峡に寄るべきです。そこに一泊しなければなりません」
リネが熱を込めて主張した。
車は旧街道をゆっくりと進んだ。舗装はされているが、ところどころに古い石畳が顔をのぞかせている。
道の両脇には朽ちた里標や、倒れかけた石碑が点々と残っていた。
かつてこの道が王都と国境を結ぶ幹線であったことを思えば、いまの静けさは少し不思議に感じられる。
時おり馬車道の跡を思わせる窪みがあり、そこに雨水が溜まって光っていた。
運転するリネは、明るく人懐っこい性格の娘だった。年の頃は二十代の後半だ。
話しぶりは柔らかく、よく笑うが、語る内容は正確で、驚くほど歴史に詳しい。王都ハロルドの大学で研究員をしており、古代交通網の調査が専門だという。今回の案内もその研究の一環で、実地調査を兼ねているらしい。
「この道の下には、古い石畳がいくつも眠っているんです。最初に中央街道を整備させたのは、兇王と呼ばれたエンゲル王でした。強引な中央集権を進めようとした王で、街道整備もその政策のひとつだったそうです。ロウ帝が最初に旅をしたのは、その百年ほど後ですけど、まだそのエンゲル王の時代の道を使っていたはずです。サタルス朝に入ってから何度も整備されましたが、この辺りは最初の時代の街道跡がそのまま残っています」
そう言って彼女は、見晴らしのいい山道の途中で車を停めると、指さす先に古びた石畳の断片を示した。
山肌の土の中に灰色の石が斜めに並び、わずかに苔をまとって光っている。
確かに、舗装の下に隠れていた古い路面が顔をのぞかせていた。
「これがその時代の名残です。いまでも雨のあとには、下の石が露わになるんですよ」
リネがそう言いながら微笑んだ。
さらに、前方の丘の上に小さく残る石壁を指さした。
「見えますか。あれが当時の王国直轄軍が使っていた物見塔の跡です。ロウ帝が国境から王都へ進んだときも、この道を通ったと考えられています」
当時の王国は、急激に成長したタリオ公国の勢力拡大の影響を強く受けていた。
西の国境沿いには、マルエダ辺境侯を中心とする西方領主群が領地を構え、その背後を王国直轄軍が守っていた。いわば二重の防壁である。
王国直轄軍は、西の公国に対する備えであると同時に、北方のエルニア王国への抑止力の役割も担っていた。
再び車の旅となる。
やがて中央街道は緩やかに南へ折れ、リネはハンドルを切って小さな山道に入った。
舗装は途切れ、両側から樹木が迫ってくる。枝葉の隙間から差し込む光が、車体の上でちらちらと揺れた。
谷を挟んで向こうに、白い湯けむりがかすかに上がっているのが見える。
あれがアッピア温泉峡だと、リネが指さした。
「この先を下ります。観光道路からは少し外れますが、すぐ着きます」
彼女はそう言うと、中央道からさらに外れた細い山道に入った。道幅は魔道車が一台通れるほどしかない。
両脇にはシダが繁り、タイヤの下で小石がぱらぱらと弾けた。木々の合間から谷底の光がちらつき、どこか遠くで湯の湧く音がかすかに響いていた。
やがて道は細くなり、両側から木々が覆いかぶさるようになった。しばらく進むと、急に視界が開けた。谷あいの小さな平地に、一軒の木造の建物が現れた。
看板の文字はかすれて読めない。
知る人ぞ知るという風情の宿で、湯けむりが屋根の裏から静かに立ちのぼっている。
リネは車を停め、慣れた様子で戸口に向かった。
出迎えた年配の女性と親しげに挨拶を交わしている。どうやら事前に連絡を入れていたらしい。
「今日はここで泊まります。ここのお湯が、ロウ帝に縁のある場所なんです」
そう言って彼女は私の方を振り向いた。
宿の女将は笑みを浮かべ、従業員に荷を運ばせると、二階の一室を案内してくれた。木の香のする静かな部屋で、窓の外には谷の緑が広がっている。
荷をほどき、腰を下ろす間もなく、リネが再び現れた。
「岩風呂に行きましょう。夕方の湯がいちばん気持ちいいんです」
そう言って彼女は笑った。その笑顔に促されるように、私は立ち上がった。
宿の裏手に古い湯小屋があった。板壁はところどころ黒ずみ、屋根から湯気が洩れている。入り口には「男湯」「女湯」と木札が下がっていた。
「昔ながらの造りなんです。中は狭いですが、泉質は素晴らしいですよ」
リネがそう言って笑った。私たちはそれぞれの暖簾をくぐり、別々の小さな更衣室に入った。
中は蒸気で満ち、壁には木の棚が並んでいる。衣を畳んで手ぬぐいを取り、奥の戸を押すと、岩に囲まれた湯船があった。
湯は透明で、表面を湯気が覆っている。湯口からは、静かな音を立てて熱い湯が流れ込んでいた。
湯に身を沈めると、山の冷気が肌の上をすべり、身体の芯から温かさが広がっていった。
岩の隙間から差す光が湯面に反射し、天井の板をやわらかく照らしている。
ここがロウ帝が愛した湯なのかと思うと、自然と息を詰めた。
そのとき、背後の岩の向こうで水音がした。振り返ると、湯気の中に裸のリネの姿が現れた。
手ぬぐいを片手に持ったまま、ほとんど裸身を隠すことなく、ためらいもなく歩いてくる。その大胆さに、思わず息をのんだ。
「驚かせてしまいましたね。この湯は昔からの湯なので、男女別ではないんです。男女に分かれているのは更衣室だけですね。中は一緒です。ロウ帝も、妃の方々と一緒に入られたらしいです」
そう言って湯をすくい、掌から落とした。湯の音が岩に響き、谷の風がかすかに湯けむりを揺らした。私はただ黙って頷いた。古の伝承が、いま目の前で、わずかに現実の形を取ったように感じられた。
リネは湯に身を沈めると細く息を吐いた。
湯面が揺れ、その波がこちらの腕に触れた。
思っていたより近い距離だった。
湯けむりの中で、彼女の頬はわずかに紅を帯びている。
「ロウ帝は、各地の女王たちを従えて帝国を築かれましたが、そのぶん常に誰かに囲まれていたといいます。ここでは、そうした喧噪から離れて、心を鎮められたのかもしれません」
彼女の声は湯気に溶けるようにやわらかかった。
「でも、ロウ帝にとって、ここはただの癒やしの場所ではなかったんです」
リネは湯の表面に指先を滑らせた。小さな波が生まれて光を揺らして消える。
「この湯では、誰もが冠を脱ぎ、人として向き合ったそうです。ロウ帝はここで、妃たちをはじめ様々な女性に心を許されました。ここは癒やしの場所であり、情欲の場所でもあったんですよ」
その言葉に返す言葉が見つからなかった。
湯気が濃くなり、外の風が一瞬止む。
いつの間にか、岩間の湯は夕暮れの薄闇に包まれていた。
リネがこちらを見る。
その瞳の奥に、説明しようのない光があった。
「……わたし、歴史の好きな男性が理想なんです。奥様はおられますか?」
私がいないと応じると、リネは静かに笑った。
「だったら、わたしたちもロウ帝と同じように、過ごすべきだと思いませんか。歴史好きの同好の徒として」
彼女は目尻をやわらかく下げ、さらに身を寄せた。私とリネの距離はなくなり、肌と肌が接する。
湯気の奥で、彼女の指がそっと湯を撫でる。小さな波が生まれ、二人のあいだに揺らめいた。
湯気が濃くなり、夕闇が湯面を覆う。谷の静けさの中で、湯の音だけが小さく響いていた。
その音は、遠い昔、ロウ帝がこの湯で聞いたものと同じだったのかもしれない。
翌朝、谷には薄い靄がかかっていた。山肌から立ちのぼる湯けむりが朝陽に溶け、宿の屋根を柔らかく包んでいる。
私たちは早めに荷をまとめて宿を出た。
リネは、昨夜のことなどなにもなかったかのように、いつもと同じ調子で歩いていた。
けれど、なにかが変わっていた。言葉を交わすたび、昨日よりも自然に歩調が合い、互いの距離が少し近くなっていた。
「今日の午後には旧帝都のハロルドに着けると思います」
魔道車が山道を下り始めたところで、リネが言った。
朝の光が髪を透かして輝き、横顔の輪郭を淡く照らしている。
「ところで、今夜の宿はお決まりなんですか?」
私が予定は決めていないと答えると、リネは少し笑った。
「だったら、わたしのアパートに泊まるといいです。旧帝都でもガイドをしますし、その方が合理的ですから」
言いながら、軽く前髪を払った。その仕草に、昨夜の寝室の中で見た表情がかすかに重なった気がした。
車の窓から入りこむ谷を抜ける風が気持ちよかった。
「ところで、わたし、リネ=アステルといいます」
昨日は家名を名乗らなかったので、家名持ちではないのかと思っていた。
だが、アステルという家名を聞いた瞬間、胸の奥でなにかが引っかかった。
歴史好きなら誰でも知っている、有名な名だったからだ。
「アステル?」
私が思わずつぶやくと、リネは唇に微笑を浮かべた。
「ええ。わたしの祖先は、ラン=アステルだと伝わっています。ロウ帝にお仕えした文官です」
その口調には、どこか悪戯っぽい響きがあった。
私は息をのんだ。
ラン=アステル──妃ではないが、ロウ帝の愛妾のひとりと伝えられている女性だ。
元は冒険者ギルドの職員で、ロウに才能を見出され、のちに妻となったイザベラ女王、その姉のエルザ妃、さらに第二代ウラノス帝にまで仕えた。
ウラノスの時代には、女性として初めて宰相の位にまで昇ったと記録にある。
唖然とする私を見て、リネは肩をすくめるように笑った。
「もっとも、確かな系譜は残っていません。でも、古い家系の記録では、ランは未婚のまま子をもうけたとか。その子がロウ帝の血を引いているという伝承があるんです」
そう言って、前を向いて運転をしたまま、あの悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「もしかしたら、ロウ帝は、わたしの遠いおじいさまかもしれません」
悪戯が成功したような笑みを浮かべたその瞬間、朝の光が差し込み、彼女の髪を淡く照らした。
歴史というものが時にこうして、人の姿を借りて息づくのかもしれない──。
そんな考えが、ふと胸をよぎった。
それから、私にとっても、人として三十年の歴史が過ぎた。
妻はいまでも、時折、悪戯のようなことを仕掛けては、私を驚かせる。
エリオス=ヴァンレーン『ロウ帝伝承の地をゆく』より