【改訂版】異世界で淫魔師ハレム【コミカライズ作品】 作:ドン・ドナシアン
王軍騎士の採用試験場は、朝の日差しが眩しいほど強く、砂地が乾いて白んでいた。
十九になったリノは、五度目の受験者として列に立っていた。
今年こそ、という気持ちと、今年が事実上最後だという緊張が胸を締めつけていた。
ふと、隣に立つ少年の手が目に入った。
指先まで真っ白で、鍛錬による固さも血豆も剣ダコもない。
十四歳の初受験者にしては綺麗すぎる手だった。
だが、身体は大きかった。
身長も肩幅もリノより上で、腕も太く、脚も力強い。
鍛えたというより、成長そのものの差が歴然だった。
自分の手に目を落とす。
硬い剣ダコが指や掌にいくつも浮かんでいる。
子どものころから剣を振り続け、血が滲んでも何度も握り直した跡だ。
それなのに筋肉はつかなかった。
腕も太くならず、脚も速くならず、背も伸びなかった。
父の期待が重く背にのしかかる。
テンプル家は騎士爵の家柄で、代々必ず一家から一人以上の騎士を出すことが掟だった。
ほかに子はおらず、父の望みは全部リノひとりに注がれていた。
幼かったころは、その期待に応えられていた。
同じ年ごろの男の子に負けたことはなく、父はいつも優しく褒めてくれた。
その笑顔が嬉しくて、もっと強くなろうと剣を振った。
けれど成長が訪れたとき、すべてが変わった。
リノの背丈はあまり伸びなかったのに、男の子たちは一気に大きくなり、力もつき、勝てていた相手にも勝てなくなった。
父の目が変わった。
叱責ではなく失望が混じるようになり、教える声は冷たく、長く深い溜息がつけ加わった。
「受験者──前へ」
名を呼ばれ、リノは列を出た。
心臓が早く打つ。
今年落ちれば家は掟を守れず、リノ自身も騎士の道を絶たれる。
覚悟はしていた。
だが五年続けて勝てなかった事実は、足取りを重くした。
対面した相手は、先ほどの十四歳の少年だった。
初受験とは思えない落ち着いた構えで、身体つきだけなら騎士見習いそのものだった。
合図が落ちる。
一撃目で腕に衝撃が走った。
二撃目で踏ん張り負ける。
三撃目で少年の木剣が弾みを乗せて押し込んできた。
力の差がありすぎて、受けるだけで精いっぱいだった。
息が浅くなる。
脚が震える。
努力しても筋肉はつかなかった。
力も速さも、いつのまにか周囲に置いていかれていた。
胴を狙う影が横から迫る。
避けたいのに身体が動かない。
木剣が脇腹にめり込んだ。
視界が揺れ、砂の地面が近づく。
「勝負あり」
倒れた身体を起こし、観客席へ戻る。
父が立っていた。
その目には悔しさでも怒りでもなく、乾いた失望だけがあった。
父は舌打ちした。
一言もなく、背を向けて歩き去った。
足音は速く、振り返りもしなかった。
残った母がゆっくり歩み寄った。
目は優しいのに、深い沈みが透けて見えた。
「リノ……努力したのはわかっているわ。でも、もう別の道を探しましょう。あなたは……向いていないのよ。騎士には……」
母は泣かなかった。
泣かないぶん、言葉が重かった。
手のひらの剣ダコがじんと熱を持った。
何年も削ってきた努力が、どこにも届かなかった。
あれは五年前のこと……。
それでも胸の奥にはまだ痛みが残っていた。
息を吸う。
白い床が目の前に広がっていく。
「次はどっちだ?」
その声が白い床に澄んで響き、リノの意識は深い思念の底から急に浮かび上がった。
砂地の残像は霧のように消え、白い床と輪になった侍女たちの姿が目に入る。
イザベラ王女が視線を巡らせていた。
隣には、イザベラ王女の愛人らしいロウという男が黒いガウン姿で腕を組んで立っている。
少し前、イザベラの毒殺未遂が明らかになり、侍女十名はここへ集められた。
そして、このロウが突然現れ、イザベラ王女の侍女を続けたいなら全員が抱かれろと告げたのだ。
リノには今もその意味がうまく理解できないままだった。
考えているうちに、混乱の中で記憶がほどけ、いつの間にか五年前の敗北へ意識が沈んでいたようだ。
「セクト様、大丈夫ですか?」
「セクト様、おかえり」
戻ってきた八人目のセクトが全裸で戻ってきたところである。すでにロウとの性行為が終わって、裸身に白布を巻きつけた侍女たちがセクトにも布を巻きつけていく。
「だ、大丈夫ですわ……。ありがとうございます」
セクトの息は荒く、頬は赤い。
それなのに、目元は柔らかく、どこか満ち足りた色を帯びていた。
「お疲れ様でしたわ。さあ、回復術をおかけしましょう」
なぜか、上機嫌の第三神殿の筆頭巫女のスクルズが戻ってきたセクトに回復のための魔道をかけている。
まったく知らなかったが、あの雰囲気では、このスクルズもまた、ロウの愛人なのだろう。
イザベラ王女の愛人であり、王都神殿の筆頭巫女のスクルズの愛人でもあるロウ──。本当に何者なのだろう。
そして、どうして、それが今回の毒殺未遂事件を解決することになるのだろう。リノにはさっぱりと意味がわからない。
もっとも、王女が抱かれればわかると言うのだから、そのときには納得はできるのだとは思うが……。
「お帰り、セクト様」
「これで仲間ね……。ねえ、あんたはなにをされたの?」
周りの侍女たちが明るい声でセクトを迎え入れている。
ついさっきまで毒と疑心で張り詰めていたはずの暗い雰囲気は、完全に和らいでいた。
輪の中には安堵と、かすかな幸福の匂いさえ漂っているように見えた。
どうして、あんなにみんなは明るいのだろう?
やっぱりわからない。
ロウと侍女たちが、時間を超越する不思議な行動をしているのは確かだろう。
リノからすれば、あっという間に戻ってきた侍女たちだが、雰囲気としてはかなりの時間をロウとふたりで過ごしていた気配だ。
また、男女が愛し合うということは、思っていたよりもずっと良いものなのかもしれないという考えが、ぼんやりと浮かんではいる。
「ぼくが……」
気づいたときには、足が半歩だけ前に出ていた。
しかし、自分の一言を自分で聞いた瞬間、リノははっとして口元を押さえた。
侍女になってからは、ずっと一人称を“わたし”に直すと決めていた。
“ぼく”というのは、騎士を目指していたころだけに許した言葉だった。
父に褒められようと剣を振り、男の子に負けたくなくて、強くあろうとしていた頃の自分が使っていた呼び名である。
剣を諦めたあの日、あの自分に幕を引くために封印したはずだった。
しかし、混乱の拍子に、その封印がほどけてしまった。ついつい、昔のことを回想してしまったことも原因だろう。
恥ずかしさと痛みが同時に胸を刺し、足元がすぼまる。
「……ぼく……か──。リノは、ぼくっ子なのか?」
ロウの視線が興味深そうにリノへ向く。
咎める色はなく、どこか愉快そうな光が宿っていた。
口調は、軽くからかうような調子だった。
「ち、違います……。いまのは……その……間違いで……」
リノは耳まで赤くして俯いた。
それでもロウはふっと笑み、わずかに顎を上げる。
「謝るな。ぼくでいい。それを使ってくれ」
突き放すのではなく、許可するような口調だった。
だが、その一言はリノの胸を強く揺らす。
「……それは、お許しください」
喉の奥がひりつく。
言葉は途切れ途切れになりながら続いた。
「ぼく……というのは……強くなろうとしていた頃の言葉です。もう……使う資格はありませんから……」
騎士になれなかった自分には似合わない。
父に失望され、剣を置いた自分には、もう名乗れない。
リノはそう信じて、何年も封じてきた。
ロウはその答えを聞き、目を細めてリノを見つめた。
からかいとは違う色が、そこに浮かんでいた。
「そうか……まあいい」
ロウがそっと歩み寄り、リノの肩へ腕を回した。
触れられた肩がわずかに強ばった。
そのとき、ふと横のミレイユが半泣きのような表情で睨んでいるのを見た。冒険者嫌いの彼女には、ロウの存在そのものが受け入れ難いのだろう。
その視線には怒りと怯えが混じっており、どこか必死ささえ漂っていた。
「あれ……この手……」
ロウはミレイユの反応を気にも留めず、リノの手を取って指の付け根の硬くなった皮膚を親指でゆっくりとなぞった。
「あっ……」
撫ぜられた手のひらがくすぐったくて、思わず手を引こうと思ったが意外に強いロウの手がリノの手を掴んで離してくれなかった。
「剣の鍛錬の痕だな……。すごいな……。俺は剣が苦手なんだ」
その言葉は軽い調子だった。
だが触れている指先は丁寧で、剣ダコのひとつひとつを確かめているようだった。
「あのう……。ちょっと……」
ぞわぞわする。
単に手に触れているだけだ。それなのに、そこからさざ波のように小さな疼きが身体に拡がっていく気がした。
なんだろう、これ……。
とにかく、危険なものを感じて、手を引くがやっぱり、ロウはリノの手を握ったまま。
「俺は剣はだめなんだよ。エリカにも言われたしな。シャングリアにも剣は諦めろって、笑われたよ」
シャングリア──?
その名前が出た瞬間、リノは眼を大きく開かせた。
「シャングリア様と……親しいのですか……?」
息が縫い合わさるように乱れ、胸の奥が熱く跳ねた。
シャングリア──憧れの女騎士だ。
リノよりも年下だが、かつての王軍入隊試験で垣間見たときの、男性を圧倒して剣を振るう姿はいまでも心に焼き付いている。あれこそ、リノが幼いころから目指していた理想そのものだった。
「親しいどころじゃない。……恋人のひとりだ。シャングリアとは知り合いか?」
ロウはあっさりと答えた。
その言葉が胸の奥に落ちるまでに、すこし時間がかかった。
リノは小さく唇を揺らし、視線を伏せた。
「……ぼく……いえ、わたしが……一方的に知っているだけで……」
「ぼくでいい。まあ、そうだな……。あいつは、そこそこ有名らしいしな。そのうち、うちに来るといい。同じ剣士なら気も合うかもしれない」
ロウはやわらかく笑った。
その一言でリノの胸に再び熱が広がった。
封じていたぼくを許すような声音だった。
「……いえ、ぼ……わたしは、剣士じゃありません。全然……そんなものとは違います……」
だが、リノは小さく首を横に振る。
最後の騎士採用試験のときの父の失望──。蔑むような視線が頭によぎる。
努力しても、騎士にはなれなかった。剣士などではない。
それがリノだ。
「リノは……素晴らしい剣士ですわ。毎日鍛錬を続けて、わたしたちを守ろうとしてくれているんです……。本当に、努力家なんです」
そのときユニクが静かに前へ出た。
声には確かな熱があった。
「えっ?」
リノは驚いてユニクを見つめた。
自分の鍛錬など誰も気に留めていないと思っていた。
それをこうして言葉にされるとは思っていなかった。
「確かに、リノは努力家ですね。二十歳を超えて侍女見習いとして来たのに、いまではベテランの域です。誇っていいことです」
シャーラも続けて口を開いた。
だが、リノは首をゆっくりと横に振った。
瞳が揺れ、言葉を探すように唇が震える。
「誇れるようなものじゃないです……」
リノは胸の前で指をぎゅっと組んだ。
侍女を辞めるという発想は、いまも一度も浮かばなかった。
あの日、父が去ったあと──母だけが必死になって伝手を当たり、あちこちに頭を下げ続けてくれた。
騎士になれなかった自分のために、それでも働ける場を探してくれたのだ。
その仕事を放り出すなど、とてもできない。
これ以上、母を失望させるわけにはいかないという思いが、毎日の鍛錬よりも深く胸に根を張っていた。
「……それに……努力は……身にならないことが多くて……。だから……ただ、頑張るだけで……」
声は弱く、それでも嘘ではなかった。
リノはずっと、自分の努力が届かない現実を噛みしめてきた。
剣を握る手の痛みも、諦めた日の重さも、いまだ胸に残っている。
ロウはその肩を少しだけ抱き寄せ、微笑んだ。
彼の目には、からかいでも同情でもない、柔らかい光が宿っていた。
「そうか、色々とか抱えてそうだな。まあいい。いまは愉しもう」
ロウはリノを引き寄せて、リノの唇に唇を重ねてきた。
唾液ととともに舌が口のなかに入ってきて、リノは面食らってしまった。