【改訂版】異世界で淫魔師ハレム【コミカライズ作品】 作:ドン・ドナシアン
「承知できません」
イザベラは姿勢を正し、アネルザの正面で静かに言い切った。
ここは夜の王妃宮──王家の私的領域である。
つまりは、いまの呼び出しは政務に関わるものではなく、王家の娘としてのイザベラに向けられたものだった。
場所も、謁見の場所ではなく談話室だ。
夕食を終えたのち、定められた刻限に合わせ、イザベラはシャーラだけを伴ってここへ来ている。
アネルザはすでに卓を挟んだ向こう側の主座に座り、背後には十名の王妃侍女が整然と控えている。
緋色の装束をまとったその侍女たちは、一人として呼吸の乱れも見せず、揃った姿勢で壁際に立っている。
一方、イザベラの背後にいるのはシャーラただひとりだ。
王妃宮の静かな灯火は、人数差による圧をさらに強めている。
すでにアネルザから、侍女三名──トリア、オタビア、ダリアを王妃付へ異動させろという一方的な通告を伝えられていた。
だが、いきなりの話に、とてもイザベラには承服できるものではなかった
また、言われた瞬間、イザベラはその理由を理解していた。
毒殺未遂の件だ。
ロウからは「知らぬふりを通して欲しい」と言われているため、侍女たちにも顔には出していないが──アンジュ家とカロー家が、キシダインの差し向けた毒を持ち込んだことはすでに把握している。
そして、今日アネルザが名指しした三名は、まさにその家の娘たちだった。
侍女たちの実家への危険は、すでに取り除かれていた。
タリオの女豪商マアと、ミランダの冒険者ギルドが動き、侍女十人の家々はすべて表向き別件の庇護下に置かれたとロウから報告を受けている。
だからこそイザベラは、彼女たちを守るという一点では安堵していた。
だが、まさか──アネルザが“直接引き抜く”という形で介入してくるとは想定していなかった。
アネルザは、キシダインを王太子に推している人物だ。
三名は毒殺未遂の生き証人である。その三人をアネルザの手の中へ移されるなど、イザベラにとっては看過できない危険だ。
イザベラは胸の奥の冷たさを押し隠し、表情ひとつ動かさず、静かにアネルザを見返した。
「承知できない……ねえ……」
アネルザは、身体を預けているソファの手摺りを軽く指で叩きながら、楽しげとも倦んだともつかぬ声音を漏らした。
「いずれにしても、トリア、オタビア、ダリア。お前の侍女三名を一時的に王妃付へ異動させる。通告はしたからね」
「それを拒否しています──」
「拒否かい。子飼いの侍女を引き抜かれるのがいやなのはわかるけど承知しな。王妃付の侍女なんて、大出世だ.お前はそれを自分の感情で邪魔をするのかい?」
アネルザが形だけ肩をすくめ、首を傾けた。
イザベラは苛立った。
「出世などを白々しい……。アネルザ陛下は、例の件で口封じをされるつもりでは? そうはいきません。彼女たちはわたしが守ります」
イザベラははっきりと言った。
すると、アネルザがわずかに首を傾げる。
「口封じとは物騒だねえ……。なにか、事件でもあったのかい? だったら、王家家族の私的領域の管理は、母たるわたしの仕事だ。徹底して調査しなきゃね。なにがあったのか言いな」
「なにもありません」
イザベラは慌ててそう言った。
二度にわたる毒殺未遂の件は表沙汰にはしてない。表に出せば、オタビアとダリアのカロー家の侍女はもちろん、毒を持ち込んだだけのアンジュ家のトリアも、実家ごと連座で処刑だ。
「そうかい? じゃあ、迂闊なことを言うんじゃないね。表にしたくないようだから、そうしてやってんだよ。つべこべ言うなら、裏を表に返すだけだ、異動なんてないよ。宮廷の衛兵が捜査するだろうさ」
アネルザの言葉に、イザベラは冷たいものが背中に流れるのを感じた。
全てを把握して、アネルザが関係した侍女を名指ししたのは明らかだ。
しかし、絶対に三人を渡すわけにはいかない。
「と、とにかく、その三人を含めて、わたしには政務を手伝う者も身の回りをしてくれる者も、限られた人数なんです。引き抜くのはおやめください」
「ああ、それもそうだね……。お前のところは、下級令嬢や平民ばかりの十人だものね。だからこそ、三人をうちに寄越しな。わたしのところで鍛えてやるよ」
「その間の政務も滞ります。わたしも成人をしました。これからは少しずつ政務を始めていくつもりです」
「尚更じゃないかい。経験の乏しいものだけでなにができるんだよ。三人と交換で、うちから女官もできる侍女を送ってやろう。交差勤務だ。残った若い侍女たちも、そいつらか学ぶことが多いはずだ」
「必要ありません。うちの侍女たちは十分に優秀です」
「生意気言うんじゃないよ。なにひとつ実績もないくせに」
「実績はこれから作ります」
イザベラは表情を崩さない。
アネルザは微笑んでいるが、視線だけは鋭くじりじりと射抜いてくる。
「……お前は王女だよ。本来は、侍女ひとつにしたって、王女に相応しい格があるんだ。下級令嬢たちが身につけている礼式程度で務まるものじゃない。ちゃんとした高位貴族をつけてやる」
「礼法の不足は、わたくしが責任をもって補います。異動の理由にはなりません」
「お前の役割は侍女の教育じゃない。そこのシャーラの仕事だ。でも、そいつそのものが、貴族でもない元冒険者だろうが──」
アネルザが鼻を鳴らす。
イザベラが言い返そうとしたとき、背後に立っていたシャーラがそれを制するように、イザベラの肩に手を置いた。
イザベラが後ろを振り向くと、シャーラが前に進んで、イザベラの座る椅子の横に立つように位置を変える。
「王妃陛下……口を挟んでもよろしいでしょうか」
シャーラがわずかに身体を倒す。
「なんだい。侍女長風情がと怒鳴りたいけど、特別に許してやるよ。なにか反論があるのかい?」
アネルザが足を組んでソファに身体を沈めた。
「発言の許可をありがとうございます。わたしは元冒険者ですが、出身はナタル森林の森エルフの神官家です。人間族社会とは異なりますが、エルフ族社会では、神官は上級貴族に当たります。実家と籍が抜けているわけではないので、いまでも、上級貴族令嬢です」
シャーラが言った。
「えっ、そうなのか?」
シャーラがエルフ族の上級貴族出身など、イザベラも知らなかった。
知っていたのは、冒険者ギルドに所属していた優秀な冒険者だったということだけだ。
「そうなのです、姫様……。別に隠していたわけではないのですが……」
シャーラが申し訳なさそうに顔を伏せた。
「本当のことかい? わたしも知らなかったよ。宮殿に入る者には厳しい調査があるんだけどね」
アネルザもちょっと驚いている。
「エルフ族の都にある太守府に問い合わせていただければわかるかと。神官のボルト家と訊ねれば、わたしを証明するはずです……。ともかく、必要な儀礼はわたしが責任をもって教育をします。問題ありません」
シャーラがきっぱりと言った。
アネルザが肩を竦めた。
「まあ、それはわかった……。だけど、忘れているかもしれないが、わたしは正妃で、お前の母親だ。婚姻していない王女は、王妃の管理下にある。昔からの秩序だよ」
「とにかく、三人とも、わたくしの侍女です。王妃付への異動は認められません」
「認めないねえ……。じゃあ、同じことを言ってやる。認めないというのは認めない。これは王妃として命令だ」
アネルザの言葉に、イザベラの胸の奥がひりつく。
その時、シャーラから再び静かな声が落ちた。
「成人した王女の侍女人事は、王女殿下の権限にございます。しっかりと、王室典範に明記されています。王妃陛下ではございません」
イザベラは横に立っているシャーラを見る。
シャーラは真っ直ぐにアネルザを見ていた。
「……そ、そうです。典範では、独立した宮内部の人事は、責任者の裁量とされている。王妃陛下は王陛下ではございません」
イザベラは息を吐く。
「ああ、なるほどね」
アネルザはゆるやかに立ち上がり、イザベラに笑みを向けた。
「典範に従うというんだね……。いいよ。なら、正規の手続きでいこう」
「……どういう意味でしょうか?」
「典範には、こうも書いてある。『いかなる場合でも王命が優先される』とね」
アネルザは扇の骨を開くように手を広げた。
「すぐに王命にしてやるよ。──お前らは典範に従うんだろう? 自分たちが口にしたことだ。覚悟しな」
アネルザはそう言い残すとそのまま部屋を出ていった。
しまった──うっかりと言質を取られた。
イザベラの顔から血が引いていった。