【改訂版】異世界で淫魔師ハレム【コミカライズ作品】 作:ドン・ドナシアン
「いつまで寝てるつもりなのかしら──?」
鋭い声に、アンははっとして目を覚ました。
直後、大きな金属音が地下に反響する。鉄が打ち鳴らされる、耳障りな音だ。
粗末な木製の寝台に、毛布一枚だけをかけて横たわっていたアンの身体が、反射的に強張った。
息を呑み、薄暗い天井を見上げる。
目を覚ます直前まで、夢を見ていた。
それがどんな内容だったのかは、もう思い出せない。
ただ、かつて王宮で暮らしていた頃の、穏やかな時間だった気がする。
だが、その感覚は覚醒とともに霧散した。
代わりに、冷え切った現実が、ゆっくりと意識を満たしていく。
ここは、キシダイン邸の地下層だ。
そのさらに奥まった一角に設けられた地下牢──。
小さな石造りの部屋の中央には、天井まで届く鉄格子の壁が設置されている。
アンは、その奥側に閉じ込められていた。
夢は消え、現実だけが残る。
アンは、ここが自分の居場所であることを、否応なく思い出していた。
寝台と、一脚の椅子──。壁際に押しつけるように置かれた小さな机。
刑罰を待つ囚人のための房と変わらない。
この場所がアンの居場所になってから、もう二年になる。
「調教の時間よ。寝坊してるなんて、主従ともども懲罰決定ね」
鉄格子の向こうで、女が冷酷そうに微笑んだ。
その声を聞いた瞬間、アンの胸が強く締めつけられる。
主従という言葉が指しているのは、アンとノヴァのことだ。
ノヴァは、アンに仕える下働きの娘であり、この屋敷で、アンのそばにいることを許されている唯一の存在だった。
王宮から伴った者のなかで、いまや最後に残った家人だ。
アンがノヴァを大切にしていることを目の前の女はよく知っている。
だからこそ、ノヴァは、アンをいたぶるため遊戯の道具として使われるようになった。
「申し訳ありません……すぐに……」
とにかく、すぐに身を起こして、視線を向けた。
軽く手で髪をすいて起きあがる。
女は、アンと同じ顔をしていた。
同じ髪、同じ目、同じ輪郭。
だが、その身には、アンがかつて王家から持ち出したドレスが着られている。
柔らかな布地。仕立ての良さがひと目でわかる装い。地下の冷たい空気の中で、それだけが場違いに映えた。
また、女の腰には、細い金属の杖が差されている。
鞘も飾りもない、簡素な棒状のそれ。その隣で、いくつもの鍵を束ねた金属が、わずかに揺れて音を立てた。
その音を聞いただけで、アンの背筋が強張る。
この半月ほど、毎日のように繰り返されている光景だ。
目の前の女から受ける、理由のわからない調教という時間だ。
なぜ受けさせられているのかは、説明されたことがない。
だが、拒むという選択肢が存在しないことだけは、よく知っている。
拒めば、代わりにノヴァが傷つけられる。実際に、最初のときに拒絶すると、アンの目の前でノヴァが痛めつけられた。
それ以来、アンはこの女に逆らうことをやめた。
もっとも、脅されていなくても、逆らえる立場ではない。この屋敷にアンの味方はおらず、キシダインの愛人らしいこの女は、いくらでもアンを自由にできるのだ。
けれど、アンの身代わりに、ノヴァが受けた残酷な仕打ちを見させられたのは決定的だった。
もう一度耐えることはできない。
逆らえば、ノヴァが酷い目に遭う。
死を選ぶこともできない。
キシダインやこの女のことだ。そのときには、ノヴァを残酷に殺すに決まっている。
ノヴァを殺させないためには、アンが彼らに従順して逆らわないことしかない。
アンは身につけていた粗末な貫頭衣に手をかける。
それを脱ぐと、ほかにはなにもない。
下着すら与えられていない完全な裸体が、地下の冷気にさらされる。
全裸のまま、鉄格子の前に進み、正座した。
そして、床に額をつける。
「アン様、この無能に躾をお願いいたします」
声は震えないようにした。
”アン”というのは、この屋敷では自分ではなく、なんらかの手段でアンそっくりの外見を手に入れた女のものである。
アンは、目の前のアンをそう呼ぶことを強要されている。
そして、無能──。
名前を呼ばれることがなくなったアンに与えられた呼び名だ。
アンという名は、この屋敷では、鉄格子の外にいる女のものだ。
夫であるはずのキシダインも、家人たちも、アンを名で呼ぶことはない。
彼女がアンだ。
アンは、ただの「無能」だった。
「ほら、無能。さっさと出なさい。懲罰が重なるわよ」
女が吐き捨てるように言った。
懲罰──。
その言葉を聞いた瞬間、アンの身体がなにもされる前から強張る。
一日のほとんどを、部屋を出て調教を受けるか、この檻の中で過ごしている。
時間の感覚は、とうに失われていた。
いつが朝で、いつが夜なのかも、わからない。
それでも、いつもなら調教の前にノヴァが来る。
泣きそうな顔で、囁くように告げてくれるのだ。
もうすぐ、調教の時間です……と。
だが、今日はノヴァが来なかった。
頭を床につけたまま、アンはそのことに気づき、胸の奥がざわつく。
なにかあったのだろうか。
いつもなら、必ず来るはずなのに……。
この屋敷の地下には、この女のほかにも、アンを見張る大勢の男の家人が詰めている。
彼らはアンを傷つけることは許されていないが、ノヴァには制限がない。
ノヴァはなにも教えてくれないが、アンの服が切り刻まれていたり、傷ついていたり、男の精液の匂いを漂わせていたりしているのは、珍しいことじゃない。
不安が、じわじわと広がっていく。
鍵束が鳴る音が、再び近くで響いた。
アンは、頭を床につけたまま、次に来るものを待つしかなかった。
「出てきなさい、無能」
顔をあげると、鉄格子に取り付けられている牢の扉が解放されていた。
もっとも、扉とはいっても、胴体の高さと幅をほんの少し通せるだけの大きさしかない。
だから、出るのも、入るのも、床を這った惨めな格好で這い進むしかないのだ。
「遅いわよ──」
しかし、恥辱に耐えながら、なんとか頭と胸と外に出した瞬間、すさまじい圧が頭の上から襲ってきた。
「あっ、いやっ」
一瞬、なにが起きたかわからなかったが、頭を思い切り女から踏みつけられたのだと悟った。
「これは、もたもたしていた分の懲罰よ。調教の開始に寝ていた罰は後でたっぷりと加えてあげるわ」
首の後ろに金属の先端のようなものが当たるのを感じた。
「あっ、お、お待ちください──」
なにを指されたのがわかって、血の気が引いていき、反射的に哀願の言葉を叫んでいた。
しかし、次の瞬間、容赦のない苦悶が首に襲い、それが全身を貫いた。
「──あぐっ、んぐううっ」
悲鳴が、勝手に喉を裂いた。
首の後ろに触れた瞬間、内側がひっくり返る。
なにかが来た──そう思った時には、もう遅い。
痛みではない──。不快さ──とも違う。
身体の中に、逃げ場のない苦痛だけが一気に流れ込む。
踏みつけられた頭が床に押しつけられる。
わずかに動いた瞬間、内側が跳ね上がった。
「ああっ……あ……っ」
声にならない音が漏れる。
息を吸うだけで、苦悶が増える。
首に当てられた金属──そこから苦悶そのものが生まれている。
何度も受けている──。
肌はなにも変わっていない。しかし、身体の内側と心にだけ、続けざまに苦痛が叩き潰されていく。
「命令にすぐに実行しなければ、いまみたいに罰よ。身体で覚えるのよ。可哀想なノヴァのためにもね」
首元から金属が離れていく。アンの身体から力が抜けた。
床に伏したまま、浅い呼吸だけが続く。
内側に残った歪みが、すぐには消えず、遅れて意識を揺さぶっていた。
「これを前後の穴に導入しなさい。もたもたしたら、わかるわね?」
淡々とした声が、上から落ちてくる。
乾いた音が二つ床に転がった。
革が石床に当たる鈍い音だった。
大小二本の、革製のディルドだ。
これまでに、何度も見せられ、使わせられてきた。用途も、結果も、身体が覚えている。
「潤滑油はないわよ……。自分で出しなさい。始め──」
拒む余地はない。
アンは、震える腕で床に手をつき、とりあえず、身体の全部を牢から出すと、女の足元に身体を起こして、立て膝の格好になった。
すぐに床の二本に手を伸ばした。
やることはわかっている。
乾いた股間や尻穴にそのまま革のディルドなど入らない。自慰をして股間を濡らして、それを潤滑油にして自分で挿入しろということだ。
拒む余地も、時間も与えられていない。
跪く体勢のまま、片手で乳房を揉みしだき、残る手で股間に指を伸ばして、愛撫を始める。
「あ、ああ……」
元王女の自分が惨めな自慰をさせられる。しかも、ディルドを埋めるために──。血の凍るような恥辱であるはずなのに、この女に与えられる調教により、気がつくと、アンの身体は単純な愛撫にも激しく反応をしてしまう淫らなものになっていた。
屈辱だとわかっているはずなのに、意識の隙間に歪んだ感覚が流れ込んでくる。
それを拒めなくなっている自分にすでに気づいている。
いまも抑えきれなかった声が、短く漏れた。
「すっかりと見る影もないわね。情けないこと……。これが元は王女だったなんて驚きよ。あの小間使いも淫乱な身体をしているけど、本当にお似合いだわ」
女が哄笑する。
アンはまるで操心術にでもかかっているかのような強い被虐の快感のまま、乳房と股間を愛撫して自分を追い詰めていく。
次第に、五体は痺れきり、自分がいまどういう状況かもわからなくなっていく。
「ああっ、あ、ああ……」
気がつくと甘い声をあげていた。
こんな浅ましい声をあげるなど、王宮時代には考えられないことだった。
いつのまにか、全身は汗みどろになる、喘ぎも荒々しくなっていく。
そして、ついに快感が突き破られて、熱い感覚で全身が押し包まれた。
「あっ、ああ……」
眼がくらみ、背筋に冷たい汗が走って下腹部が火を吹いたように熱くなる。筋肉がびんと硬直して、次に発作的な痙攣が襲ってきた。
「もういいんじゃないの? まさか、許可もなく極めようというんじゃないでしょうね、無能?」
はっとした。
慌てて手を局部と胸から離す。
夢中になって、我を忘れて自慰に没頭していたという事実に、羞恥は走る。
「す、すぐに」
床のディルドのうち、まずは小さい方を手に取り、自分の股間の蜜をディルドの表面に塗りたくっていく。
なんという浅ましい行為なのだろうと屈辱で血も凍る。でも、いまはその恥辱が快感になっていく。
後ろに手をやって、お尻の穴にディルドを埋めていく。
「ん、んん……」
少し前には、お尻に異物を入れるなど痛みでしかなかった。だが、いまは遙かに快感が大きい。
浅ましい身体にされてしまったのだと思う。
次は、大きい方のディルド──。
こっちはすでに膣が濡れているので、ディルドの表面に蜜を塗る必要はない。
すぶすぶと埋まっていき、すぐに根元まで押しこんだ。
「お、終わりました……アン様……」
荒い息を整えながら、正座をして頭を再び床につける。
身体はまだ震えているのに、命じられた姿勢を崩すことだけはできなかった。
「本当に、滑稽ね。ハロンドール王家の女は、どうしてこうも同じなのかしら。理性を失い、命令も忘れて、勝手に達しようだなんて。まるで躾の行き届いていない獣ね」
頭上から、冷え切った声が落ちてくる。
アンは、言い返す言葉を探そうとしたが、口を開くことすら許されていないことを思い出す。
否定も弁解も、ここでは罪になる。
そのとき、金属が床に落ちる乾いた音がした。
視線を上げることは許されていない。だが、音の位置と重さから、なにが置かれたのかは理解できた。
「姿勢を崩していいわ」
女の言葉を受けて顔をあげる。
頭の前に、二組の金属の枷があった。
短い鎖で繋がった金属の手錠だ。枷の部分は開いているが、一度締めれば、女が魔道で解錠されるまで外れることはない。
「左右それぞれ、足首と手首を繋ぎなさい」
命令は簡潔だ。
拒否という選択肢が存在しないことを、アンはよく知っている。
アンは、言われたとおりに自分を拘束した。
鎖が張り、右手首と右足首、左手首と左足首が離れなくなる。
自然と身体は前に折れ、お尻を天井高くあげる無様な姿勢に固定された。
胸の奥に、別の種類の冷たさが広がる。
ディルドの埋まった秘部とお尻を曝け出す格好──死にたくなるような羞恥の格好に身体が熱くなる。
「そのまま歩きなさい──。廊下を出たら左よ」
淡々とした声が告げて、女が手にしていた懲罰杖がアンのお尻の横殴りに一閃した。
「ひんっ──わ、わかりました」
慌てて前に進む。
廊下に出る扉は開放されている。気配から、廊下にはいつもの見張りの家人たちが集まっているのはわかったが、アンには拒む手段はない。
お尻を高くあげたまま、四つん這いで歩き進む。
「……ほほほ、無能のお前には、その恥ずかしい格好で男たちを愉しませることくらいしかできないんだから、たっぷりと恥知らずな股を見せつけてやるといいわ」
女がまた、尻を杖で叩く。
「くっ──は、はいっ」
少しでも速度が遅くなれば、後ろから叩かれるのはわかっている。もちろん、単なる督促やアンに屈辱を覚えさせるためだけでも、鞭は飛ぶ。
廊下に出た。
顔をあげなくても、視線の重さだけでそこに人が集まっているとわかる。
触れられることはない。キシダインが家人たちについては、アンに直接触れることを禁止しているのだ。
だが、遠慮のない揶揄や囁き、息遣いが、アンの心を容赦なく抉る。
アンは、目を伏せたまま、四つん這いで歩き進んだ。
向けられているものが、好奇でも憐憫でもないことは、痛いほど伝わってくる。
それを理解させるための場であり、行程なのだと、頭が冷たく冴えていく。
「次を右よ──」
背後から、再び鞭の合図──。
立ち止まることも、振り返ることも許されない。
アンは、歯を食いしばった。
女の命令のまま、アンは地下層の廊下を進み続けた。
手を床につけ、身体を折り曲げたままの姿勢で、ただ前へ、ただ前へと。
どこへ向かっているのかは告げられない。
曲がり角をいくつも越え、冷たい石床の感触だけが、一定のリズムで身体に刻まれていく。
やがて、見覚えのある最初の扉の前に戻ってきたとき、アンは遅れて理解した。
地下層の廊下を、ただ一周させられただけなのだと……。
だが、終わりではなかった。
女は何も言わず、再び進めと尻を棒で打擲する。
同じ道を……同じ姿勢で……もう一周──。
しかし、歩みを重ねるうち、アンの内側に、違和感が芽生えた。
最初は、かすかなむず痒さだった。
だが、意識した瞬間に、それは逃げ場のない感覚へと変わる。
掻こうとしても、手は床から離れない。
姿勢がそれを許さない。
どうにか紛らわせようとして、アンは無意識に身体に力を込め、腰をわずかに揺らしていた。
だが、このときには、アンは肉体になにかの細工をされたことは確信していた。
さもなければ、こんなに急に痒みが襲いかかってくるわけがない。
「どうしたの、無能?」
背後から、女の嘲る声が落ちる。
「あ、ああ……で、できれば、罰をお与えいただけないでしょうか……」
「どうしたのよ。自分から罰が欲しいだなんて。でも、欲しいなら、それを与えるのは罰じゃないわね。叩いてなんかあげないわ」
「で、でも……お慈悲を……。ああっ、痒い──。か、痒くて……我慢できないんです──」
やがて、すぐに堪らない痒みになってしまった。
アンは悲鳴のような声をあげてしまった。
「ふふ、わたしは命令したかしら? そんなふうに、恥知らずに尻を振りながら歩けなんて」
「で……でも、なにか……変で……。我慢、できなくて……」
アンは、言葉を選ぶ余裕もなく、息を詰まらせた。
すると、女の嘲笑が廊下に響き渡った。
「そうでしょうね……。いくらなんでも、そろそろ効いてきたはずだもの」
「えっ?」
「お前が二つの穴に飲み込んでいるディルドには、たくさんの細かい穴があって、中にたっぷりと掻痒剤が仕込んであるのよ。体温で温めるうちに溶けて流れ出したということだわ」
「そんな……」
掻痒剤──。
その単語を聞いた瞬間、アンの思考が一瞬、白くなった。
「淫乱なお前のことだもの。この媚薬で苛められると考えるだけで狂ったように発情するでしょう? わかったかしら?」
「ああ……」
アンは痒みに腰を振りながら絶望の声をあげた。
説明を聞いたところで、納得するどころではない。原因がわかっても、アンにはどうしようもない。
痒みはどんどんと大きくなっていく。
「ア、アン様──もう狂いそうです。どうにかしていただけないでしょうか」
アンは哀願した。
「準備運動には十分のようね……。そこよ──その部屋に入りなさい──」
女は歩みを止め、見慣れない扉を指さした。
これまでの入ったことのない地下層の扉が開かれる。
その先に広がっていたのは、地下とは思えないほどの広さを持つ大広間だった。
中央には、玉座を思わせる椅子が据えられている。
そこに、足を組み、悠然と腰掛けている男がいた。
窮屈な前屈の体勢のまま顔を前に向ける。
椅子に座っていたのは、キシダインだった。
「この忌々しい無能め──。さっさと、こっちに来い──」
キシダインの苛立った怒声が広間に轟く。
その声を聞いた瞬間、アンの胸の奥が冷たく沈んだ。
「さっさと行きなさい、無能」
後ろから女が声を掛ける。
アンは、命じられるまま、広間の中央へと進み出る。
背後では、女の気配がぴたりと張りついていた。
なんとか、必死に手足を動かして、キシダインの足元に向かった。途中、一箇所だけひどく床が濡れている場所があったが、注意深くそれを避けて、キシダインの足元に辿り着く。
すでに、アンの全身は痒みと疼き──そして、前屈の四つん這い歩きの疲労により汗びっしょりになっていた。
「キ、キシダイン様……無能で……ございます。この無能に調教を……お与えください……」
アンは、決められている挨拶の言葉を口にしながら、広間の床に伏したまま、身体を揺らした。
堪えようとするほど、内側にじわりと広がる痒みが意識を乱す。
「……なんだその様は? みっともなく腰を振りおって。さかりのついた雌犬か? どいつもこいつも、この国の王家の連中は淫売揃いよ」
キシダインの声が、低く落ちる。
「……うっ、くっ」
アンは歯を噛みしめ、返事を飲み込んだ。
痒みはすでに狂おしいものになっている。膝が無意識に擦れる。
「お前にしても、元は王妃の娘だという自覚もないらしいな……。いや、あの母親だからこそか」
キシダインが声をあげて笑う。
視線が突き刺さる。
「……っ、あ……」
短い息が漏れた。
それだけで、身体の奥がざわつく。
「王妃──。偉そうに俺に説教しておいて、その血が生んだのがこれよ」
キシダインは、苛立ちを隠そうともせず、椅子の肘を指で叩いた。
アンの肩が跳ねる。
キシダインは、いつも以上に、苛立ちが剥き出しになっている。
しかし、その理由を考える余裕すら、いまのアンにはなかった。
「……出来損ないしか産めなかった女が、王妃面で俺を叱る──。反吐が出るな」
「……ああっ、あ……あっ」
言葉を挟もうとした瞬間、痒みが強まり、声にならなかった。
「どうした。聞いているのか、無能?」
「き、聞いております……。でも、痒みが……が、我慢できなくて……」
アンはキシダインに訴えた。
「痒み?」
キシダインがわずかに首を傾げて、いまはアンの横に位置している女を一瞥した。
「この無能が浅ましくも、掻痒剤をたっぷり入れたディルドを自分で挿入しましたの。そのために苦しんでいるようですね」
女がキシダインに報告する。
キシダインが爆笑した。
「それで身体が反応しておるということか……。なるほど、アネルザに偉そうにされた腹癒せに、この無能を死ぬほどに鞭打って鬱憤を晴らしてやろうかと思ったが、鞭の代わりに痒みで苦しめるというのもいいな」
キシダインが笑い続ける。
「……あ、あ……っ。も、もう……お許しを……」
言葉にならない声が、喉からこぼれ落ちた」
痒みに耐えられずに、必死にディルドを締めつけているのだが、締めつければ締めつけるほど、ディルドの中から液剤が染み出て痒みが助長される気もする。
もう余裕などない。
「いいや、許すものか──」
だが、キシダインが即座に切り捨てる。
「お前もそうだし、お前の母親もな──。お前のような無能を嫁にさせられた俺だが、いずれはこの国の王になる。王の宝珠にお前の血を注ぎさえすれば、お前など用無しだ。そのときこそ、殺してやる。だが、母親も同じだ──。王になれば、あれも不要。必ず殺してやろう」
キシダインが言い放つ。
やはり、アネルザとのあいだに、なにかあったのだと思った。いつになく、キシダインは攻撃的だ。
しかし、それ以上のことを考える余裕は、もうアンにはなかった。
「ああ、痒い──。も、もう殺してください──。殺して。毎日、どうしてこんな目に遭わせるの──。どうして──」
アンはついに泣き叫んだ。
官能の芯を抉られるような痒みの苦悶に、我を忘れたようになってしまった。
「お前が死んだら、可哀想なノヴァは、もっと残酷な目に遭って死ぬのよ。それでもいいの、無能?」
横の女が静かに声をかけた。
はっとした。痒みで狂いそうになっていた頭が一瞬で冷える。
ノヴァ──。
その名が、痒みに歪んでいた思考を一瞬で凍らせた。
あの娘には、幾度も逃げなさい、と言った──。
それでも、ノヴァは離れなかった。
どんな仕打ちを受けても、どんなに泣いても、アンのそばを選んだ。
この屋敷の地下層における監禁が始まったのは、約二年前だ。
きっかけは、おそらく、実母であるアネルザの法案なのではないかと思う。
魔道がないために王位継承権を放棄して、キシダインと婚姻をしたアンであったが、魔道のある夫キシダインとともに「王位共同継承権」を認めることで、継承権を復活できるとしたらしい。
その話をキシダインを通じて持ち出されたとき、アンは首を縦に振らなかった。
魔道力を持たない第一王女として、王位を望まないことは、ずっと以前に決めていた。
イザベラこそが王太女になるべきだと、それだけは譲らなかった。
その拒絶が、キシダインを激怒させた。
説得でも、恫喝でもなく、即座に暴力と監禁に切り替えたことをアンは忘れていない。
タリオから持ち込まれた禁忌の呪法──。
姿だけではない。声も、癖も、仕草も、魔道鑑定さえ欺く偽りのアンを仕立て上げたのだ。
完璧な替え玉が用意されると、本物のアンは地下へ落とされた。
それでも、アンは殺されなかった。
キシダインは、アンを殺せないのだ。
王権の象徴である宝珠は、血を欺けない。
どれほど精巧な偽者であっても、最後の儀式だけは、本物の王家の血が必要なのだ。
だから、その儀式のためだけに生かされている。
壊されない程度に──。
狂わない程度に──。
考えることを拒絶する人形にして、素直に儀式で血を刻ませるように……。
しかし、アンは最後まで拒むつもりだった。
だが、ノヴァがいた。
逃げなさいと命じても、殴られても、穢されても、それでも側にいた存在がいた。
だから、キシダインに応じた。
最後の儀式には協力する……と。
ただし条件をつけた。
ノヴァを殺さないこと──。
隷属の魔道も、操心の術もかけないこと──。
それが破られた瞬間、どんな拷問を受けようとも協力しない──そう言い切った。
キシダインは不快そうに笑った。
だが、その条件を呑んだ。
いまのところ、ノヴァは生きている。
そして、アンも生きている。
それだけが、支えだった。
だが、そこまでだ。
痒みが、再び内側から蠢いた。
回想は苦悶によって引き裂かれ、現実が否応なく押し戻される。
「ああ……お願い……どうして、こんなことをするの……。もう、ノヴァさえ無事なら……わたしは協力すると言っているじゃない……」
アンは床に伏したまま、泣きじゃくるように訴えた。
声は掠れ、言葉は途切れがちになる。
「それはねえ……」
女は、はっきりと言い切った。
「お前が、まだ考えることができるからよ。王権神授の儀式まで、あと何年あると思っているの? そのあいだ、考える暇なんて与えない。間断なく調教を続ければ、いずれ思考そのものが擦り切れる。そうなれば、命じられたとおりに血を差し出すだけの存在になるわ」
そこには、怒りも嘲りもなかった。
ただ、当然の未来を説明するような冷たさだけがあった。
「ああ、そんな……」
アンは、気が狂うほどの痒みに身体を悶えさせながら、返す言葉を失った。
痒みが、再び意識を掻き乱す。
「まあよい。とにかく、今夜は気分が悪い。この無能を使って、なにか余興をしろ、アン」
キシダインが苛立ちを隠さずに言い放った。
もちろん、その呼び名が指しているのは、床に伏すアンではない。アンの横に立つ偽者のアンのことだ。
「承りましたわ……。今夜はとても愉快で……ええ、本当に愉しい遊びをご用意いたしましょう」
アンと同じ姿をした女が、淡々と応じる。
「おう、好きにやっていいぞ」
キシダインは椅子の肘掛けに腕を投げ出した。
女は、床に伏すアンへと視線を落とした。
「この主従は、一緒に扱うことで、愉しさが際立つのです」
「……確かにな」
キシダインが、鼻で笑う。
「ですから……」
女が意味ありげに、前屈の姿勢で床に近い位置にある顔をアンに向けた。
アンは訝しんだ。
「……そろそろ、ノヴァをおろしましょうか?」
おろす──?
どういう意味だろうと──考えたときだ。まさかと思って、慌てて視線を天井に向けた。
「ああ、ノヴァ──」
アンは怖ろしい光景を見て悲鳴をあげた。
この地下層の広間は、吹き抜けのような高い天井の構造になっていたのだが、その天井近くにノヴァが吊り下げされていたのである。
しかも、両手と両足を背中側でひとつに束ねられた全裸であり、顔を下に向け、胸や腹をアンに向かって晒しているのだ。
いわゆる、逆海老吊りだ。
「あ、ああ……ノヴァ──なんて、可哀想に──」
アンは悲痛な声をあげた。
天井に吊られているノヴァはまるで意識がないかのように身動きしない。
また、口には丸いボールギャグを装着されて、悲鳴さえ封じられていた。
「案じる必要はない。気を失っているだけだろう。お前との約束だから殺しはせん。ただ、少し前まで呻き声とともに、涎を垂らしていたが、それも乾いたのか、いまは涎どころか汗も流れんようだな」
キシダインが大笑いした。
アンはびっくりした。
さっき、床を四つん這いで這い進んだとき、随分と濡れている床があったと思ったが、それはノヴァの苦痛の涎と汗だったのだ。
しかも、それすらも流れなくなるなんて、どれだけ長く、あの格好で吊られているのか──。
「ああ、お願いです。ノヴァを許してあげてください。死んでしまいます」
アンは絶叫した。
「もちろん、おろすわ。愉しい余興のためにね……。その代わりに、しっかりと励むのよ……。もっとも、お前にとっても、ノヴァにとっても、いままでで一番長い夜になるのは間違いないでしょうけど」
女が酷薄に笑った。