【改訂版】異世界で淫魔師ハレム【コミカライズ作品】 作:ドン・ドナシアン
【歴史余話5】スクルズ殉教の碑
「これが、そうか?」
思わず口に出た声は、問いというより確認に近かった。
大通りから外れ、雑居ビルの間を縫うように歩かされ、路地のさらに奥へ入った先だ。意識して探していなければ、通り過ぎてしまう。そこに、石が一本、控えめに立っている。
あの有名なスクルズの殉教の碑が、これだという。
あまりにも質素だった。
供花もなく、囲いもなく、説明板すら見当たらない。記念碑という言葉から連想する、あらゆる要素が削ぎ落とされている。ここが王国史の中で繰り返し語られてきた聖女スクルズの殉教の地だとは、にわかには信じがたかった。
「ええ。ここです。もちろん、後代に作られた記念碑や記念施設は多くありますが、もともと、ここが最初で、殉教の地そのものに建っているのは、間違いなくここです」
隣に立つリネは、あっさりとそう答えた。
「思っていたよりも、ずっと……」
言葉を探して、途中でやめた。派手ではない、とか、簡素だ、という表現では足りない。省みられていない。その感触のほうが、正確だった。
「ここは奥まっていますから……。通りから見えませんし、用事がなければ、わざわざ入ってくる場所でもありません。それで、もっと多くの観光客が集まりやすい場所に、新たに別の碑が後代に建てられたんです。それは有名ですからご存じですよね」
もちろん、そちらの方は知っている。太陽宮公園と並んで、旧王都の有名な観光地のひとつであり、観光案内に載るのもそちらだ。しかし、「本物」がこんなにも寂しい場所にあり、人もほとんど訪れないとは思っていなかった。
「随分と扱いが軽いな」
思ったままを口にすると、リネはすぐには否定しなかった。
「軽い……というよりも……。いまでも扱いに困っている、というほうが近いかもしれません」
なるほど、と思う。撤去されたわけでも、顕彰されたわけでもない。ただ、都市の隙間に押し込まれている。責任を持って保存するほどでもなく、しかし消してしまう理由もない。そういう場所だ。
「殉教をした聖女なのにな」
「はい。いまでも人気はありますよね」
聖女スクルズの名は、当時の偉人たちの中でも、もっとも有名で、人気のある人物であることは間違いない。美貌であったらしいこと、民衆に愛されていたこと、そして若くして処刑されたこと。その不幸が、後世の評価をいっそう押し上げた。彼女の名を冠した施設は、王都にも地方にも数多く残っている。学校、治療院、慈善施設。その中でも、スクルズ記念国際図書館はとりわけ有名だ。
そのことと、目の前の風景が、どうにも噛み合わない。
「それなのに、肝心の場所は、ここか」
「ええ……。名前は使いやすいんです。残すのも難しくありません。でも、場所となると、都市開発との関係も出てきます。ここは、まだ失うところまでいっていませんけど」
路地の影は、昼間でも濃い。大通りへ出れば人の流れはあるが、ここだけが都市の循環から外れている。その隔たりが、この場所の来歴を雄弁に語っているようだった。
「歴史って、大切なのにな」
「でも、困ることも多いのです」
スクルズの名は、いまも生きている。その一方で、彼女が命を落とした場所は、こうして静かに歴史の裏側へ回されている。その落差に、驚いている自分自身を、少しだけ客観的に眺めていた。
石碑に近づくと、足元の空気がわずかに変わる。路地の奥に溜まった埃と油の匂いの中で、石だけが妙に乾いていた。指で縁をなぞり、刻まれた文字へ視線を落とす。
風雨に削られ、角は丸い。それでも、名前はまだ読めた。
最初に刻まれているのは、女王イザベラ。その下に、連名でアネルザ。簡潔な文言で、余計な修飾はない。殉教を称える言葉も、信仰を鼓舞する言い回しも、最小限に抑えられている。
だが、そこにあるはずだと思い込んでいた名が、見当たらなかった。
「……ロウ帝の名がないな」
「当時は、まだ皇帝ではありませんでしたから」
「そうだったか?」
「聖女認定が行われた時点で王位にあったのはイザベラです。碑文として残すなら、女王名義になります。形式としては、自然です」
納得はできる。だが、違和感は消えない。
「それでも、アネルザの名が連なっているね」
「ええ……、アネルザ妃は、長く権力の中枢にいた人物です。イザベラの治世も実務の多くは彼女が担っていた。そう解釈するのが、いまの通説です」
支えた。後ろ盾だった。歴史書で見慣れた言葉が頭をよぎる。
「けれど、王妃だったアネルザは、王太子の座をイザベラがキシダインと競っていたとき、必ずしもイザベラを女王として積極的に後ろ盾していたとは言い切れない、という見方もあります。ご存じですか?」
「どういう意味だ?」
「アネルザ妃が対立候補だったキシダインを推していた可能性です」
「まさか」
「もちろん、主流な学説ではありません。ただ、当時のキシダインの妻はアネルザの実子であるアンでした。その一点だけを見れば、あり得ない話ではないと思います」
「信じがたいね。アネルザとイザベラの昵懇さは、有名だ」
「でも、歴史上の人物像は、所詮はあとから整えられたものです。関係性も感情も、わかりやすい形に……。実像がどうだったかは、案外、別だったというのは、よくある話でしょう」
石碑の文字に、もう一度目を戻す。連名で刻まれた名前は、協調の証にも、距離の印にも見える。
「スクルズも、同じかもしれませんよ」
「どういうことだ?」
「聖女として確立した像の向こうに、別の顔があったかもしれないということです。実は、自由奔放で、随分と弾けた女性だったとか」
「スクルズの人物像について、そんな異説もあるのかい?」
私は驚いてしまった。
「いいえ。ただの、わたしの妄想です」
路地にリネの明るい笑い声が響く。雑居ビルの影は濃く、昼間でも石碑は半分ほど闇に沈んでいた。
名は残りやすいが、場所は忘れられる。リネの言葉が心に残る。
また、歴史への残り方にも、時代の意思が滲む。
なにを語り、どこを語らずに済ませるか。その選別の積み重ねこそが、歴史を作っていくのだろう。
スクルズが命を落とした場所は、まぎれもなくここだ。
それでも人々が思い浮かべる殉教の地は、別の場所にある。
案内書に載り、花が手向けられ、語られるのは、そちらの方だ。
同じことは、人にも起きる。
アネルザはイザベラの後ろ盾だった、と歴史は語る。
だが、その像がいつ、誰によって、どのように整えられたのかまでは、ほとんど問われない。
場所も、人も、事実より先に、イメージが残る。
残されたものが正しいのではなく、残しやすい形だけが、生き延びるのだ。
この路地の奥に立つ石碑は、そのことを声高に主張しない。
ただ、忘れられかけた場所として、いまも静かに立ち続けている。
エリオス=ヴァンレーン『ロウ帝伝承の地をゆく』より
【歴史余話4】を、「22話 第三王女の夜這い命令」の前にも挿入してます。よければ、そちらもどうぞ。