【改訂版】異世界で淫魔師ハレム【コミカライズ作品】 作:ドン・ドナシアン
228 襲撃余話
第一神殿の常緑の間は、昼の光に満ちていた。
白い石の床と円柱に囲まれた広間の奥、壁一面の大窓から穏やかな日差しが差し込み、床に淡い影を落としている。
大窓の外には緑の樹木が広がり、風に揺れる葉のあいだから、鳥の声が静かに届いていた。
席に着く者たちは動かない。
言葉のない時間が、すでに幾度か置かれてきた沈黙だった。
「キシダイン卿のご懸念は、ごもっともだ」
第一神殿長キログレムが口を開いた。
低く、張りのある声だった。語調は穏やかで、肯定とも否定とも取れる響きだけが残る。
「王都の混乱は、いまだ完全には収まっていない。殉教した第三神殿長の後任を一刻も早く進めることが、王都市民の安寧に繋がることは明白だ。こっちで進めてよいな」
キシダインは椅子の背から身を離し、卓へと上体を寄せた。
「確かにな。市民の心の安寧……。さすがは、ハロルド公キシダイン卿だ。よいことを言う。真に王都市民のことを思っておらねば、出る言葉ではない」
キログレムは言葉を切った。
窓外の緑に視線を向けたまま。
いずれにしても、三度目の会合にして、キシダインは確かな手応えを感じていた。
第三神殿と冒険者ギルドは、あの狂人の騒乱で大きく傷ついた。
この流れを逃す理由は、どこにもない。
新たな第三神殿長として、タリオ公国から呼んだ高位神官を着任させることができれば、キシダインとしては大きな味方を神殿側に入れることになるのだ。
「だからこそ、迅速な体制の確立が必要だ。王宮としても調整に入れる。タリオ公国とも、大神殿とも、私には強い繋がりがある。神殿の負担を減らす形で進められるはずだ」
キシダインは、第一神殿長に身を乗り出したまま言葉を続ける。
「いやいやいや、それは、よろしくありませんよ。あまりにも申し訳ない」
すると、第二神殿長のエルダルが口を挟んできた。拒む口調ではなく、柔らかな声だった。
だが、その一言で、場の流れが止まった。
「なにが、ご懸念ですかな、エルダル神殿長?」
「神殿人事は、あくまで神殿の専管です。王宮に患わせるのは、こちらとしても心苦しい。調整は我らでやるべきです」
エルダルはそう言い、両手を膝に置いた。
言葉は丁寧で、引き取るように静かだった。
「……失礼ですが、タリオ公国との伝手はお持ちであるのか? 同じ神殿とはいっても、長くロームと、ハロンドールとは地域を二分して、神殿をまとめていったはず。タリオ公国出身の私であれば、公国を通して、大神殿とも話を繋げられるのですよ。それに、今回は私を窓口として交渉をしておるのだ」
「ご懸念には及びませんな。タリオ派、ハロンドール派とも呼ぶが、もとはといえば、クロノス神と女神への信仰に代わりはありません。言葉よりも共通するものがあるのです。ご心配なく」
エルダルがやんわりと微笑む。
「ところで……キシダイン卿からのご推薦ですが……」
第三神殿副神殿長ポーランが、そこで口を挟んだ。
視線は卓に落とされたまま、声だけが場に置かれる。
「推薦がなにか? それは、タリオ公国にある大神殿からの推薦人なのだが?」
キシダインはポーランに視線を向ける。
「男性の高位神官ですね。王都三神殿のうち、常に一つは女性の巫女が務めるというのが、古くからの伝統です。第一、第二神殿は現在、尊師キログレム、尊師エルダルが就任中。すると、当然に、第三神殿長には巫女ということになります」
エルダルが小さく頷く。
「ああ、その点は大事ですなあ……。聖典にも、均衡を欠いた座は災いを招くとある――。王宮に王宮の慣例があるように、神殿にも神殿の慣例がある。やはり、人事については、神殿が主体にやりましょう……。まあ、もっとも、卿の申されるとおり、我らが長くローム神殿とは交流に乏しいのも事実。多少、時間を頂きましょうか」
「時間か……。確かにな。大事なことだ。性急に進めるばかりが能ではないな」
キログレムが静かに頷いた。
キシダインは唇を薄く噛む。
「市民の一刻も早い、心の安寧が必要──。前回、それに同意ができたと思ったのだが? まさか、前回の結論を混ぜ返すのか?」
声を荒げる。
すると、キログレムとエルダルのふたりが、椅子に深々と背を埋もれさせたまま。困ったように同時に息を吐いた。
沈黙を破ったのは、第三神殿副神殿長ポーランだった。
「尊師エルダルも申されましたが、神官人事は、あくまでも神殿の専管です。慣例を無視したやり方は受け入れられません。そもそも、王都に神殿が三つ置かれている理由は明確です。クロノス神を迎える神殿と、女神を迎える神殿、その双方を常に備えるために、この配置は守られてきました。すべてを男性の神殿長とすることは、あり得ません」
淡々とした口調だった。そこには、譲る余地が一切ない。
キシダインの胸の奥で、なにかがはっきりと軋んだ。
神殿長など当然に男であることを前提に、すでに話は進めてきた。
タリオ公国とも、大神殿とも、その条件で調整しているのだ。
いまさら、それを覆されるなど、到底受け入れられるものではない。
「それほど明白な話であるなら、なぜ前回に主張しなかった。いや、前々回でもいい。これまで一度も、その話は出ていない」
声は抑えていたが、低く張り付いた怒気は隠せていなかった。
「前回と前々回は、早急な神殿体制の復帰が重要だという点に同意したまでです。具体的な人選については、喩え話だと受け取っておりました」
「……喩え話だと」
思わず、言葉が漏れる。
ここまで積み上げてきたものを、喩え話で済まされたというのか。
そのあいだに、エルダルが穏やかに口を挟んだ。
「まあまあ。落ち着きましょう。立場は違えど、王都の安寧を願う心は同じです。ここは一度、時間を置くのが賢明でしょう」
「確かに、時間は重要だ」
キログレムも、静かに同意する。
だが、キシダインは引かなかった。
「あの第三神殿の醜態を思えば、王都市民のすべてが、一刻も早い新たな体制を望んでおる。これ以上、先送りにする余裕があるとは思えん」
「市民に寄り添っているのは我らも同じ。キシダイン卿に、市民たちの心をお教えいただかなくても結構です」
ポーランは、そう言い切った。
「……なんだと」
気がつくと、キシダインは前に乗り出していた。
「とにかく、一度お互いに持ち帰りましょう。第三神殿については業務上の必要がありますので、当面は神殿側で代理を立てます。神殿長人事については、これからも調整を続けるということで。もちろん、キシダイン卿の顔を潰すようなことはいたしません」
エルダルが話に割って入る。
「確かに……。妥協できる部分があるか、こちらも考えねばな……。私か、エルダルが退くという選択肢もある。つまりは、巫女がひとり、神殿長となればよいのだ」
キログレムが静かに口にした。
「まさか──。あり得ません。尊師方が退くなど。それこそ、市民の心の安寧とは正反対になりますよ」
ポーランが大きな声をあげた。
「そう興奮するな、ポーラン。これは喩え話よ……。いずれにしても、時間を置けば、よい案も出るだろう。では、キシダイン卿、この場はそういうことでよろしいですかな?」
エルダルがキシダインを見る。
キシダインは渋々頷いた。
第一神殿の正面階段を下りると、外気が一気に肺へ流れ込んだ。
夕刻の光が石畳を斜めに照らし、神殿の白壁を淡く染めている。祈りを終えた民が、静かに門をくぐっていく。その足取りは穏やかで、先ほどまでの会合の緊張など、どこにも残っていない。
迎えの馬車が、すでに待っていた。
キシダインは無言のまま乗り込み、扉が閉まる音を合図に、ようやく息を吐いた。
「……忌々しい」
低く吐き捨てる。
「交渉はうまくいかなかったのですか?」
同行の側近が遠慮っぽく訊ねてきた。
「次回以降に持ち越しだ──。してやられた気分だ。しかも、尊師どもではない。あの男だ。ポーランだ──」
向かいに座る側近が、即座に身を正した。
「第三神殿副神殿長でございますな」
「そうだ。あいつがすべてをひっくり返した」
キシダインは、指先で膝を叩いた。
「慣例だの、信仰だの、女神だの……。もっともらしい言葉で包んでいるが、中身は一つしかない。こちらの手を縛り、神殿の主導を守りたいだけだ」
側近は深く頷く。
「卿のお考えのとおりかと」
「尊師キログレムも、エルダルも、あれに乗せられている」
馬車が動き出す。窓の外で、神殿の塔がゆっくりと後ろへ流れていった。
「平民出身の老獪な人物と聞きますね」
「あの場で話を切ったのも、時間を持ち出したのも、すべて計算だ。人事を先送りにし、その間に、神殿内を固めるつもりだろう」
「……危険な人物ですか?」
「危険だとも──。神殿という組織ではない。あのポーランこそが、今回の元凶だ。あれさえいなければ、話はすでに終わっていた」
キシダインは、唇を歪める。
「ならば、手を打たれるおつもりで?」
側近は、一瞬ためらったような間を空けてから口を開いた。
「当然だ」
即答した。
「……あれを調べあげろ。敬虔な神官など絵空事よ。どんな欲があり、なにを求めているのか。それを探れ」
「わかりました……。探ります」
「弱点がなくても作れ。襲撃で名を落とした神殿だ。さらに醜聞が重なれば、なおいい。こっちの思惑通りに進めやすくなる」
「承知いたしました」
側近が静かに頭をさげる。
馬車は速度を上げ、石畳の音が一定の響きに変わる。
キシダインは背もたれに身を預け、目を閉じた。
負けたとは思っていない。
まだ、整理がついていないだけだ。
そう、考えることで、胸の奥の苛立ちを押し込めた。
重い扉が閉まり、キシダインの足音が完全に消えた。
「……まったく、ハロンドールの神殿に、タリオ人の血を入れるだと。冗談ではない」
キログレムが吐き捨てるように言った。
「どこまでも調子に乗る男ですな。神殿を、王宮の延長とでも思っているのでしょう」
エルダルも、苦々しげに続ける。
「いずれにしても、言質は取った。第三神殿長については、神殿長代理でまとめる。そこはポーラン、お前に任せる」
キログレムの視線が向けられる。
「まとめましょう。お任せください」
ポーランは短く答えた。
「ただし、形式上は第三神殿長の協議は続けることになりますな」
エルダルがキログレムの視線を向けて、念を押す。
「続ければよかろう。のらりくらりとな。二年でも、三年でも」
キログレムは意に介さない。
「それは、ずいぶんと気の長い話ですな」
「神も、気短ではないのでな。そのうち、風も変わるだろう」
その言葉に、わずかに笑いが落ちた。
「しかし今回は、ポーランに貧乏くじを引かせたな。あの卿は、なにをするかわからんという噂だ。矢面に立たせてしまったが、大丈夫か?」
エルダルの問いに、ポーランは一拍置いてから口を開いた。
「あのクライドの件では、若い娘が命を張りました。神殿でも王宮でもない場所でです。キシダインの敵意が、せめてあの娘に向かわぬようにせねばなりません。老人には、老人の役割がありましょう」
キログレムとエルダルは、黙って頷いた。
短い沈黙のあと、キログレムがふと思い出したように口を開いた。
「ところで、肝心の神殿長代理の人選だが……スクルズでよいのか? あの娘には、以前、醜聞もあったはずだ。まあ、いまは晴れてはおるが」
「最適の人選かと存じます。クライドとの戦いにおいて、正面に立ち、身を挺して市民を護り、衛兵までも庇う姿を、多くの者が目にしております。かつての醜聞など、もはや存在しません」
ポーランは、ためらいなく応じた。
「ふむ……」
キログレムは顎に手を当てる。
「だが、平民だ。うちのベルズという案もある。あれは伯爵家の出だ。貴族の血が、身を守ることも多いだろう」
エルダルの言葉を受けて、ポーランは静かに首を振った。
「スクルズの強みは、まさに平民である点にあります。王都市民の大半は平民です。彼らは、自分たちと同じ出自の巫女が神殿を預かることに、自然な親近を覚えるでしょう」
「……そのように作為する、ということか?」
キログレムが、わずかに笑みを浮かべる。
「宣伝も、美談作りも、お任せください。事実を、正しく伝えるだけです」
ポーランは平然と言った。
「なるほどな……。老獪なポーランのことだ。任せて間違いないだろう」
エルダルが、ゆっくりと頷く。
「いえ、まだまだ、エルダル様の足下にも及びませぬ」
ポーランは返した。
「では、その線で行こう」
キログレムが結論を下した。
三人の間に、もはや迷いはなかった。
「いずれにしても、スクルズの代理就任は、表向きには暫定だ。その点は崩すな。キシダインの顔もある。あれの顔など潰れようがどうでもいいが、下手に敵に回すと面倒だ」
「わかりました。あとはお任せを」
ポーランは静かに頭をさげた。
常緑の間には、それ以上の言葉は要らなかった。