【改訂版】異世界で淫魔師ハレム【コミカライズ作品】 作:ドン・ドナシアン
王都ハロルドの城壁外の貧民窟──通称「外町」の家々に、夕方の気配が染み込んでいく。
通りを行き交う人の声が少しずつ減り、代わりに鍋を叩く音や、戸を閉める音が増えていく時間帯だ。
ボニーは、すでに火を入れていた。
かまどの上の鍋からは、煮えた芋の甘い匂いが立ちのぼっている。
この家では、夕餉はだいたいいつもこの時刻だ。
灯りのための油や魔道具など無縁の貧しい界隈だ。陽射しの残るうちにすべてを終え、夜が来れば休む。
そうでなければ、やっていけない。
だから、老女が帰る前に用意を終わらせておく。それが、自然な流れになっていた。
戸板が開き、足音が入ってくる。
「おかえりなさい、お婆さん」
「ああ、ただいま」
老女はぼろぼろの外套を脱ぎながら、室内を見回した。
「いい匂いがするね」
「隣の家から、芋をもらったので」
ボニーは、老女から受け取った外套を掛けながら応じた。
「芋を? もしかして、あのごうつくばりからかい? 驚いたね」
老女は、少しだけ口元を緩めた。
「先日、部屋に飾ってはどうかと、道端に咲いていた花を渡したんです。そのお礼とのことでした」
「へえ、あれがねえ……。まあ、お前さんにかかれば、誰でも優しくなってしまう。それも、お前が優しいからだろう。本当に娘が戻ってきたようさ。怪我が完全に治っても、いつまでもいるといいよ」
「ありがとうございます……」
ボニーは頭をさげた。
勿論、老女の物言いを恥と感じるくらいの心はある。
しかし、そうしないと生きていられなかった。
ボニーが隣に住む中年の女に、道端に咲いていた小さな花を数本渡したのは数日前のことだ。
思惑もあった。
好意にほんの軽い魅了術を添える──それだけで驚くほどに人はボニーに親切になる。
老女が粗末な台の前に腰を下ろす。
ボニーは、煮物を盛った木椀を二つ並べた。
「今日は具が多いね」
「芋がありましたから。それと、売り肉の余りをナローさんに貰いました」
「みんな、ありがたいことだ。もっとも、ナローはたぶんお前さんに気があるんだろうけどね」
老女はそう言って笑う。
「まさか。こんな年ですよ。しかも、こんな疲れたような女」
ナローというのは、この外町に食材を売りに来る商人の卵のような少年だ。
その子がボニーの脚に見惚れるような視線を送るのはすぐに気がついた。女のボニーがそんな視線を見逃すわけがない。
軽く魅了を掛けた。
ナローは、余分な食材をボニーに渡してくれるようになった。
「そんな言い方はよくないね。お前さんはあたしの娘代わりさ。娘が恋心を抱くなら嬉しいさ。恋を知る前にいなくなるよりずっといい。実らなくてもね」
「ごめんなさい、お婆さん。そんなつもりでは……」
「あたしも、そんなつもりはなかったよ。さあ、食べようか。この話は終わりだ」
老女は匙を取った。
食べ方は静かで、急ぐ様子もない。
ボニーも向かいに座り、同じように口に運ぶ。
半月前、身体を動かすだけで息が上がっていた頃が、遠い出来事のように思える。
ここでの生活は、貧しい。
だが、不足はしていなかった。
ただ、魅了で心を操っているという事実だけは申し訳なかった。
「……ところで、昼にね」
老女が、食事の途中で言った。
「はい……」
ボニーは顔をあげる。
「外から来た連中が、うろついてたよ」
「えっ?」
ボニーは、表情を変えずに聞く。
「この辺りを歩いて、女の話を聞いて回ってる」
胸の奥で、なにかが沈んだ。
「若い女が、棲み着いてないかってさ」
老女は、ちらりとこちらを見た。
探るようでもあり、確かめるようでもある視線。
「背丈も、髪の色も、お前に似てるようだ……。小金をばら撒いている」
やはり、という感覚と、どうしてという感覚が錯綜する。
「……お婆さんは……なんて答えたんですか?」
「教えてないよ」
老女は、即座に言った。
「気味が悪いしね……。娘を売るような真似などできないし……」
その言い方には、はっきりとした拒絶があった。
ボニーは、一度匙を置いた。
老女には、死んだ娘がいた。
それは、何度か聞いた。
王都に来た頃、一緒だったこと。
いまは、ここにはいないこと。
年齢も、話の流れも、ボニーとは合わない。
でもボニーは、老女が自分の面倒を見たくなるように魅了を掛け、この外町に居場所を得て、こうして老女と食卓を囲んでいる。
魅了は操り術とは違い、人の心を意思と正反対には誘導できない。ほんの少しだけ、小さな動機を後押しするだけ。
老女が魅了とはいえ、ボニーを引き取ってくれたのは多少でも情があったからだろう。
多分、いまはもういない老女の娘が関係あると思う。
考え始めると、きりがなかった。
「……でも、この辺りの人は口が軽いからね。もう出歩かない方がいいね……」
老女が低い声で続けた。
「わかりました」
「誰かが喋る可能性もある。気をつけておくれ」
ボニーは、小さく頷いた。
自分を探しているのか、そうでないかはわからない。しかし、ボニーを捕らえようとする相手は、幾らでも心当たりがある。
このハロンドールの衛兵──。
王国に潜入しているタリオの手の者──。
この王都の冒険者ギルドや神殿を、クライドが襲撃したのだから、彼らが仲間であるボニーを捜索しているかもしれない。
ボニーが本来、属しているパリスの組織かも。なにしろ、ボニーは王都に入りながら、連絡すらしてないのだ。
一緒にいたら、眼の前の老女が巻きぞいになるのは間違いない。
外町に、夜が降りてくる。
食事が終わると、老女はすぐに寝所へ引っ込んだ。
戸一枚隔てた向こうから、浅い寝息が聞こえてくる。
ボニーは、灯りを落とし、壁際に置いた袋を手に取る。
中身は少ない。替えの布、乾いたパン、薬草を少し。ここへ来たときと、そう変わらない。
王都へ来たときも、こんな具合だった。
思い出そうとしなくても、勝手に浮かぶ。
クライドに瀕死に追い込まれたあの夜。
身体は裂け、意識は遠のき、動くことすらできなかった。
それでも、生き延びた。
町道を這うように進み、偶然出会った町医師に、魅了をかけた。
慈悲を引き出すには、それで十分だった。
治療は簡素だったが、命は繋がった。
食料も、道行く旅人から分けてもらった。
同情と親切を、ほんの少しだけ導いただけだ。
王都に辿り着いたときには、すべてが終わっていた。
クライドは王都で暴れ、冒険者の誰かに殺されていた。
ミウは、どこへ行ったのかもわからない。
もう、それ以上は調べなかった。無意味だからだ。
ロウとエリカを暗殺する。
それが、任務だった。
だが、ボニーには、クライドのような力はない。
あの二人を殺せるはずもなかった。
任務は失敗。
そう判断した。
失敗の先にあるものを、ボニーは知っている。
死の呪文。
いつ、どこで発動するのかは、わからない。
いますぐなのか、それともしばらく先なのかもわからない。
でも、確実なのはボニーが早晩死ぬことだ。
ボニーはすでにすべてを諦めていた。
隠れ先に、王都の外町を選んだのは、考えた末ではない。
ただ、人が多く、貧しく、誰も他人に構わないと思った場所だったからだ。
老女と出会ったのは、その最初の夜だった。
薬草を売っていること。
ひとりで暮らしていること。
かつて死んだ娘がいたこと。
話を聞き、軽く魅了をかけた。
しばらくしたら死ぬにせよ、とりあえず居場所が必要だったからだ。
老女は世話を焼き、食事を用意し、ボニーの身体を気遣った。
貧しいが、静かな生活だった。
それが、今夜で終わる。
いずれにしても、まだ死んでいないだけのボニーのために、老女を危険には晒せない。
立ち去る直前に、ボニーは戸口で立ち止まり、振り返った。
老女の寝所からは、変わらず寝息が聞こえている。
魅了を解く。明日の朝、いなくなったボニーに嘆き悲しまないように……。
強いものではなかった。
それでも、情を繋いでいた糸は、確かにあった。
解いた瞬間、向こうで寝息が途切れたような気がした。
確かめはしない。
確かめてしまえば、戻れなくなる。
戸を静かに開け、外へ出る。
夜の外町は、昼とは別の顔をしている。
灯りは少なく、真っ暗闇だ。
足音を殺し、路地へ紛れ込む。
どこへ行くかは、決めていない。
考えても、答えは出ない。
ボニーは、夜の外町を歩き始めた。
逃げるために。
外町の夜は、音だけで満ちていた。
灯りの届かない路地。
湿った風──。
足裏で砂利がわずかに鳴る。
しかし、はっとした。
その音に、自分のものではない響きが混じったのだ。
足音がある。
しかも、複数の──。
前──。
横──。
背後──。
闇の奥で、複数の足が呼吸を合わせるように動いている。
姿は見えない。だが、囲まれていることだけは、はっきりとわかった。
気づいた瞬間、足が止まる。
「つっ──」
首筋に、ちくりと蜂に刺されたような鋭い痛みが走った。
反射的に手を当てる。
細い針が、根元まで深く刺さっていた。
引き抜こうと指に力を込めた、そのときだった。
風を切る音が、顔のすぐ横をかすめた。
「ひっ」
思わずしゃがみ込んだ。
かつん、とすぐ後ろから乾いた音。
夜闇を通して、すぐ背後の板壁に短い矢が突き刺さっていたのがわかった。
「針を抜くな。いまのは威嚇だ」
男の声だ──。近い。
だが、どこから?
位置が定まらない。
「だ、誰よ──?」
「袋だ」
短い言葉だった。
「きゃあああ」
次の瞬間、肩に提げていたずだ袋が弾き飛ばされた。
矢が突き刺さり、地面を転がる。
「口をきくな。今度は、身体に刺すぞ」
声の方向と口調が変わる。
ひとりではないのだ。
追おうとするほど、位置がずれていく。
闇に目をこらすが、人影は視えない。
それだけで、胸が締めつけられる。
「……えっ……?」
そのとき、首筋から熱が広がり始めた。
針の刺さった場所を起点に、内側から火を焚かれているような感覚が走る。
息が浅くなる。
吸っても足りず、吐いても落ち着かない。
「くっ」
汗が噴き出し、喉が勝手に震えた。
全身がじわじわと弛緩されていく……。
身体の奥がざわめき、力を入れようとすると、逆に震えが走る。
考えをまとめようとしても、思考が散っていく。
「……ど、どうして……」
声が零れ、すぐに後悔した。
身体が、完全に制御を外れている。
熱い……。
まるで身体が内側から炙られているかのようだった。
全身から無数の汗が浮き出すのがわかる。
息苦しさが、さらにつのっていく。
しかし、その熱さと息苦しさは、ただの前兆でしかなかったことがわかった。
じくんと痛むような疼きが乳首に襲ったのだ。
どうして……こんなにっ……。
胸に変化を認識して愕然としてしまう。
服の下──胸当てに触れている乳首はいやらしく尖りきり、かちんかちんに勃起していた。
巻いている布に当たるだけで、淫らな声が漏れそうになる。
驚き狼狽えるボニーに、さらに淫らな追い打ちがくる。
熱がさらに強まり、下腹の奥のクリトリスにも強い疼きが襲ったのだ。その重たい疼きがさらに全身に広がっていく。
恐怖と混乱が重なっていく。
針を抜かなければならない──。
そう思って手を伸ばした瞬間、
ばしん。
しゃがんだ足元、数寸先の地面に矢が突き刺さった。
「ひいっ」
声が漏れ、尻もちをついた。
「針を抜くなと忠告したはずだ──」
声がすぐ近くで聞こえた。
「ど、どうして……あ、あたしを……」
正面から土を踏む音がだんだんと近づいてくる。
ぼんやりとだが、ひとりの男の姿の輪郭が浮かびあがる。
ボニーは必死にそれを見る。
「……魔道の術を封じる薬液だ。だが、女には媚薬効果の副作用もある……」
ついに、闇の中から黒衣の男がひとり、完全に浮かびあがった。
数歩の距離で止まり、こちらを見下ろしている。
全身が黒づくめであり、顔も黒布で覆っていた。
しかし、眼だけは隠してない。
ボニーにはそれで十分だった。
「あなたの名前は──? 教えて──」
顔を向ける。
視線を合わせる。ボニーの魅了は視線でかける。一瞬でも視線が合えば、魅了は掛けられるのだ。
「なるほど……。視線か……」
男は短く言った。
「えっ?」
戸惑いは、男に魅了の術が効かなかったことではない。目の前にいる男に、まったく存在感がなかったのだ。
「眼を封じさえすれば、術は使えないようじゃな」
背後から声が掛けられた。
これまでのどの声とも違うものだ。しかも、口調は老人を思わせた。
その瞬間、正面の男の姿が煙のように消えた。
背後に気配──。
振り向くより早く、頭から袋を被せられる。
つんと、鼻を刺す匂いがする。
「んんんっ」
悲鳴をあげようとしたができなかった。
袋の鼻と口の部分に柔らかい布のようなものがあり、それが完全に口を鼻を覆ったのだ。
布には薬品とわかる匂いが染み込んでいた。
刺激臭の正体はそれだ。
熱と恐怖と息苦しさが、一度に押し寄せる。
薬品を嗅がないようにするというのは不可能だった。それは自ら窒息死をしてみろというのに等しい。
すぐに、ボニーの意識が消えていき、世界の輪郭はゆっくりと崩れていった。
【作者より】
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