【改訂版】異世界で淫魔師ハレム【コミカライズ作品】 作:ドン・ドナシアン
ボニーは、右腕の肘から下を布で巻いている。
第三神殿で施療を受けるためであり、自分で焚き火に腕を突っ込んで表面を焼いた。
神殿で行っている施療の列に並ぶ理由としては十分だった。
懐の寄進金を確かめ、若い神官たちが誘導する列の流れに従う。
列が少し進んだところで、たまたま横を通りかかった若い神官を呼び止める。
「どうしましたか? 申し訳ありませんが、順番でしたら守って頂けませんと……」
その男性神官が少しだけ困った表情になる。
こういう場所では、自分の順番を早くしろと注文する者が多いのかもしれない。
ボニーは軽く首を横に振る。
視線を合わせ、魅了をかける。
目の前の神官に術が刻まれた感覚がボニーの中に入ってくる。
神官はほんの少しだけ眼が虚ろになるが、すぐ怪しい表情は消え去った。これがボニーの魅了術の特徴だ。暗示にかかっていても、かかっていることが本人はもちろん、余程の高位術師でも見破ることができない。
そして、効果はボニーの言葉に従いやすくなること。しかも、強要されているという意識もない。自分の意思だけで行動をしたと思い込むのだ。
「……ああ、申し訳ありません、少しぼっとしました。ご用件は?」
若い神官がわずかに首を傾げる。
「……厠は、どこでしょうか?」
「ああ、厠ですね。奥の通路ですよ。信者用は左で……」
「高位の神官さまたちは、別なのですよね? そこは使いませんよね。」
ボニーは質問を素早く挟む。
「ええ。執務室も自室も神官用の居住区側の奥にありますので、おそらくそちら側のを使うのでしょうね。高位神官用という特別の厠はないですよ」
朗らかに笑う。
本人には、おかしな質問をされているという自覚もなければ、喋らされているという認識もない。
「まあ、では、高位神官の執務室というのは、どちらに?」
「北側の回廊を抜けて……」
言葉が続く。場所。動線。区画──必要な情報が揃っていく。
ボニーは一歩近づく。
もう一度視線を合わせて、魅了の深度を上げた。今度はかなり強いものをかける。
「全て、忘れてください。厠には行きませんので」
若い神官は頷き、列の整理の仕事に戻っていく。もうすでに、ボニーとの会話の記憶は抹消されているはずだ。
ボニーは神官の視界から外れるのを待ち、列から外れた。北側へ向かう。
神殿の奥への侵入は、腕の火傷の施術を受ける前がいいだろう。
ボニーの顔がばれている可能性も、ボニーの持つ魅了の力を見抜かれる可能性もないとは思うが、治療術の施療には比較的高位の魔道遣いが対応する。
鑑定術のようなもので、ボニーの正体を万が一見抜かれないとも限らない。
火傷の痛みに耐えながら、まずは信者用の厠に向かった。追いかけてくる神官はいなかった。
そのまま、あの神官から剥ぎ取った情報に従って、奥に向かう。
頭の中で対象の名前を反復する。
副神殿長ポーラン──。
今回は準備のみだ。暗示にかかりやすくする段階で止めろと言われている。
次の指示は、まだだ。
ただ、その指示を受けた者は誰かというのは、思い出せない。
それに疑念はない。
ボニーは、ただ命令に従うだけなのだから……。
神殿の奥へと歩みを進めていく。
施療の列のざわめきは背後に遠のき、石床に吸われる足音だけが残る。天井は高く、壁面の燭台は間隔が広い。光は届くが、人の気配は薄い。
布で巻いた右腕を胸元に寄せる。
火で焼いた皮膚が、動きに合わせてひきつる。痛みはある。だが、進行を止める理由にはならない。
曲がり角をいくつか抜けたところで、箱に入った荷を抱えた巫女がふたり、こちらへ向かってきた。
年若く、背丈も声も、まだ少女の域を出ていない。巫女服は簡素で装飾も少ない。見習い巫女だろう。
「どうしたのですか? ここは神官以外立ち入り禁止ですよ」
「もしかして、施療希望の方ですか?」
ふたりとも歩みを止める。
いきなり咎められなかったのは、ボニーが火傷をしている腕を抱えているので、施療希望者と判断したのかもしれない。
ボニーは足を止め、軽く頭を下げた。右腕を押さえ、息を浅くする。
「……厠をお借りしたのですが、迷ってしまって」
困った調子を整える。
視線を上げ、同時に魅了を放つ。深く──躊躇なく──。
これで、魅了を解けば、その間の記憶は消滅する。
ふたりの瞳もまた、さっきの神官同様に、一瞬だけ虚ろになり、すぐに戻る。
違和感はもうない。
「でしたら、ご案内しましょう」
ひとりが言う。
ボニーは、間を置かずに続ける。
「ありがとうございます。……でしたら、荷はどこかに一度置いた方がいいのでは。誰もいない部屋は、ありませんか」
質問は少し不自然だが、疑念は生まれない。
魅了が判断の継ぎ目をなだらかにする。
「そうですね……。だったら、そこに」
もうひとりが帯の紐を引き、提げていた小袋から鍵束を取り出す。
すぐ脇の扉を開け、三人で中へ入る。
小部屋は、倉庫代わりに使われているらしい。
半分ほどの空間に、木箱が無造作に積まれていた。埃の匂いがわずかにこもっている。
最後に入った巫女が扉を閉めた瞬間、ボニーは髪飾りから細い針を抜いた。
続けざまに、ふたりの首筋へ刺す──。
巫女たちは声を上げることもなく、膝を折り、床に崩れた。
死にはしない。
でも、半日は意識が戻らない。戻ったとしても、直前の出来事は残らない。
ボニーは、片方の巫女から巫女服を脱がせ、その場で着替える。
布の感触と、紐の位置を確かめる。問題はない。
ただ、相変わらず、火傷の腕が痛い。
これは耐えるしかない。
もうひとりから鍵束を取り上げ、小部屋を出た。
扉を閉め、鍵を掛ける。中から音はしない。
廊下に戻り、神殿の奥へ向かう。
静けさは変わらない。
副神殿長ポーラン──。
彼を見つけて、魅了をかけなければならない──。頭のなかでは、ただそれだけが反芻していた。
ボニーは、さらに神殿の奥へ進んだ。
居住区に近づくにつれ、通路は細くなり、人の声も減っていく。
何人かの神官や巫女とすれ違った。
一瞬でも訝しむ素振りを見せた者には、すれ違いざまに魅了をかける。
深くは要らない。興味を失わせるだけで十分だった。
その結果、彼らは足を止めることもなく、なにか別のことを思い出したように歩み去っていく。
やがて、明らかに雰囲気の異なる一画に出た。
人の生活の気配。扉の造りも、装飾も、施療区画とは違う。神官の居住区だと分かる。
だが、ここから先は判断が難しい。
どの扉が副神殿長ポーランの執務室なのか、外からは見分けがつかない。
あの若い神官の言葉を思い返す。
居住区があり、その奥側が、執務室を兼ねた高位神官の居室だと。
ならば、さらに奥へ──。
一歩、踏み出そうとしたときだった。
「……あれっ。どなたですか? そっち側は、限られた方の部屋しかありませんよ」
背後から、声がした。
若いというよりは、幼さの残る童女の声だった。
ボニーは振り返る。
反射的に、魅了をかけるために。
「……あれっ──? ボニーさんじゃないですか。どうしたんですか──?」
眼を丸くしていたのは、見習い巫女の装束に身を包んだ十歳ほどの童女だった。
ミウ──。
ボニーは眼を見張った。
クライドに陵辱され、ボニーが必死に逃がそうとして失敗し、半殺しにされたとき以来だ。
あのとき、ボニーを殺そうとしたクライドを、必死に止めてくれたミウ。
それきり、消息が分からなくなっていたミウが、そこにいたのだ。
顔色はいい。
元気そうだ。
よかった……。
生きていた……。
ボニーの視界が一瞬にして涙で歪んだ。
「ああっ……ミウなのね──」
声が漏れた。
叫びに近いものだったと、あとから気づく。
しかし、次の瞬間、ボニーははっとした。
ミウは完全な知人だ──。その人物とすでに会話をしてしまった。
そうなってしまえば、魅了をいまからかけても遅いのだ。
おそらく、ミウの記憶には残る。
そうならないためには、限界まで強めた魅了をかけてしまうしかない。
だが、そうすると、ミウの思念にかなりの深い損傷が……。
しかし、命令がある──。
今回だけではないのだ。
この先も、繰り返しポーランに魅了をかけ続ける命令が与えられている。
そのためには、ここでの出来事が残ってはならない──。
これは絶対なのだ──。
──邪魔になる存在は、排除しろ。
その言葉が頭の奥で反復される。
ボニーは、髪飾りに指をかけた。
猛毒を仕込んだ側の針を抜く。
殺さなければならないのだ……。
殺さなければ──。
左手が、震える。
「ああ、ボニーさん、会いたかったです」
ミウが、そのまま抱きついてきた。
懐かしい体温──。
「ミ、ミウ……」
ミウを抱く腕に力がこもる。でも、毒針の先は、すぐミウの首の後ろに……。
「どうしてたんですか? あたし、この神殿に引き取られたんです。少しずつ魔道も教えてもらっていて……」
──邪魔者は、絶対に殺せ。
言葉が頭を満たす。
「ああああっ……いやああ──」
絶叫とともに、ボニーはその場に崩れ落ちた。
「えっ、ど、どうしたんですか、ボニーさん……?」
ミウが慌てて支えようとする。
その拍子に、巫女服の袖がめくれ、布で巻かれた左腕が露わになった。
焼け爛れて赤黒くなった皮膚が露わになる。
「……あっ、ひどい……火傷……」
ミウが息を呑む。
「ああ……あああっ……いやああ──」
ボニーは床の上で身をよじる。
頭の中で、殺せという声が叫び続けているのだ──。
だが同時に、殺したくないという感覚が、必死に抵抗していた。
命令と拒絶──。
二つが衝突し、引き裂かれるような苦悶が、ボニーを包み込む。
身体が、言うことをきかない。
声だけが、漏れ続けていた。
「いやああっ」
ボニーは床に蹲ったまま絶叫した。
「ボニーさん、大丈夫ですか。腕が痛いんですか──。ちょっと待ってください。治療術かけますから」
ミウがボニーの横にしゃがみ込み、両手をかざしたのがわかった。
すると、燃えるような熱さが全身に襲いかかり、身体がすさまじい衝撃に包まれた。
「あああっ、いやああ──」
なにが起きたかわからなかった。
だが、腕の痛みが消滅するとともに、急に頭が晴れた。
クライドとミウを離れて、絶望とともに王都の城門外の貧民街に潜んでいたこと──。
謎の集団に捕らえられ、繰り返し拷問を受けたこと──。
大勢の男たちに魅了を賭けさせられ、目の前で死なせたこと──。
ポーランに魅了をかけろと送り込まれたこと──。
最後に記憶を抜かれたこと──。
その全ては一気に頭に蘇った。
「うわあ、どうしよう──。どうしよう──。ボニーさん、ちょっと待ってください。すぐに戻ってきますから──」
ミウが泣きながら部屋を出ていくのがわかった。