【改訂版】異世界で淫魔師ハレム【コミカライズ作品】 作:ドン・ドナシアン
アネルザの執務室は、今日も書類で溢れていた。
机の上だけではない。壁際の棚にも、床に積み上げられた箱にも、各地から届けられた報告書や陳情書が山のように積まれている。
本来の王妃の執務室は王妃宮にある。
しかしルードルフが政務から遠ざかり、後宮に入り浸るようになってからは、正殿宮である太陽宮へ執務の場を移していた。
いまでは王国中の情報がここへ集まる。
「王妃陛下。そろそろ刻限です」
補佐官が声を掛けた。
「ああ、もうそんな時間かい」
アネルザは顔を上げた。
昼過ぎに軽く食事をとった記憶しかない。
窓の外を見ると、強かった日差しはすでに傾き始めていた。
椅子から立ち上がる。
執務室には十数名の文官と侍女たちが控えていたが、同行するのは補佐官と侍女ふたりだけだ。
廊下を歩きながら、アネルザは今回の会議について考えた。
週に一度開かれることになっている定例会議である。
この王国の重要事項は、ここで報告を受け、最終的な方針を決める。
毎朝行われる朝議は、その決定事項を各部署へ伝えるための場にすぎない。
そういう意味では、この会議こそが王国の中枢だ。
しかし、本来は、今日はその日ではなかった。
宰相ガイウス=レーベンの要請によって、急遽開かれることになったのだ。
ガイウスは五十七歳──。
領地を持たない俸給貴族であり、本来は伯爵位だが、宰相になる際に侯爵となった。上級文官を経て、各大臣を歴任した叩き上げであり、先王セルデンの時代から宰相を務める重鎮中の重鎮である。
派閥争いを嫌い、私欲とも無縁。
キシダイン派に属し、実直が服を着て歩いているような男というのが世間の評価だ。
派手さはないが、決められたことを確実に実行に移す政治的職人でもあった。
妻は五人いるが、いずれも美しくもなく、家格や境遇に問題を抱えた女たちばかりだ。
子はない。
本人は子種がないのだと言っているが、養子をとってもいない。自分が死ねば爵位は返上すると公言している。
そういう点もまた、私欲がないと評価されるゆえんだった。
……ということになっている。
だが、実はなかなかの食わせ者だ。アネルザはそれを知っている。
長いものは巻かれるが、いつの間にか主動権を握っている。それがガイウスという宰相だ。
それはともかく、そのガイウスがアネルザに臨時の会議の開催を求めてきたのである。
しかも、定例会議の出席者のひとりであるキシダインは昨日、隣国タリオへ向けて出立している。
タリオからの客人を迎えるためだと言っているが、おそらく、最近になって急激に低下している自らの支持基盤を強化するために支援を求めに行ったのだと思う。
まるで、その不在を狙ったかのような日程だ。
キシダインの不在を狙って、定例会議を求めたのは、決して偶然ではないだろう。
なにかある。
そう考えるのが自然だ。
定例会議の出席者は限られている。
宰相ガイウス──。
ハロルド公キシダイン──。
そしてアネルザだ──。
最近では、イザベラも同席するようになっていた。
キシダインは不快を表したが、中・小貴族層、さらに平民層を中心に、一気に支持を拡大しているイザベラを、さすがにキシダインも拒絶できなかったのだ。
会議室の前に到着する。
扉の前の衛士によれば、すでにガイウスとイザベラは到着しているようだ。
補佐官を外に残し、護衛代わりの侍女ふたりだけを連れて、アネルザは会議室に入った。
会議室に入ると、丸いテーブルにはすでにイザベラとガイウスが着席していた。
この会議では形式的な儀礼は行われない。
ふたりは軽く会釈をしただけだった。
イザベラの後ろには護衛のシャーラが立っている。
アネルザも侍女ふたりを背後に従えた。
ガイウスに随行者はない。
「待たせたね」
アネルザは席に着いた。
「いいえ」
イザベラが微笑んだ。
ガイウスも軽く頭を下げる。
「ところで、イザベラ、最近は忙しいようじゃないかい」
アネルザは椅子にもたれながらイザベラを見た。
「そのように見えるのか?」
「見えるね。お前のところの離宮サロンは盛況のようじゃないかい。令嬢たちの政治や物流の勉強会。若手貴族たちの交流会。中・小商家との意見交換。魔道具技師たちとの仲介役までやっているらしいね」
「わたしはなにもしてない。場所を提供しているだけだ。わたし自身がまだ学んでいる最中だしな」
イザベラが少し困ったように笑う。
「わかっていればいい。お前は、まだ半人前にもならないひよっこだ。忘れるんじゃないよ」
アネルザは肩をすくめた。
公共の場では、アネルザはまだキシダイン派ということになっている。
だから、評価はしない。
でも、内心では舌を巻く思いだ。
イザベラが短い期間で、ここまで支持層を集めるというのは、正直想像以上だった。
数箇月前までは、王宮に閉じこもっている王女という貴族の認識でしかなかったはずだが、あのサロンができて、物資がサロンに出入りする中・小商家に集中するようになった。
それに比べて、従来のキシダイン派の巣窟だった王都を中心としている大商家は、商品を手に入れにくくなり、手に入れたとしても、マアがやらせている従来品よりも安価で性能のいい商品が下町に流通してしまうため、軒並みやられている。
たった数箇月で店を畳んだ商家も少なくないくらいだ。
商人は、目に見える利益に目敏い。
サロンに出入りすれば、良質で安価な商品が手に入るとなれば、こぞってサロンに集まる。
いまは、中・小商家だけでなく、大商家までサロンに参加しているという。
もっとも、キシダイン派を抜けるのを、サロン参加の条件にしているようだが。
「自分が未熟であることは承知している」
イザベラは、ちょっと不機嫌そうに応じた。
アネルザは内心で苦笑する。すぐに感情を顔に出すのは、こいつの欠点だろう。
よく指導するのだが、なかなか直ってくれない。
「いえいえ、いまもそのお話を伺っておったところでございますよ。私の耳に入る殿下の評判は上々ですな」
否定しかけたイザベラを見て、ガイウスが口元を緩めた。
いつものように柔らかな声音だ。
「ほう、そうかい?」
アネルザは、視線をガイウスに移す。
「ええ、素晴らしいご実績です。王女殿下のサロンは、すでに王都の新たな物流交渉の場となっておりますからな」
「小娘がやっと、その気になっただけだよ。こいつ自身が言ったとおりだ。まだまだ勉強中だよ」
アネルザは釘を刺す。
しかし、ガイウスは首を横に振る。
「いえいえ、王太女に相応しいのは、イザベラ殿下──。多くの者がそう言っております。もちろん、私もです」
ガイウスがはっきりと言った。
「えっ?」
イザベラが眼を大きく開いてびっくりしている。
宰相は元来、キシダイン派とされていた。少なくとも、多くの貴族はそう思っているし、キシダインもそうだろう。
だが、それはこの男の世渡り手段だ。
権威のある者になびき、決して少数派にはならない。だから、王二代にわたり、十二年も宰相しているのだ。
しかし、だからこそ、こいつがイザベラ支持に回った事は大きい。
世渡り上手のこいつが、イザベラに味方をするということは、すでにイザベラが有利と判断したということだからだ。そうでなければ、こいつがイザベラへの支持をはっきり主張するなどない。
それにしても、イザベラは不審そうにガイウスを睨むだけで、なにも言わず、半分呆気にとられている。
嘘でもいいから、宰相の手を取って、「感謝する。わたしが王太女になっても、引き続き宰相として助けてほしい」くらいのことを言えばいいのに。
「……お前、わかっていて言っているんだろうね」
アネルザはガイウスを睨みつける。
突然に、こいつがイザベラ支持を口にした背景がわからない以上、アネルザはまだ、キシダイン派を装う必要がある。
「王妃陛下、必要ございません。王妃陛下は、すでにお決めになっているのではございませんか?」
ガイウスが微笑む。
「決めている?」
「イザベラ殿下を次期女王とすることです」
ガイウスが頬を綻ばせた。
アネルザは肩を竦ませた。
「お前は、キシダイン派じゃないのかい。随分と甘い汁も吸ったんだろう?」
そして、大きく息を吐いてから改めて見る。キシダインの支持基盤保持の武器は、自由物流の導入により得られる利益の拡散だ。
キシダインの息がかかっている商家は、タリオ出身が多いが、そこで得られる富を支持層に分割することで、キシダインは派閥維持をしている。
「残念ながら、最近では得るものよりも、求められるものが多くなりましてなあ。ハロルド公は、息のかかっている商家を助けるために、利益供与を求めるのですよ。それをしてまで、あのタリオ人を担げません」
「随分な物言いだねえ。金の切れ目が縁の切れ目かい。キシダインも忠誠心のある味方を持ったものだ」
アネルザは思わず笑ってしまった。
「あのお方に、王国を任せるわけにはいきませんからな」
「そこまで言うかい?」
「誰でも知っていることです。ハロルド公の狙いは、タリオの物流制度を導入して、この国を富ませることにはありません。この王国そのものをタリオに売ることです」
「売る?」
「私は、ハロルド公は売国奴だと思っております」
ガイウスがきっぱりと言った。
「売国奴──?」
声をあげたのはイザベラだ。
やっぱり、こいつは感情が豊かすぎるね──。
アネルザは思った。
「そこまで言うんだ。証拠はあるんだろうね?」
アネルザは言った。
すると、ガイウスが胸から一通の手紙を差し出した。
アネルザはそれを受け取り、ざっと目を通す。
「なんだい、これは? 暴動によるタリオ公館の襲撃?」
手紙というよりは簡単な指示書だった。
書かれている内容は長くない。
王都で平民主体の暴動が発生し、タリオ公館が襲撃される──。
ただ、それだけだ。
ローム三公国のひとつであるタリオ公国とハロンドール王国は、潜在的な対立関係こそあるものの、第二王女エルザがタリオ公妃として嫁いだことで、現在は友好国という扱いになっている。
両国は互いに公館を設置し、常駐使節を置いていた。
その王都のタリオ公館が暴徒に襲撃されるというのである。
だが、まだ暴動など起きていない。
アネルザは紙をイザベラへ渡した。
「説明しな。これは誰から誰宛ての密書だい?」
差出人の名前もなければ、宛先も書かれていない。
「差出人はマーリンという王都に潜んでいるタリオの諜報員ですな。宛先はハロルド公。もっとも、それは写しですが」
「写し? そんなもの証拠にもならないじゃないかい。そもそも、どうしてお前がそれを持っている?」
アネルザは吐き捨てた。
「どうして持っているかは、いまは重要ではありませんな。問題は内容です」
「内容かい……。暴動だって?」
アネルザは眉をひそめた。
最近では多少持ち直したとはいえ、王都ではいまも物価高が続いている。
特に貴族街では品不足への不満が強い。
それに対して、キシダインは、品不足を狙った売り惜しみの摘発を名目に、大量の私兵を動員していた。
王軍の投入をアネルザが拒否したためだ。
だが、その私兵の評判は最悪だった。
ロウはそこにつけ込み、物資不足も治安悪化もタリオ人のせいだと触れ回った。
そのため、平民層を主体に、タリオ出身のキシダインの評判は最悪だ。
アネルザは、庶民の評判操作など、ロウも面白いことをするものだと感心していた。
ちょっと前まで、キシダインは王都の物流を向上させた功労者の評判だったのに、いまや庶民の評判は最悪といっていい。
実際、タリオの私兵たちの横暴ぶりは王都内では有名だ。
そのため小競り合いは増えている。
だが、まだ暴動にまで発展した例はない。
「マーリンは、タリオ人への反感を利用して、自国の公館を襲撃させるつもりです」
「襲撃をしてどうするのだ?」
イザベラが口を挟んだ。
「公館の公使をはじめ、補佐官たちが殺害されるでしょうな。家族や家人も含めて」
ガイウスは淡々と続ける。
「そんなことをして、タリオになんの得がある?」
「得しかありません」
ガイウスは即答した。
「……もしかして、王都の治安悪化を理由に、公館警護のための駐留警護隊の派遣を要求するということかい?」
アネルザは口を挟んだ。
「そのとおりです」
「警護隊だと?」
イザベラが眉をひそめる。
「はい。そしてハロルド公は、それを受け入れる密約を結んでおります」
ガイウスは続ける。
「どれほどの規模だい?」
「二千ですな」
「はあ、二千だと──? 根拠は?」
アネルザは思わず声を荒げた。
「ハロルド公に、私が受けている指示です。二千が駐留する場所を準備すること──。この手紙を入手する以前には、なんの意味かわかりませんでしたが、おそらく、そういうことなのでしょう」
「冗談じゃない。認められるか。そんなもの──、この王都をタリオへ明け渡すのと同じだよ」
「私もそう思いますな。しかし、ハロルド公は認めるでしょう。王都ハロルドに関する権限は、ハロルド公の管轄です」
「……だめだ。認められない」
アネルザは黙り込んだ。
二千──。
王都へ常駐させるには多すぎる。
公館の護衛どころではない。
それだけの兵がいれば、小規模な軍勢と変わらない。
「認めないのは向こうも承知でしょう。これを切っ掛けに、タリオのアーサー大公は王国に喰い込んでくることでしょう。彼は野心の強い男ですから」
ガイウスは続けた。
「……武力介入もあり得るか……」
アネルザは低く呟いた。
「左様です」
会議室に沈黙が落ちた。
イザベラも手元の紙を見つめたまま言葉を失っている。
アネルザは大きく息を吐いた。
「まずは王軍を投入して公館の警護を強化する。暴動など起こさせるものか」
「それがよろしいかと」
ガイウスは静かに答えた。
「ミランダにも動いてもらう。冒険者ギルドは、そういう情報を集めるのが得意だ」
イザベラだ。
「お願いします」
ガイウスがイザベラに頭をさげた、
「……だが、それはそれとして、証拠らしい証拠もないねえ。もっと確かなものがあれば動けるんだけど」
アネルザは呟くように言った。
「……納得のできるものを手に入れるのは難しいでしょう。この手紙を得られただけでも、運がよかった。しかし、確かなものもあります」
ガイウスはそう言うと、今度は別の書類束を机の上に置いた。
「なんだい?」
「いきなりハルルド公を失脚させることはできません。手が届くところから始めましょう」
「続けな」
アネルザは眉を上げる
「これを使います。まずは周囲からです」
ガイウスが書類を押し出した。
「周囲?」
イザベラが書類を覗いてくる。
「キシダイン派重鎮たちの一覧と、彼らが行っている不正の記録です」
アネルザは一枚を手に取る。
「ほう……」
「一度にはやりません。反発を招きますからな」
ガイウスは穏やかに続けた。
「当たり前だよ。キシダイン派に一度に手を付ければ、宮廷が空になる」
アネルザは声をあげて笑った。
「ですが、ハルルド公がタリオに滞在しているあいだに、二人か三人ほど失脚させることは可能でしょう」
「派閥の足を一本ずつ折るわけかい」
「左様です」
ガイウスが微笑む。
「悪くないね。タリオとの密約とは違って、こっちについてはしっかりとした証拠がある。数名程度なら、キシダインも黙らせる」
アネルザは頷いた。
「帰国した頃には、自分の椅子が少し小さくなっていることに気付くでしょうな」
ガイウスが穏やかに微笑む。
「……それで、このリストのどこから行くのだ?」
イザベラが身を乗り出した。