※この作品はR-18です。

【改訂版】異世界で淫魔師ハレム【コミカライズ作品】   作:ドン・ドナシアン

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252 盤上の女駒

「はい、王手(ラング)

 

 一郎は、女王の駒を右へ滑らせた。

 その一手で、マア側の将軍と王を同時に狙う。

 ランガ──チェスによく似た盤上遊戯の最中だ。

 場所は、一郎の屋敷のいつもの広間。対戦相手はマアである。

 マアは、実年齢こそ六十を超えているが、一郎が施した「治療」によって肉体は若返っていた。この世界の人間族では老女と呼ばれる年齢にもかかわらず、目の前にいる彼女は三十歳そこそこの艶やかな美女にしか見えない。

 

「ほう……」

 

 相手をしているマアが眉をぴくりと動かした。

 盤面を見つめてしばらく考え込むと、小さく嘆息しながら王の駒を女王の利き筋から逃がす。

 一郎は将軍の駒には手をつけず、すかさず女騎士を進めて、逃げた王へ圧力をかけた。

 

「あっ、そう来たかい」

 

 マアは思わず声をあげた。

 再び盤面をじっと見つめたが、やがて苦笑しながら両手をあげる。

 

「負けかな。十手ほどで詰みか……。参ったのう。このあたしがランガで負けるとはねえ。しかも、覚えて一箇月の素人のロウ殿に……」

 

 マアが肩を落として溜息をついた。

 夜が訪れたばかりの時間だった。

 場所は一郎たちの屋敷の広間。珍しく向こうから訪ねてきたマアと、ランガを楽しんでいたところである。

 

 ランガは、この世界で広く親しまれている盤上遊戯だ。

 王を守る女王、宰相、将軍、神官、騎士、戦車、歩兵など、それぞれ異なる動きを持つ駒を操り、相手の王を追い詰める。元の世界のチェスによく似ていた。

 

 教えてくれたのはマアだった。

 一箇月前、気紛れで教え始めただけだったが、一郎はすぐに遊び方を覚え、いまでは互角どころか、こうして勝つことも珍しくなくなっていた。

 もっとも、マアは若いころからランガを嗜み、王都でも名の知れた腕前だったという。まさか自分が、一箇月前まで駒の動かし方すら知らなかった相手に敗れるとは思ってもいなかったのだろう。

 

「やってみるさ、おマア。俺が得意なのは、次の一手を考えることだよ。十手先なんて、とてもとても」

 

「嘘をつくんじゃないよ」

 

 マアは手にしていた駒を盤上へ放り出した。

 敗北を認めたということだ。

 一郎は軽く笑った。

 

 もっとも、さっきマアに言ったことは本当だった。

 一郎は何手も先を読んでいるわけではない。ただ、その場その場で、もっとも良さそうな次の一手が自然と思い浮かぶだけだ。それを繰り返しているうちに、いつの間にか相手を追い詰めている。

 

 その程度の感覚でしかないのに、数回対局しただけでマアと互角以上に渡り合えるようになり、いまでは負けることもなくなっていた。マアが衝撃を受けるのも無理はない。

 

 召喚される前、一郎は将棋やチェスを嗜んでいたわけではない。それなのに、ランガのように無数の指し手が存在する盤上でも、不思議なほど最善と思える一手が頭に浮かぶ。

 これも魔眼保持者の勘の鋭さによるものなのだろう。

 理屈では説明できないが、勘だけで最善手を選び続けてしまうのだから、我ながら末恐ろしい能力だと思う。

 

「んふううっ」

「うはっ」

 

 そのとき、一郎とマアが向かい合う卓から少し離れた長椅子の方で、あられもない声が上がった。

 視線を向ける。

 長椅子にはエリカ、コゼ、シャングリアの三人が並んで座っている。三人とも見えている上衣についてはきちんと服を着ているが、腰から下は一枚の毛布で隠されているだけの裸だ。

 一郎が命じているのは、十種類ほどの振動する淫具を順番に試し、自分にもっとも効果のあるものを選び出すことだった。

 適当に選ぶことはできない。

 一郎には淫魔術があるため、あとで確かめれば、本当に一番感じる淫具を選んだかどうかはすぐにわかる。

 もし誤魔化していたら、全員の前で排便の罰──そう言い渡してある。

 

 そのため三人とも真剣だ。

 とはいえ、十種類すべてを一度は試さなければ比較にならない。

 何度も絶頂、あるいは絶頂寸前まで追い込まれては次の淫具へ替えるのを繰り返していては、最後にはどれが一番なのかわからなくなってしまうだろう。

 おそらく、いまはそんな状態なのだと思う。

 一郎は、三人の会話に耳を澄ませた。

 

「どうだった、コゼ? あの細くて、お尻の穴と一緒に曲げて入れるやつだろう。やっぱり両方が効くのか?」

 

「はあ、はあ、はあ……。た、多分……。あたしはご主人様にたくさんお尻を愛されているから、やっぱりお尻はだめ……。で、でも、エリカがいましているやつも結構すごかったし……。わからないわ……」

 

「そうか……。エリカは、あの触手みたいなひらひらが棒とは別に動くやつだったな……。すごいか?」

 

「う、うん……。す、すごい……と思う……」

 

 エリカは半ば朦朧とした様子で答えた。

 一郎はくすりと笑う。

 自分でも馬鹿げた命令だと思うけど、その馬鹿馬鹿しい命令を文句ひとつ言わずに、懸命に試し続けている三人の姿がなんとも可笑しかった。

 

「エリカはなにを使っても『すごい』しか言わないじゃない。これじゃ全然参考にならないわよ。どうせどれでも、すぐにいっちゃうんだから。本当に真面目に選んでるの?」

 

 コゼは呆れたように肩をすくめた。

 

「確かに、全部『すごい』しか言わないな」

 

 シャングリアも笑う。

 

「エリカの意見って、本当になんの参考にもならないわねえ」

 

 コゼはそう言うと、毛布の下で腰を少し持ち上げ、ごそごそと身体を動かす。そして股間から外したばかりの淫具を取り出し、三人の前の卓に広げられた布の上へそっと置いた。

 

 ここから見ても、湯気でも立ちのぼっているかのように、コゼの愛液で濡れた淫具はねっとりと艶めいていた。

 

「わ、わたしだって、一生懸命にやってるのよ。でも、お股が振動すると、ロウ様につけていただいたぴあすまで揺れて、なにがなんだかわかんなくなって……」

 

 エリカが抗議するように声をあげる。

 

 一郎は思わず噴き出した。

 一方のエリカも、さっきのコゼと同じように腰を少し持ち上げると、毛布の下へ両手を差し入れた。身体を小さく震わせながら股間から淫具を抜き取り、ごとりと卓の上へ置く。

 

 ちょっと太めの張形だった。表面には触手状のひだが幾重にも刻まれており、三人が交互に試し続けているせいで、エリカだけでなく、コゼやシャングリアのものまで混じった愛液がべっとりと絡みついている。

 ひだの隙間からは粘り気のある雫が糸を引き、いままで何度も使い回されてきたことを物語っていた。

 

「よし、休ませてもらったから、次はわたしがこれを試そう」

 

 シャングリアが迷いなく手を伸ばし、エリカが外したばかりの淫具を手に取った。

 

「そのまま?」

 

 コゼが呆れたように声をあげる。

 

 エリカも赤面しながら、「ちょっと……」と小さく抗議した。

 

「いまさらだろう。それに、どうせ全部を試すのだ。同じことさ」

 

 シャングリアは平然と答えた。

 

「なにを一番に選ぶかは人それぞれだろう。だが、感想だけは正確に伝え合おう。命じられた以上、わたしは本当に一番効果のあるものを選びたい。ロウの期待にも応えたいからな。ほかの者に合う淫具であっても、順位くらいは十分に参考になるはずだ」

 

「あ、あたしは、これをいくわ。小さいの……」

 

 コゼはまだ息が整わない様子だったが、イボ付きの小さなローターを手に取った。

 

「わ、わたし、ちょっと休憩……」

 

 エリカはがくりと力を抜き、そのまま長椅子の背もたれへ身体を預ける。

 

「さっきも休憩したじゃないの。まあ、いいけど……。全部、一度は試さないと比べられないのよ。わかってる?」

 

 コゼが少しからかうように笑った。

 

「だ、だって、一度いくと、すぐ次をやっても、もう違いがわかんないんだもん……」

 

 エリカは泣きそうな顔で訴える。

 その必死さが、一郎にはなんとも可笑しかった。

 

「だから、毎回いくからでしょ。途中でやめなさいよ。いつもみたいに、ご主人様が責めてるわけじゃないんだから」

 

 コゼが呆れたように返す。

 

「と、とめようとしても、力が入らないし……。そのときには、もういっちゃうのよ。どうしたらいいのよ──」

 

 エリカは半ば悲鳴のような声をあげた。

 あまりにも真剣な訴えに、一郎は思わず噴き出してしまった。

 

「まあいいけどね」

 

 コゼはそう言いながらも、毛布の下で膝立ちになり、腰をわずかに引いて新しい淫具を身体に収めていく。

 一方、シャングリアも頬を上気させ、荒い息を繰り返しながら、黙々と次の淫具を試していた。

 

「可愛い女の子たちね。大切にしなさいよ、ロウ殿」

 

 一郎がエリカたちへ視線を向けていることに気づいたマアも、同じように三人へ目を向けて微笑んだ。

 

「俺には過ぎた女たちだと思ってるよ。女を抱くことくらいしか能のない俺を、大切にしてくれる」

 

「ふふ、謙虚じゃないかい」

 

「あいつらがいなければ、この訳のわからない世界で放り出されて、とっくに野垂れ死んでいたかもしれない。その意味じゃ、とくにエリカには感謝してる」

 

「まあ、ロウ殿がほかに取り柄がないとは思わんがな。少なくとも、ランガではあたしに勝つ。それだけでも大したものさ」

 

「そうか?」

 

「ああ、これでもランガは、あたしが若いころから得意にしてきた遊びなんだ。そうそう負けることはなかったんだからね」

 

「まるっきりの素人ってわけじゃないよ。俺がいた世界にも、似たような遊びがあったから」

 

 一郎がそう答えると、マアは目を丸くしたあと、どこか安堵したように笑った。

 

「なるほど。そういうことか。よかったよ。まったくの素人じゃなかったんだね。それなら、まだ救われる」

 

 マアは苦笑しながら肩をすくめる。

 

「素人じゃないというか……」

 

 一郎は、駒の進め方を知っているだけで、前の世界でもまったくの素人だと口にしようとした。

 だが、マアの顔を見てやめる。

 

「十代のころからランガだけは好きでね。何十年も打ち続けてきたんだ。それが、覚えて一箇月の素人に手も足も出ないとなれば、あたしの人生はいったいなんだったんだって話になるからさ」

 

 一郎は思わず笑みを浮かべた。

 どうやらマアは、この勝負に相当な自信を持っていたらしい。

 だからこそ、動かし方を覚えたばかりの一郎に、わずか一箇月で勝てなくなったことがよほど堪えたのだろう。

 だが、一郎の世界にも似た遊びがあったと知り、「まるっきりの素人ではなかった」と思えたことで、少しだけ気持ちの整理がついたようだった。

 

「ところで、異世界のランガはどういうものなのだい?」

 

 マアが何気ない口調で尋ねた。

 一郎は盤上に転がっていた女騎士の駒を拾い上げる。

 

「基本はほとんど同じだよ。でも、こっちのランガで面白いと思ったのは、男駒と女駒があることかな。しかも、男騎士と女騎士、男将軍と女将軍みたいに、男女で力に差がない。この世界らしいと思ったよ」

 

 一郎は女騎士の駒を指先で転がしながら言った。

 この世界のランガは、チェスと同じように王を中心とした盤上遊戯だ。

 駒の動きには多少の違いがあるものの、基本的な考え方はよく似ている。

 ただ、大きく違うのは、王と女王を除くほとんどの駒に男女の区別があることだった。

 しかも、その能力は完全に対等である。

 

「この世界で女の力が強い? 異なことを……。確かにロウ殿の周りには女傑が多いが、それは例外だぞ。あたしも含めてね。力ある男たちの陰で埋もれてしまう女のほうが、ずっと多いさ」

 

 マアは笑った。

 だが、一郎は首を横に振る。

 

「俺のいた世界じゃ、能力とは関係なく、女というだけで活躍できない時代が長く続いていた。俺のころには変わり始めていたけど、まだ十分じゃなかった」

 

 一郎は男女の将軍駒を並べた。

 

「ほう?」

 

「でも、この世界は違う。同じ実力なら女も軍や商売で当たり前に活躍している。妊娠も自分で選べる。だから、この遊びでも男女の駒は対等なんだろう。この将軍の駒にも力の差はない」

 

 一郎がこの世界へ来て驚いたことのひとつが、それだった。

 軍にはシャングリアのような女騎士が大勢おり、冒険者にも女性は珍しくない。

 商人や役人にも女性の姿が目立つ。

 

 その背景には、世界の創造が太陽神クロノスではなく、その妻である女神たちでもあるという神話や、サビナ草という安全で確実な避妊薬が広く普及していることも関係しているのかもしれない。

 理由はともかく、この世界では女性が社会で能力を発揮することをごく自然なものとして受け入れている。

 その価値観は、こんな盤上遊戯にも表れていた。

 男駒も女駒も、能力に優劣はない。

 ただ、それぞれ役割が異なるだけなのである。

 

「面白い視点だねえ。だが、その力ある女たちが、こぞってロウ殿のもとへ集まる。その輪に、あたしも加えてもらえたのは嬉しいことだがね」

 

 マアは盤面に散らばった駒を脇へ寄せ、一郎が並べた男女の将軍駒の周りへ、女駒だけを集めて置いた。

 

「でも、俺がもっと面白いと思ったのは、女駒は敵から奪うと味方の駒になることかな。逆に男駒は、一度やられたら終わりだ。もしかすると、この世界では、女のほうが立場を変えやすいっていう考え方なのかもしれないね」

 

 一郎は男宰相の駒を盤上に置き、女駒をその周囲へ並べてみせた。

 ランガがチェスと大きく違うのは、その点だった。

 女駒だけは敵から奪えば自駒となり、再び盤上へ打つことができる。

 その独特の仕組みが、勝負をより複雑で奥深いものにしている。

 

「いやいや、裏切るのは女より男さ。あたしは長いこと、どろどろした駆け引きを見続けてきたからね」

 

 マアは笑いながら、一郎が男宰相のそばへ置いた女駒を、元の位置へ戻した。

 

「そうかなあ」

 

 一郎は首を傾げた。

 

「女は本当に惚れた男には裏切らない。本物の男に出逢うまでは、移り気になることもあるだろうが、それだけの話さ」

 

「それを裏切りって言うんじゃないかな。まあ、俺に尽くしてくれている女たちが裏切るなんて、考えたこともないけどね」

 

 一郎が笑うと、マアの笑みがふっと消えた。

 

「ロウ殿は、クロノスだからだ。一度出逢えば、女が決して離れられないクロノス。クロノスのもとへ集う女は、自然と尽くし、仕える」

 

「クロノスねえ……」

 

 一郎は頭を掻いた。

 最初に自分をクロノスだと言ったのは、たしかアネルザだったか……。

 女神たちを従え、この世界を築いた創造神にして天空神──クロノス。

 この世界の男にとって、それに喩えられるのは最高の賛辞らしい。

 だが、神話のクロノスは、一郎のように女たらしなだけの男ではないだろう。そう思うと、どうにも気恥ずかしい。

 

 もっとも、自分の周りにいる女たちが、神話の女神たちに劣らぬ実力者ばかりなのは確かだった。

 一郎は、きゃあきゃあと騒ぎながら、自分の命令どおり淫具選びに没頭しているエリカたちへ目を向ける。

 だが、ふと、あることを思い出し、すぐに視線をマアへ戻した。

 

「そういえば、アネルザが言っていたが、先日のキシダイン邸主宰の夜会は、かなり閑散としていたらしいね」

 

 一郎はにやりと笑った。

 一時期タリオ公国に行っていたキシダインが同行してやってきたグラム兄弟という旧友を伴って戻り、その歓迎という名目で、キシダイン邸で夜会が開かれたらしい。

 だが、内容は散々だったようだ。

 

 マアが一郎の女になって、そろそろ半年が経過している。

 そのあいだに、王都の勢力様相は劇的に変化している。

 元来キシダインを王太子として推していたアネルザはひそかにイザベラ支援に変わり、キシダイン派閥だったマア商会を捨てたマアは、新たにターナ商会というイザベラ派の新興商会を立ち上げた。

 

 ふたりは協力して王女イザベラの評判を広め、その評判が高まった領地や貴族たちに優先的に物資を流す一方で、キシダイン派の領地では取引が滞るよう巧みに誘導し、商売そのものを成り立ちにくくしていた。

 その結果、キシダイン派の有力貴族たちは領地経営の立て直しに追われ、王都で社交に明け暮れている余裕を失っている。

 

 変わって台頭したのが、これまでキシダインに捨て置かれていた中・下級貴族と平民層だ。

 彼らはイザベラ派と言われるようになり、数の勢いで従来の勢力図を塗り替えつつある。

 これまでの大貴族も、大商人も、キシダインに取り入っても得るものは少ないと考え始めているらしく、イザベラ支持を明確に表明する者が多くなった。

 一郎としては、マアたちの仕掛けがここまで早く実を結ぶとは思ってもみなかった。

 離宮に閉じこもっているだけの「引きこもり王女」と称されていたイザベラが、嘘のようだ。

 そして、その影響が先日のキシダイン主催の夜会に顕著に出たらしい。

 

「ああ、あの評判の悪いグラム兄弟を招いての夜会かい? あたしは物見遊山で参加したよ、ロウ殿。人数もまばら。貴族も当主の代理ばかり。キシダインは恥をかいて真っ赤になって怒っていたね」

 

 マアが愉快そうに笑った。

 貴族の当主がキシダインの夜会を避けたのは、アネルザがキシダインの不在間に、キシダイン派閥の大臣をふたりも罷免したことが関係しているだろう。

 代わりに、アネルザが大臣に抜擢したのが、次期王太子にイザベラが相応しいと口にしている俸給貴族たちだ。

 王妃アネルザが、キシダインではなく、イザベラを選んだ──。いまや王都貴族たちは大騒ぎらしい。

 もともと、キシダイン自身に人望がなかっただけあり、貴族たちが離れるのも早い。

 

「でも、イザベラ派の急先鋒のターナ商会の女主人が敵地のような場所に乗り込むなんて、大丈夫だったのか?」

 

 一郎は言った。

 いまのマアが、かつてキシダイン派の女豪商のマアと同一人物なのは、まずわからないとは思うけど、キシダインから見れば、王国の流通を凄まじい勢いで塗り替えているターナ商会は憎むべき敵のはずだ。

 よくもその夜会に参加しようと思ったものだ

 だが、人を食ったようなマアなら、それくらいはやってのける。

 

「招待状も来ていたしね。キシダインの機嫌の悪さは見物だったよ。ぜひ、ロウ殿にも見せたかったよ」

 

 マアは笑った。

 さすがに、人を喰った女だ。

 一郎は小さく肩を竦めた。

 ただ、マアはキシダイン派の夜会に参加したのであれば、是非、確かめたいことがあった。

 

「ところで、その夜会でアン夫人とは会った?」

 

 一郎は訊ねた。

 イザベラのため、キシダインと全面的に対決する覚悟は決めている。

 だが、その一方で、どうしても気になる人物がいた。

 第一王女アン──いまはキシダインの妻となったハロルド公夫人である。

 

 一郎に面識はない。

 それでも調べる限り、彼女は王族らしい驕りとは無縁で、穏やかで心優しい女性として知られていた。

 二年前にキシダインへ嫁いで以来、公の場へ姿を見せることはほとんどない。それでも、かつて交流のあった貴族令嬢たちは口を揃えて彼女を懐かしみ、悪い評判はひとつも聞こえてこなかった。

 

 さらに、誰もが言う。

 アンはキシダインを心から愛し、夫婦仲は実に睦まじいらしい。

 だからこそ、一郎は引っ掛かっていた。

 倒すべき相手はキシダインだ。

 だが、その隣にいるアンまで不幸にしたくはないな、と。

 

「アン夫人は夜会には出んよ。あたしも一度も会ったことはない」

 

 マアはそう言うと、不意に声を潜めた。

 

「えっ、一度も? だって、おマアはもともと、キシダイン派の金庫番のような立場だったんだろう? それなのに、婦人に会ったことがないと?」

 

「ないね。夜会には出ないし、会う相手を選ぶ。まあ、王子時代から活発に社交するタイプではなかったようだけどね」

 

「社交嫌いか。わからないでもないね。あの王族は、アネルザにしろ、国王陛下にしろ、外には出たがらないね.イザベラもそうだ」

 

 一郎は苦笑した。

 事実上、政務を動かしているアネルザだけど、キシダイン派だとはされていたけど、夜会など特定の貴族主催の私的な会には絶対に参加しない。

 国王ルードルフが後宮に入り浸りなのは有名だ。

 イザベラにしても、最近こそ、サロンを離宮で開いて、貴族たちの門戸を開いているが、もともと毒殺を怖れて滅多に外には出なかった。

 社交嫌いは、血筋なのかもしれない。

 

「だから、妙なことなのさ」

 

「妙なこと?」

 

 一郎はわずかに眼を細める。

 

「ハロルド公キシダイン夫妻は仲睦まじいと誰もが言う。だが、当のアン夫人はほとんど社交界へ姿を見せん。見た者が少ないのに、どうして評判だけが、あれほど広まっておる?」

 

「意図的に流した噂だってこと?」

 

「気に入らないのは、それだけではないよ、ロウ殿」

 

 マアは静かに首を振った。

 

「それだけでないとは?」

 

「商人は情報が商売だ。だが、それでもアン夫人の日常だけは、驚くほどに掴めない。嗜好はなにで、誰と会い、どう過ごしているのか……それさえわからんのだ」

 

「おマアの情報網に入ってこない?」

 

 一郎は眉をひそめた。

 常識的なものであるならば、マアほどの情報網をもってしても掴めないことなど考え難い。

 つまりは、キシダインがアンの情報を徹底的に遮断しているということだ。

 でも、相手は引退した元王女にすぎない。

 そこまで厳重に秘密にする理由が、一郎には思い浮かばなかった。

 

「確かに、妙だね」

 

 一郎は呟いた。

 魔眼保持者としての勘が警告を鳴らしている。

 

「ロウ殿、アン夫人については、一度きちんと調べた方がよいよ」

 

 マアは真剣な眼差しで一郎を見た。





【作者より】
 コミカライズ『異世界で淫魔師ハレム2』が、2026/7/6に発売開始しています。よろしくお願いします。
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