【改訂版】異世界で淫魔師ハレム【コミカライズ作品】 作:ドン・ドナシアン
その日の午前、宿の客たちはみな帰されていた。
朝食を待っていた客に金子を返し、今日は店を閉めると女主人マニラが決めたのだ。
一郎たちについては、マニラではなくニーナから「お願いだからどこにも行かないで」と頼まれていた。
だから、一階の食堂でじっと待っていた。
だが、女主人とニーナは、毒で倒れたトーイを看病するために二階にあがったまま戻ってこない。
腹は減っていたが、勝手に厨房に入るわけにもいかず、三人は卓を囲んで静かに時間を潰していた。
やがて、そろそろ昼になろうかという頃、マニラがようやく階段を下りてきた。
卓の前に立った彼女は、深々と頭を下げる。
「ありがとうございました。なんとお礼を申していいのか……」
「トーイさんはどうなりました?」
一郎は訊ねた。
「大丈夫です。やっと意識を回復しました。とりあえず、横になっていますが、もう大丈夫だと思います……。皆さんの迅速な処置がなければ、どうなっていたか……」
マニラはほっとした表情で涙ぐんでいる。
「ところで、どうしてこんなことになったのですか? トーイさんは誰に命を狙われたのですか?」
エリカが口を挟んだ。
「さあ……。トーイも覚えていないと言うのです。外で掃除をしていたら、肩にちくりとした刺激を感じて……気がついたら倒れていたと……」
マニラは暗い顔で首を横に振った。
そのとき、コゼが卓に布を広げた。中には小さな針が包まれている。倒れていたトーイの下から拾ったものだ。
「マニラさん、これがそのとき落ちていました。調べたら“サイの毒”が塗られていました」
「サイの毒──? まさか……」
マニラの顔が真っ蒼になる。
一郎には見当がつかず、そっとエリカに小声で尋ねた。
エリカによれば、それはこの大陸で最も恐れられる猛毒で、わずかな量で命を奪うという。
「間違いありません。かすかに残った匂いが証拠です。幸い、ここで刺されたからすぐ処置できただけで……本来なら助からなかったでしょう。それに、この毒は扱いが難しく、素人が気まぐれで使える代物ではありません。──おそらく、トーイさんはプロの暗殺者に狙われたのです」
コゼがきっぱりと言った。
一郎は思わず眉をひそめる。宿屋の息子を、暗殺者が──理解できない。
「まさか……」
マニラは動揺を隠せない。
そのとき、階段を降りてくる気配がした。ニーナだ。降りてきた彼女は、神妙な顔のまま卓に近づいてきた。
「ああ、ニーナ……。トーイは?」
「横になっています。意識もありますし、ひとまず大丈夫かと……。でも、いまの話、本当なのですか? トーイが暗殺者に狙われたなんて……」
ニーナは椅子を引いて腰を下ろした。マニラも隣に座る。
「あたしは可能性を言っただけです。ただ、サイの毒を使うのは熟練の暗殺者です。下手をすれば使った本人が命を落としますから」
コゼが淡々と告げた。
「そ、そんな……」
ニーナの顔から血の気が引いていく。まずい──。一郎は顔をしかめた。
もし本当に暗殺者の仕業なら、失敗に終わった以上、再び狙ってくるに違いない。
しかも、ニーナがここにいるということは、いまトーイはひとり きりだ。
「コゼ、トーイのそばについていてくれ」
一郎は即座に指示した。
暗殺者の手口を知るコゼなら備えられる。
「わかりました」
コゼは立ちあがり、すぐに二階へ駆け上がっていく。
「あ、あの……トーイはどうして……? ねえ、お母さん、命を狙われる理由に心当たりはないの? このままじゃ、また狙われるかもしれないわ」
ニーナが切羽詰まった声をあげた。
「さ、さあ……」
マニラは一度エリカを見て、小さく嘆息し、首を振った。
一郎はその様子に違和感を覚える。
はっきりとした根拠はない。
ただ、ニーナの問いを否定する仕草に、どこか引っかかるものがあった。
すると、ニーナが気を取り直すように、一郎たちへ視線を向けた。
「遅くなりましたが……トーイを助けてくださって、ありがとうございます。──ところで、あなた方は冒険者なのですか?」
「そうです。まだギルド登録はしていませんが、王都に着き次第に登録するつもりです」
エリカが答えた。
「それなら……お願いです。トーイを守り、狙う者を突き止めてください。──報酬は金貨十枚……いえ、十五枚をお支払いします」
ニーナが言った。
「じゅ、十五枚──?」
エリカが甲高い声をあげた。
一郎には相場がわからないが、エリカの態度からすれば破格なのは間違いない。──ニーナにとってトーイがそれほど大切であり、また、王都の歌姫としてその大金を用意できる立場であることを示していた。
「ニーナ、そんなに……」
マニラも目を丸くしている。
「いいんです、お母さん……。わたしにできることはなんでもしたいの」
ニーナがマニラに言った。
「ロウ様、どうします?」
エリカが一郎に判断を求める視線を送ってきた。
「冒険者として登録していないのに、冒険者としての依頼を受けることに問題はないのか、エリカ?」
一郎はエリカを見る。
「それは問題ありません……。冒険者ギルドに登録したとしても、義務になっている数の依頼さえこなせば、ギルドを通さずに依頼を受けることもできます。ただ、ギルドを通さない場合、往々にして、実際の報酬の支払いの段階でもめることが多いとも聞きます」
エリカが応じた。
「報酬は支払います。前払いでもいいです──。い、いえ、や、やっぱり、トーイの危険を排除してもらってから……」
ニーナが素早く言った。
それはそうだろう。
報酬を先に支払えば、一郎たちが金子だけを貰って、そのまま逃亡する可能性がある。
なにしろ、一郎たちは、まだギルド登録もしていないただの旅人だ。
しかし、一度は先払いを口にしたところをみると、ニーナはこの手の交渉事には不慣れに違いない。
「先払いは金貨一枚と銀貨十枚……。それがいまの手持ちの全部なのです。でも残りの報酬はすぐに準備できます」
ニーナがさらに言った。
「受けましょう」
一郎はきっぱりと言った。
どうなるかわからないが、冒険者となる前の予行練習のようなものだ。やってみようと思った。
ニーナが少しほっとした表情になった。
「よろしくお願いします。必ず、トーイを守ってください」
深く頭を下げるニーナに、エリカが口を開いた。
「では、一応、正式に契約の誓いを交わしますか、ロウ様?」
エリカが口を挟んだ。
「契約の誓い?」
「ギルドを通じた依頼の場合は、必要な契約の縛りはギルドがするのですが、個人で受ける場合は、それを行うも、行わないこともまちまちです。契約の誓いをすれば、魔道により、お互いに依頼の履行と報酬の支払いから逃れられなくなります」
「誓いをして、それを破ればどうなるのだ?」
「お互いの同意がないと破れません。心がそれに縛られるのです」
「任せるよ」
一郎は肩を竦めた。
「あなたは、契約の誓いの魔道が遣えるのですか?」
ニーナは少し驚いている。
「遣えます……。では、前金を……」
エリカは肩に提げていた布状の鞄から二枚の銅貨を出した。
「誓いの品物はなんでもいいのですが、とりあえず、これを使います。これが契約の担保となります。失ってしまえば、相手の義務の履行の縛りが消滅してしまうので、契約中のあいだは失くさないようにしなければなりません」
エリカが説明した。
これは一郎に対しても話しているのだろう。
一郎は頷いた。
「ちょっと待ってください。前金を持ってきますから……」
ニーナが一度席を立ち、ぱたぱたと階段をあがっていった。
「それにしても、金貨十五枚とはねえ……。ニーナさんはお金持ちなのですね」
ニーナがいなくなってから、一郎は何気なくマニラに言った。
「王都でも有名な歌姫ですから……。本当はもうあたしらとは、立場も身分も違うのです。でも、昔の縁を大切にしてくれていて、こうやって、月に一度ずっと以前のように歌いにきてくれるんです。本当に優しい娘で……」
マニラが静かに言った。
「昔のように?」
「ええ……。ニーナはもともと、この近くに住んでいた職人の娘でした。トーイとは子どもの頃から仲がよくて……だから、あんなにも大切にしてくれるんでしょうね。もう、ただの幼馴染にすぎないのに……」
マニラはそう言った。
だが、一郎は知っている。ふたりは幼馴染であると同時に、昨夜は男女として愛し合っていた。──ただ、マニラはそのことに気づいていないようだった。
「以前はここで歌っていたのですか?」
「ええ。十二のときにお父さんが病気で倒れてしまって……母親も早くに亡くしていましたから、わたしがここで雇ったのです。ニーナは本当に歌がうまくて、すぐに評判になりました」
マニラの表情には、懐かしい思いがにじんでいた。
「それが、どうして王都で歌姫に?」
「偶然にも、この城郭を訪れた伯爵夫人──ドルニカ様が、ニーナの唄を耳にして聴きにいらしたのです。その方は芸術家を支援するパトロンでもありまして……ひと目でニーナを気に入られて。以来、彼女の後ろ盾で王都に出て、いまでは立派な歌姫になったのですよ。ここでは気さくにしていますが、王都では屋敷に住み、召し使いたちに囲まれたお嬢様なんです」
「へえ……」
驚きの声を漏らしたのはエリカだ。
一郎も同じ思いだった。昨夜は歌ったあとに給女のように振る舞っていたニーナが、王都ではそんな生活を送っているとは思えなかったのだ。
「その伯爵夫人と王都へ行ったのは、いつのことですか?」
「十四のときです。もう六年になりますね」
「その頃……トーイさんと婚約していたのでは?」
一郎は訊いた。根拠はない。ただ、昨夜の様子から、そうなのではと直感したのだ。十四といえば、この世界ではもう大人。婚約も不思議ではない。
「まあ、どうしてそれを……。確かに、そんな話はありました。お父さんが亡くなって身寄りがなくなったときに……。でも、王都に行ってしまいましたから、それきりです」
マニラは驚いた顔でうなずいた。
「遅くなりました……探すのに手間取って……」
そのとき、ニーナが駆け降りてきた。袋に包んだ金子を卓に置く。確かに、さきほど約束した前金だった。
「では、契約の誓いを交わします。ただ、依頼は、とりあえずトーイさんを守ることと、トーイさんを狙った者を明らかにすることとさせてもらえますか? 相手がわたしたちの手に負えない者だった場合は、危険の正体を明白にすることで、それに代えさせてもらいます」
「結構です。皆様はトーイの命を救ってくれました。皆様を信頼します」
そう言うニーナの表情は固く、しかし決意に満ちていた。
エリカが杖を取り出して、呪文のようなものを唱えた。
それはすぐに終わった。
「終わりました。では、それぞれで保管してください」
エリカは二枚の銅貨を一郎とニーナの前に置いた。
お互いにそれを手に取る。
すると、外から馬車がやってくる音がした。
視線を向けると、かなり豪華な二頭立ての馬車が宿屋の前に停まったところだった。
中から出てきたのは、身なりのいい若い金髪の男だ。
ステファン
人間族、男
年齢28歳
ジョブ
上級使用人(レベル3)
生命力:30
攻撃力:25”
「お迎えにあがりました、ニーナ様。お支度はお済みですか?」
ステファンという男が優雅な仕草で頭を下げた。
「上級使用人」という一郎が初めて接するジョブもある。どうやら、ニーナの使用人のようだ。
執事といったところだろうか。
「予定が変わりました、ステファン……。王都にはしばらく戻りません。馬車は返してください。王都に戻るときには、こちらから人を使って連絡します。それまで迎えに来るに及びません」
ニーナがはっきりと言った。
「は、はあ? そんなばかな……。あっ、いえ、失礼──。そんなことはできませんよ。ここで過ごされるのは、月に一日だけというお約束です。それに、今夜も唄会の予定が……」
「予定は全部取りやめです。そう手配してください、ステファン……。トーイが襲われたのです。トーイの安全が確認できるまで、わたしはどんなことがあっても、トーイのそばを離れません」
ニーナの言葉ははっきりとしたものだ。
「トーイ? ここの宿の坊やでしょう? それがなんなのです」
「だから、襲われたんです。わたしは彼のそばを離れるわけにはいかないのです」
「ば、ばかな……」
ステファンの顔が明らかに真っ赤になった。
身体が怒りに震えている。
「駄目です。そんな我が儘など──。第一、ドルニカ様がお許しになるはずがない。今夜から先のパーティをすべて取りやめれば、ドルニカ様の面子が丸つぶれになります」
「ドルニカ様にはわたしからすぐに手紙を書きます。ドルニカ様はわかってくださるはずです」
「なりません。早く、お支度を──」
ステファンがつかつかとやってきた。
強引にニーナを連れて行こうとする気配だ。
「なんなの、あんた?」
すると、エリカがニーナの前に立ちはだかった。
「お前こそ、なんだ? どけ──」
ステファンはエリカを突き飛ばそうとした。
しかし、エリカはさっと身体をかわす。
「痛い──。いた、いた、いたいいっ──」
ステファンが叫び声をあげた。
エリカはステファンの腕を掴んで、後ろに捩じりあげていた。
「な、なんだ?」
「ステファン様──」
馬車から屈強そうな男ふたりが現れた。
どうやら護衛のようだ。
そのふたりが剣を抜くのがわかった。