※この作品はR-18です。

【改訂版】異世界で淫魔師ハレム【コミカライズ作品】   作:ドン・ドナシアン

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057 幼馴染の沈黙

 宿屋の一階は、いまはひっそりと静まり返っていた。

 この二日間、女主人のマニラが休業を決めており、客はひとりもいない。帳場にも厨房にも人影はなく、広い食堂の卓はがらんとしている。

 

 一郎たちは、その卓のひとつを囲んでいた。

 エリカとコゼが並び、一郎の正面にはトーイが座っている。宿の主人の息子である彼は、所在なげに卓上の水差しを弄びながら、どこか落ち着かない様子を見せていた。

 

 本来なら、この時刻にはニーナがここにやって来るはずだった。

 王都での歌姫の仕事をしばらく休み、マイムの城郭にある高級宿に滞在している彼女は、毎夕ここへ足を運び、この二日の調査の報告を受けるのが習わしとなっていたのだ。昨日も一昨日も、夕食の前には必ず顔を見せていた。

 

 だが、今夕は違った。

 宿の下女を通じて、急な用事で遅れると伝言が入ったのだ。

 

 一郎は腕を組み、短く息を吐いた。

 この二日の調査でようやく掴めた真相は、もはや曖昧にしておけない。

 依頼人に先立って報告するのは本来憚られる。しかし、トーイもまた当事者だ。ニーナが来ない以上、まずは当事者であるトーイに先に伝えておくべきだと判断した。

 だから、トーイだけには先に伝えることにしたのだ。

 彼の胸にどれほど響くかを確かめておくのも、決して無駄ではないと思う。

 一郎の目にも、トーイは歌姫ニーナの恋人にしか見えなかった。

 

「……というわけで、ニーナさんには後で改めて報告します。だが、トーイさん──先に君に話しておこうと思います」

 

 一郎はそう切り出した。

 

「……まず、襲撃の件についてですが、二日間の調査で背後にいる人物がおおよそ見えてきました」

 

 一郎が切り出すと、トーイはわずかに顔をあげた。だが眼差しは淡く揺れるだけで、真剣に耳を傾けているのかどうか判じがたい。

 

「──ドルニカ伯爵夫人です」

 

 一郎が名を告げた瞬間、トーイは小さく息を呑むかと思った。

 だが実際には、ほとんど反応を見せなかった。唇がかすかに動いたものの、すぐに視線を逸らしてしまう。

 まるで、あらかじめ知っていたかのように……。

 一郎は眉をひそめる。

 

 この二日、間近で彼を見ていて気づいたことがある。

 トーイは不自然なほどにニーナの身を案じ続けている。

 だが、自分が毒で命を奪われかけた当人であるにもかかわらず、自分の安全については一切気にかけていない。

 まるで、自分はもう襲われないという確信を持っているかのようだ──。その態度の奥には、なにかを隠している気配があった。

 

 一郎は「脅されているのではないか」と問い質したこともある。しかし、トーイははっきりと否定した。

 ただ、そのときの彼の動揺した様子を見て、一郎は逆に確信した。トーイはなにかを隠している、と……。

 そのときも、トーイは唇を噛み、しかし視線を逸らしただけだった。

 いまと同じように……。

 

 そのとき、いきなりエリカが机を叩いた。

 

「……はっきりしなさいよ。自分を狙ったのが伯爵夫人かもしれないのに、どうしてそんなに平気な顔でいられるの」

 

 強い口調に、トーイは小さく肩をすくめただけで答えなかった。卓上の水差しの縁を撫で続ける指先が、かすかに震えているのが見える。

 

「エリカ、落ち着けよ……」

 

 一郎はそう言って手をあげた。

 そのまま胸中で夫人の姿を思い描く。

 

 ドルニカ伯爵夫人──。

 王都に住まう有力貴族であり、多くの若い芸術家を育ててきた名高い庇護者であるらしい。画家、楽士、詩人……彼女の後ろ盾で世に出た者は数知れない。そしてニーナもまた、その支援を受けて名を知られる歌姫となったもののひとりなのだ。

 だからこそ、トーイにとっても、ニーナにとっても、夫人は避けて通れない存在のはずだ。

 

「夫人ほどの立場であれば、暗殺者を抱えていても不思議はありません。今回の襲撃も、そうした者たちが動いたと考えるのが自然でしょうね」

 

 一郎は静かに告げ、トーイの反応を探った。

 しかし返ってきたのは、相変わらず曖昧な沈黙だった。

 一郎は少し間を置き、あえて、別の名を口にした。

 

「それとも……ステファン卿かもしれませんね」

 

 トーイは無言のまま、ただ目を伏せた。

 

 一郎はさらに言葉を重ねる。

 

「……ステファン卿がニーナさんに横恋慕していることは明白です。単純に恋人であるあなたが邪魔になった……そう考えるのが自然でしょう。場合によっては、ニーナさんとステファン卿が愛し合うことになるかもしれません」

 

「そ、そんなことは絶対にない」

 

 トーイが顔をあげ、はじめて強く声を発した。

 

「なぜ、断言できるんです?」

 

「ステファン卿はそんな人じゃない。ニーナを女として見るはずがない。彼は純粋に歌姫としてのニーナを支えているだけだ」

 

 珍しいほど激しい否定だった。

 

「しかし……ニーナさんは美しい。ステファン卿でなくても惹かれる男はいるでしょう。あなたが恋人だから否定する気持ちは理解しますが、恋心に理屈はありません」

 

 一郎が淡々と告げると、トーイは机を握りしめた。

 

「……俺は、ニーナの恋人じゃない。ただの幼馴染だ」

 

「えっ、恋人じゃないの?」

 

 コゼが呟くように口を挟む。

 意外という表情だ。

 一郎もちょっと驚いた。

 婚約者かどうかはともかく、恋人であることを否定するとは思わなかったのだ。

 

「違う。そんなんじゃないんだ。ニーナは、王都でも有名な歌姫で、俺は庶民相手の宿屋の息子でしかなく……」

 

「はあ、だからなんなのよ。それに少なくとも、ニーナは、あんたが好きなんじゃないの?」

 

 エリカだ。

 

「違う。俺はただの幼馴染でしかない」

 

 トーイは食い気味に遮り、固く言い張った。拳が白くなるほど卓を握りしめ、しかし視線は一郎の目を避け続けている。

 一郎はその様子を見据えながら黙った。

 彼の言葉には理屈ではなく、どこか諦めを宿した響きがある。──頑なに繰り返される「ただの幼馴染」。それが逆に、彼の心の揺れを物語っているように思えた。

 

「……まあいいでしょう。ステファン卿は、今回のことについては係わってないでしょうね」

 

 一郎は短く息を吐いた。

 いずれにせよ、サイの毒ほどの猛毒を扱う暗殺者を差し向けられる者は限られている。ステファン卿もそのひとりではあるが、あの襲撃の直後、彼が見せた狼狽は作り物ではない──。人の死を目前にしたときの素の反応だった。

 一郎の勘でも、あの動揺に裏を感じることはできなかった。

 勘のうえでも、彼に黒い影を感じたことはない。まったくの白とは断定できないにせよ、直接の関与はまずないだろう。

 

 そうなると、残るのはひとり。

 ニーナの周囲で、暗殺者を雇えるほどの財と地位を備えた人物……。

 

 ──ドルニカ伯爵夫人。

 

 あとは、彼女に動機があるかどうかだった……。

 一郎の出した結論に対して、ニーナがどんな反応を示すかは読めない。だが、この二日間で調べ得た情報を総合すれば、導かれる結論は同じだった。

 

 この二日間──。

 警護を受け持ちながら調査を進めた。

 この宿屋は休業中で、客も出入りもない。エリカが結界を張り巡らせ、さらに侵入者防止の罠をいくつも仕掛けた。

 トーイには不用意に部屋を出ないよう指示しており、この宿を離れぬ限り、誰であろうと近づけないはずだった。──むしろ襲ってきてくれれば、捕らえることができて手っ取り早いのだが、その機会もなかった。

 この二日間、トーイは二度目の襲撃を受けずに済んだ。

 

 だが代わりに、調査の方は大きな進展を見せた。

 決め手になったのは、コゼが持ち帰った情報だ。

 一郎とエリカは宿に残ってトーイを警護し、コゼを調査のため外へ出した。

 

 コゼは思いがけない手段で深い情報を拾ってきた。

 奴隷からの聞き込みだ──。

 

 人として扱われぬ彼らは、主たちは、彼らの前でどんな話をされても気に留められず、家具同然の扱いを受けている。

 だが実際には耳も口もあり、口外しないと信じ込まれているだけだ。コゼは効果を失った隷属の首環を嵌め、自分も奴隷だと名乗り、同じ境遇の者たちに安心させて情報を引き出したらしい。

 

 

 その結果、ドルニカ伯爵夫人の表と裏が輪郭を見せ始めた。

 表向きは数多の若い芸術家を育てる高名な庇護者──。

だが、複数の奴隷の証言は、若い女を好み、嗜虐に耽る場面を見聞きしたという点で一致していた。

 支援を受ける芸術家にニーナのような娘が多い理由も、そこに由来するのかもしれない。

 いずれの証言も伝聞や密談の端々に依るため裏は取れていない。けれど、断片の重なり方は無視できない精度を示している。

 

 さらに奴隷たちは、伯爵夫人が王都だけでなく、このマイムの城郭にも別宅を持っていると語った。そこでもしばしば若い芸術家たちを呼び寄せていたらしい。

 ニーナが夫人に寵愛を受けているという話も、この地に直接に繋がるものであり、信憑性は高い。

 そして、いま最も寵愛を受けているのがニーナだという点も、証言は一致していた。

 

 また、別の筋からは、ニーナが歌姫をやめ、故郷の宿屋に戻りたいと訴えていた──という話があった。

 その理由は、名声や栄光よりも、トーイのそばで暮らしたいという思いが勝ったからだろう。

 ドルニカ伯爵夫人がやわらかく翻意を促していた、というのも一致点だ。

 

 ここから先は推測になるが、夫人がなにかしらの条件を示した可能性はある。

 たとえば、トーイに自分との関係を明かし、受け入れてもらうこと──そうした筋立てなら、最近の出来事と整合する。

 実際、あの日の朝にニーナが泣き崩れていたこと……、そしてその前後のふたりの会話の齟齬を思えば、ニーナからトーイへの告白があり、トーイがそれを受け入れられなかったという仮説は成り立つ。

 断定はできないが、状況はそれを支持している。

 

 では、なぜトーイが狙われたのか。

 致死性の毒が用いられた事実自体は動かしがたい。

 問題は、その指示がどこから出たかだ。

 ここで、トーイのこの二日の振る舞いが引っかかる。

 命を奪われかけた本人でありながら、自分の危険には無頓着で、ニーナの身ばかりを気にかけている。──その振る舞いは、まるで「自分の命などどうでもいい。狙われるのはニーナだ」と思い込んでいるかのようだった。

 

 もし、トーイがなにかを握られているのだとしたら──たとえば、ニーナを受け入れればニーナを害する、といった類いの脅しを受けているのだとしたら、この偏りは説明がつく。

 脅しの実効性を示すために、まずはトーイ自身に毒で手を伸ばした、と考えるのは不当ではない。

 もちろん、文書や言質があるわけではない。

 ただ、そう仮定すると、トーイの沈黙と過剰なまでの配慮の向き先が、無理なく一列に並ぶ。

 

 以上を踏まえると、暗殺者を用意できる財と地位、ニーナへの強い影響力、そして動機の線が、それぞれ伯爵夫人へと収束していく。

 いまの段階で言えるのはそこまでだ。

 断言はできない。

 だが、最も筋が通る仮説は、夫人が裏で動いているという結論になる。

 根拠に欠けても、状況証拠としては十分だろう。

 一郎たちは、裁判の証拠を集めているわけではないのだ……。

 一郎は沈黙の中で腕を組み、はっきりと言葉を紡いだ。

 

「……繰り返しますが、最も筋が通るのはこうです。ドルニカ伯爵夫人はニーナさんを手放す気などなく、そのために容赦のない手段を選んだ。──トーイさん、あの襲撃は、あなたを狙ったのではなく、ニーナさんへの“警告”だったのではないですか?」

 

「ち、違う」

 

 トーイが反射的に声を張った。

水差しを掴んだまま、手が震えている。

 

「どうしてそんなに否定ばかりするのよ? 否定する理由はあるの、あんた?」

 

 エリカが机に手を打ちつけ、強い声音で言い放った。

 

「……だ、だから、問題ないんだ。この件は終わりでいい」

 

 トーイは首を横に振る。

 

「いや、どう見ても伯爵夫人が関わってるでしょう。それなのに、なんだ、あんたは見て見ぬふりをして、平気な顔をしてるの?」

 

「伯爵夫人がそんなことをするはずがない。ニーナが歌姫を続ける限り、問題は起きないんだ。それでいいんだ。それが一番幸せなんだ」

 

 トーイの声は震えながらも必死だ。

 

「幸せ? それがニーナの本当の望みだと思ってるの」

 

 エリカの怒気は収まらない。

 

「そうだ」

 

「違うでしょう。ニーナはあんたのそばに戻りたがってるんじゃない。無理に押し殺してるということはないの?」

 

「俺は……俺はただの幼馴染なんだ。俺なんかが足を引っ張るより、ニーナが歌姫でいるほうがいい」

 

 トーイは吐き捨てるように言い、椅子をきしませながら立ち上がりかけた。

 

「やめろ、二人とも」

 

 一郎がすかさず声を張り、手を差し入れるようにして二人を制した。

 しばし沈黙が落ちる。

 

「……トーイさん。あなたが知っていることがあれば、話して欲しい……」

 

 一郎は落ち着いた口調で言葉を続けた。

 

「そんなものはない……」

 

 トーイはそれだけを言った。

 一郎は嘆息した。

 

「……わかりました。いずれにしても、調査の結果はニーナさんに伝えます。あとは彼女自身がどう判断するかです」

 

 その一言に、トーイの顔が強張った。

「そんな必要はない。……もう十分だ。この件は終わりでいい。調査も警護も、これ以上は要らない」

 

 堰を切ったように声を荒げ、拳を卓に打ちつけた。

 一郎は眉ひとつ動かさず、その言葉を受け止める。

 

「依頼人はあなたではない。──ニーナさんです」

 

 その静かな断言に、トーイは一瞬、言葉を失った。

やがて苦しげに視線を伏せ、水差しを握った手に力を込める。

 食堂には、張りつめた沈黙だけが流れた。

 

 その沈黙の向こうに、一郎は思う。

 ……結局、真実をどう受け止めるかは、彼女自身に委ねるしかないか……。

 

 今夜は来られないという伝言はあったが、ニーナは明日には来るだろう……。

 やがて訪れるであろう報告の場を思い描きながら、一郎は目を閉じた。

 

 

 

 

 

 第8話『歌姫と幼馴染』終わり──

 第9話『歌姫への制裁』に続く──

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