【改訂版】異世界で淫魔師ハレム【コミカライズ作品】 作:ドン・ドナシアン
ニーナの唄が響いていた。
けれど、それはステファンのよく知るあの唄とはまるで違っていた。声には張りがなく、あの胸を震わせる独特の抑揚も影を潜めている。耳に届くのは、ただ空虚な調べにすぎなかった。
客たちの視線は確かにニーナに向いている。
だが、そのどれもが彼女の唄そのものには一片の関心も払っていないのがわかる。
それが口惜しかった。
彼らが愉しんでいるのは、声ではない……。
首輪ひとつを嵌められただけの裸身で歌わされている歌姫の惨めな姿。羞恥と媚薬の熱に染まり、頬も胸も真っ赤に火照らされたニーナの憐れな有様だ。
場は女伯爵ドルニカの主催する晩餐会である。
男客もいれば女客もいる。ざっと見て五十人ほどか。
誰もが顔の上半分を仮面で覆い、素顔を晒しているのはただ一人──人垣の中心に立つニーナだけだった。
ステファンが彼女の姿を目にするのは十日ぶりになる。
十日前──。
場所は、幼馴染であり元婚約者でもあるトーイという青年の営む、マイム城郭の片隅の安宿だ。
ニーナはすでに歌姫として名を馳せ、この王都に屋敷を構え、執事である自分のような家人を雇うほどの立場になっていた。にもかかわらず、あの安宿だけは特別に大切にしていて、月に一度は必ず泊まりがけで唄を届けに行っていた。
十日前も、その定められた日だった。
執事としての務めを果たそうと、ステファンは馬車を仕立ててマイムまで出迎えに向かった。
だが、そのとき彼を待っていたのは、動揺しきったニーナの姿だった。
宿屋の息子であるトーイが、何者かに命を狙われたと──彼女は狼狽して打ち明けた。そして、彼女は「危険が去るまで王都には絶対に帰らない」と言い放ったのだ。
ステファンは愕然とした。
彼女がトーイにいまだ未練を残していることは、薄々感じてはいた。
だが、実際にあれほど取り乱す彼女を目にしたとき、腹の底が煮え返るような怒りを覚えたのも事実だ。
それでも──。
名目上の主人はニーナだ。彼女の屋敷を預かり、歌姫としての活動を管理するのが自分の役目だった。
ニーナの指示には従わねばならない。
仕方なく、ステファンはひとり王都に戻り、彼女が不在と告げて唄会の予定を次々と取り消す作業に追われることとなった。
もちろん、この経緯はすぐにパトロンであるドルニカ夫人へ報告した。
執事としてニーナに仕えてはいるが、本来の雇い主はあくまでもドルニカ伯爵夫人である。
歌姫ニーナの公私を管理する任を負っている以上、彼女が唄をやめるなどという事態をそのままにするわけにはいかなかった。
もっとも……。
まさかそれが、こんな結末を呼ぶとは夢にも思わなかった。
ステファンが急ぎ一報を入れたのは、ニーナが唄会を勝手に中止したことに夫人が激怒し、唄そのものを奪う事態を避けたかったからだ。芸術を守りたい一心だったのに……。
ニーナの唄は芸術だ──。
他に比べるもののない、魂を震わせる至高の響きだ。
それを奪わせてはならない──。守り抜かねばならない──。
その思いだけが、ステファンを動かしてきた。
本当の雇い主はドルニカ伯爵夫人であっても、ステファンの心はただニーナの唄にあった。
あの声のためなら、すべてを捧げても構わないとさえ思っていた。
ニーナを裏切るつもりなど、かけらもなかった……。
なのに──。
まさか、こんなことになろうとは……。
変わり果てた姿で辱められ、すっかり力を失った声で唄わされるニーナを目にしたとき、ステファンは仮面の下で涙をこぼしかけた。
「……どう愉しんでいる、ステファン? 長くあんなただの町娘に仕えてくれたご褒美よ。今夜はうんと愉しんでちょうだい。お前には、本来ふさわしい新しい職務を用意してあるわ」
その声に、ステファンは思わず振り返った。
そこにいたのは、深紅のドレスに身を包んだ女主人ドルニカ。燭火を映した金糸の装飾がぎらつき、彼女の笑みは冷ややかだった。
ステファンは慌てて姿勢を正し、口を開く。
「こ、これは伯爵閣下……。こ、今夜はいつにも増してお美しく……」
ありきたりなお世辞しか出てこない。
本当に言いたいのはニーナのこと……。この扱いをやめさせ、彼女を歌の世界に戻さなければならないという訴えだ。
だが、それは口にできなかった。
ドルニカに逆らう恐ろしさを、ステファンは知りすぎている。
毒遣いブルドの残忍さも、夫人の命令ひとつで人がいかに無惨に潰されるかも……。
だから、ただ項垂れるしかなかった。
三日前になる──。
ニーナを歌姫から引き離し、今後は単なる性奴隷として扱うと夫人に告げられたのは、そのときだ。
そのとき、ステファンは息を呑んだ。
ニーナがマイムから王都へ戻っていることは気づいていた。
だが、どれだけ連絡を試みても、彼女にも夫人にも繋がらなかった。
ドルニカ女伯爵の王都屋敷を訪ねても門前払い──。
振り返れば、それは夫人がニーナへの「再調教」という残酷な遊戯にかまけていたからだとわかる。
ようやく届いた夫人からの指示は冷酷だった。
『──ニーナに与えていた屋敷と財をすべて処分せよ。衣類も不要。どうせ二度と服を身につけることはないのだから。』
紙に刻まれたその文面から、嘲笑が聞こえてくるようだった。
衝撃を受けたステファンは強引に夫人の屋敷へ押し入った。
そこで目にしたのは、変わり果てたニーナの姿だ。
三人の男奴隷の性器にしがみつき、苦しげに「薬を……」と口走る彼女……。
その姿を、夫人は女友達と共に酒を片手に嘲笑っていた。
ステファンが踏み込んでも咎めるどころか、夫人は微笑みながら言ったのだ。
──長年、身分不相応の町娘に仕えてくれた礼に、今夜の晩餐会に招待してやる、と。
呆然となった。
ドルニカは、本気でニーナから唄を奪うつもりなのだと悟った。
だが、抗う言葉は出てこない。恐怖が舌を凍らせた。
この晩餐会で見世物にされているのは、その証──。
唄も、屋敷も、財もすべて奪われ、かつての歌姫は裸身を晒して辱められている。
「は、はい……」
いまも、ステファンにできたのは、ただ従順な返答を搾り出すことだけだった。
夫人は手にした葡萄酒の杯を仰ぎ、一息に飲み干す。
杯は空となり、燭火に赤く縁取られて揺れた。
「ニーナ──。もう、そんな唄はいいわ──。こっちに来て、葡萄酒を注ぎなさい。ほかのお客にもよ──」
ドルニカの甲高い声が広間に響いた。
ニーナはびくりと肩を震わせ、唄を止めると、慌てて卓から葡萄酒の瓶を抱え、裸身のまま駆け寄っていった。
芸術を途中で断ち切った──?
その瞬間、ステファンにははっきりわかった。
ドルニカはパトロンなどではない。
ただ己の嗜虐心を満たすために歌姫を縛りつけているだけだ。
震える手で杯に葡萄酒を注ぎ終えたニーナは、苦悶の色を顔に浮かべた。
「ドルニカ様……。お、お願いです……。言われたとおりに裸で出ました……。唄も歌いました……。給仕でもなんでもします……。で、ですから、今日の分の薬を……」
縋るような声。だが、その必死の願いは夫人の冷笑にかき消される。
「ほほほ……薬が欲しいのなら、やることをやってからよ。まだ挨拶が済んでいないでしょう? わたしは命じたはずよね。晩餐会では、客すべてに“雌犬らしい”挨拶をするのだと──」
項垂れたニーナは、やがて力なく四つん這いに崩れた。
その姿にステファンは息を呑む。
誇り高き歌姫が、自らを犬と呼ぶ姿勢をとったのだ。
「ああ……わ、わたし、ニーナは……ド、ドルニカ様に仕える雌犬です……。ご主人様のお友達にも……お、同じようにお仕えするよう命じられております……。で、ですから……どんな命令にも従います……」
涙を流しながら、無理やり声を張り上げる。
観衆の中から、嘲るような笑い声があがった。
「ほう、随分と殊勝じゃないか」
「裸で吠える犬の挨拶とは、愉快だわ」
その笑いに煽られるように、ドルニカは靴音を鳴らし、冷たく言い放つ。
「それだけ、雌犬?」
場が水を打ったように静まり返る。
ニーナは怯えたように顔を上げ、嗚咽を混じらせながら叫んだ。
「あ、ああ……。そ、それで、もしも……小尿をなさりたい方が……お、おりましたら……わ、わたしがすべて口で飲ませていただきます……。ど、どうか、遠慮なく……」
その言葉が広間に響いた瞬間、あちこちから低い笑い声と罵声が飛んだ。
「聞いたか? 犬が自分から水鉢になりたいとよ」
「せっかくだ、今すぐ口を差し出させろ」
「はは、芸術家の唇が便器とは上等な冗談だな」
ニーナは堪えきれず、声をあげて泣き出した。
ステファンは仮面の下で歯を噛みしめる。芸術を守るために仕えてきたはずの歌姫が、これほどまでに辱められている。
だが抗うことはできない。ただ、立ち尽くし、無力を噛みしめるしかなかった。
「まったく、この雌犬はめそめそと……。挨拶ひとつ満足にできないのかい」
ドルニカは苛立ちを隠さず舌打ちすると、スカートをたくし上げ、そこから黒革の乗馬鞭を引き抜いた。
鞭の先が空気を切る音に、広間が静まり返る。
「前──」
女伯爵の一声で、会場を取り巻く視線が一斉にニーナへ注がれた。
いつの間にか客の輪が幾重にも取り囲み、仮面の奥から好奇と嘲笑の光が突き刺さる。
ニーナは弾かれたように立ち上がった。
震える腕を頭上に組み、足を大きく開き、腰を前へ突き出す。
がに股に広げられた白い脚、その股間は一本の毛すら許されず、幼くさらけ出されたような無防備さを曝け出していた。
羞恥に息を止め、観衆の笑いがどっと弾ける。
「ほう、仕込まれた犬は素直だな」
「股を開く姿勢は様になっているじゃないか」
ステファンは胸が潰れそうになった。
言葉ひとつで即座に従う姿──、それは彼女がどれほど長く、この辱めを強いられてきたかを物語っていた。
次の瞬間、鞭がうなりをあげて振り下ろされた。
乾いた衝撃音と共に、赤い線がニーナの股間を走る。
「ひぎいいい──」
悲鳴を上げ、彼女はその場に崩れ落ち、畳の上をのたうち回った。
それでも観衆の誰ひとり同情せず、むしろ哄笑と口笛で辱めを煽る。
「だれが勝手に姿勢を崩していいと言ったんだい、雌犬──」
ドルニカは鞭を振りかざしたまま高らかに言い放つ。
「まったく、言いつけひとつ守れないのか。そんな料簡なら薬を抜いてやるよ──。一滴も与えずにね」
哄笑が広間を満たす。ドルニカは勝ち誇ったように大笑いし、鞭先を床に叩きつけた。
ステファンは仮面の下で奥歯を食いしばり、冷や汗が背を伝うのを止められなかった。
芸術を生み出す喉を持つはずの女が、いまはただの見世物として蹂躙されている……。
声を上げそうになる自分を必死に押さえ込み、唇を噛んだ。
薬……。
やはりニーナは、薬が切れると耐えがたい苦痛に苛まれるよう、完全に薬物中毒へと堕とされているのだ──。
その事実に思い至り、ステファンは改めてドルニカの冷酷さに戦慄した。
もとは一介の町娘だったとはいえ、芸術を体現する歌姫を、よくもここまで惨めな姿へと突き落としたものだ。
「も、申し訳ありません……。も、もう一度機会を……」
ニーナが涙に濡れた顔を上げ、慌てて立ち直る。震える脚を開き、再び両腕を頭上に組んで、雌犬の姿勢をとった。
だが──。
「もういいわ。ならば雌犬らしく、そこでおしっこをしてごらん」
ドルニカの声音は甘美な毒を含んでいた。
そう言うと、彼女はテーブルから平たい器を取り上げ、にやりと笑みを浮かべながらニーナの脚のあいだに置いた。
器にはまだ料理が盛られていた。サラダの葉に卵が絡めてある。
その上に命じられたものを注げと──。観衆のどよめきと笑いが一斉に沸き起こった。
「その器に、一滴もこぼさず注ぐのよ。きれいにできたら薬をあげるわ」
挑発するように鞭の先で器を突きながら、ドルニカは愉快げに告げる。
ニーナの顔がひきつり、唇が震えた。
羞恥と絶望に引き裂かれる表情を、ステファンは直視できなかった。
それでも視線を逸らせば、彼女を見捨てることになる──。
仮面の奥で、苦悩に歯を噛み締めるしかなかった。
「……お、お慈悲を……」
ニーナは命じられた内容のあまりの卑しさに震え、涙を滲ませて懇願した。
ステファンは正視できず、仮面の奥で目を伏せる。
その頭上に、ドルニカの鋭い叱声が飛ぶ。
嘲笑を混ぜた客たちの声も次々に浴びせられる。
「ほら、犬ならやってみろ」
「見せてみろ、皆の前で」
──狂っている。
この場にいる者は全員、狂気に呑まれている。
ステファンは握りしめた拳が爪で肉を抉るのも忘れ、ただ耐えた。
やがて、ニーナの慟哭が甲高く広間に響く。
続いて──じょろじょろと液体が落ちる音。
ステファンの耳を刺すその音は、疑いようがなかった。
ニーナは本当に、料理の盛られた皿に尿を注ぎ始めたのだ。
どっと歓声が湧いた。
「はは、器から溢れてるぞ」
「薬は無しだな、これは」
狂気じみた野次に混じり、ドルニカの声が響く。
「まあまあ、随分とこぼしたじゃないの。これでは薬は与えられないわね……。ところで、腹も減っているでしょう? 食事をお食べ。さあ、また四つん這いに──」
酔ったような声音に、ステファンは顔を上げざるを得なかった。
ニーナは泣き濡れた顔のまま、従順に四つん這いに戻る。
ドルニカは卓から肉を摘まみ、自らの口で咀嚼すると、ぐちゃぐちゃと音を立てて噛んだまま、それを皿に吐き出した。
その皿は、すでにニーナの尿に濡れ、悪臭を放っている。
「どれ、わしもやろう」
「ふふ、私も──」
五人ほどの客が次々と口の中の食べ物を噛み砕き、唾液と共に皿へ吐き出した。
もはや中身は、料理の残りかすと尿、そして人々の吐瀉物にしか見えない。
ニーナは呆然と皿を見つめ、震えていた。
ステファンもまた言葉を失った。
「美味しそうじゃない──。さあ、お食べ。もちろん、ひとつ残らず口に入れるのよ。手を使わずに、床に落ちたものも舐めとるのを忘れないようにね」
ドルニカが高らかに笑うと、広間に笑いが弾けた。
皿からは吐き気を催す悪臭が立ち昇り、ステファンの鼻腔を突いた。
「そ、そんな……。こ、これ以上は……。お願いです、薬を……。ほかに誰もいないところなら、本当に、なんでもします……。でも……こんな大勢の前で辱められるのは……」
ニーナは必死に訴えるが、言葉は途中で嗚咽に変わった。
客たちは嘲りの声を重ねるばかりで、誰ひとり彼女を救おうとはしない。
やがて、観念したようにニーナは顔を皿へ屈め、唇を汚物に触れさせた。
ぐちゃりと嫌な音がして、不潔な「料理」が口に運ばれていく。
ステファンの胸が張り裂けそうになった。
芸術を生み出すはずの唇が、こんなものを貪らされている──。
耐えられるのはそこまでだった。
すでにドルニカはステファンの存在など意にも介していない。
これ以上この狂乱の宴を見続ければ、己の理性が砕け散ってしまう。
ステファンは席を立ち、晩餐会の広間を後にしようとした。
会場を抜け出そうとしたそのとき、入れ替わるように五人の男奴隷が押し入れられてきた。
彼らは上半身こそ鎖で飾られていたが、下半身はむき出しで、怒張を誇示するように勃ち上がっている。
ステファンは足を止めた。嫌な予感に突き動かされ、もう一度だけ振り返る。
仮面の群衆の肩越しに覗いたその先に──。
皿に顔を埋めて「食事」を続けさせられているニーナの背後へ、奴隷たちが群がり、容赦なく突き入れる光景だった。
嬲られながらも、彼女は顔を上げることすら許されず、涙で濡れた頬を皿に擦りつけながら、不潔な料理を口に押し込まされ続けていた。
「さあ、孕むのよ──」
ドルニカの狂声が広間に轟いた。
夫人は杯を振りかざしながら高らかに告げる。
「この男奴隷たちの誰の子を宿すか、楽しみでならないわ──。女友達たちと賭けをしているの。赤ん坊の髪が黒か、金か、赤か……何色で生まれるかをね」
哄笑と嬌声が渦巻いた。
その言葉でステファンは気づく。奴隷たちの髪は皆、色が違っていた。黒、金、赤、栗色、そして灰色──。
ニーナは無数の視線の中で、孕みの賭博の駒として蹂躙されている。
歌姫としての誇りも、芸術も、尊厳も奪われ、いまやただの「器」として弄ばれている。
ステファンは喉の奥が灼けるように熱くなり、目の奥に涙が滲むのを感じた。
だが叫ぶこともできず、ただ拳を震わせるしかなかった。
──もう、これ以上は見ていられない。
ステファンは決意した。
これから先、二度とドルニカには関わるものか……。
あの女と共に在ることは、魂そのものを腐らせることだ。
ステファンは踵を返し、狂気の宴が続く広間を後にした。
だが、扉を抜け、夜風に触れた瞬間、こみ上げる吐き気を必死に堪えながら壁に手を突いた。