【改訂版】異世界で淫魔師ハレム【コミカライズ作品】 作:ドン・ドナシアン
「……とりあえず、ご苦労様。クエスト成功を認めるわ」
ミランダが卓の上に金貨十三枚を並べた。
一郎は、金貨を見つめながら、背もたれに深く身を沈める。
冒険者ギルドの奥にある個室である。
横並びのソファがテーブルを挟んで向かい合っており、奥の席にはミランダがひとり腰掛け、こちら側にはエリカ、一郎、コゼが並んでいた。
「ところで、手元で使う分は持っておきなさい。残りはギルド・ビルに預けるといいわ」
「ギルド・ビル……?」
一郎とコゼが同時に首を傾げた。
「俗に言う両替商ね。魔道印の刻まれた『ビル』と呼ばれる手形を発行してくれるの。その手形があれば、ビルに魔道で記録されている金額を、どこの国でも受け取れる仕組みよ」
ミランダは、さらに事務的に説明を続けてくれた。
つまりは、一郎のもとの世界における「銀行」と「為替」のような仕組みらしい。
「でも、そのビルを盗まれれば同じじゃないの? それとも殺して奪うとか」
コゼが口を挟む。
「いいえ。ビルは盗まれても無駄なの。信用ある者しか支払いはできない仕組みになっているわ。冒険者ギルドの場合は、ランク徽章と一緒に提示しなければならないから、たとえ奪われても持ち主以外には使えないわ」
「なるほど、旅には便利そうだ」
一郎は頷いた。
「わたしは、ローム地方で冒険者をしていた頃には使ってました。『ビル』は偽造できない魔道印が刻まれてますし、徽章と照合されるから安全です。とりあえず、一枚残して預けましょうか」
エリカが口を挟む。
「そうだな」
一郎は、ミランダにそうしてくれるように頼んだ。
ミランダがその場で魔道具の機械を持ってきて手続きをする。
そして、金貨一枚と、「ビル」と言われる小さな薄い金属カードを渡した。全面に魔道紋があり、片面の隅の数字と文字が書いてある。
一郎は、この世界の言葉の会話は問題ないが、文字は読めない。
おそらく金貨十二枚を示す符号なのだろう。
金貨もカードも、そのままエリカに渡す。
「それにしても……」
ビル登録のための魔道機械を横に置いたミランダが、溜息まじりに顔を上げた。
「……まさか、あそこまで過激な手段を執るとは想像もしなかったわね」
「なんのことか、わかりませんが」
一郎は肩を竦めた。
「そうなの?」
ミランダは半分呆れているような笑みを顔に浮かべている。
「達成条件は、あの宿屋のトーイのもとに婚約者ニーナが戻ることでした。結果はその通りです」
「その手段が問題だと言っているのよ。貴族相手に、頭おかしいの?」
「……さ、さあ、なにかの誤解ではないですか?」
エリカが横目で一郎を見た。
だが、明らかに動揺していることを隠しきってない。エリカは素直なのはいいのだが、嘘が下手だ。
改めて、一郎はそれがわかった。
「そうね。貴族様になんか手は出してませんよ。そんな証拠もないんでしょう?」
コゼだ。
エリカとは逆に、完全に無表情だ。
だが、ちょっと言葉に棘がある。
しかし、ミランダはわざとらしく肩を竦めた。
その表情から察すると、特に問題にするつもりはないようだ。
「まあ、そういうことにしておきましょうか。それより──歌姫ニーナを屋敷に監禁していたドルニカ女伯爵のこと、聞いている?」
ミランダは声を潜め、わざと皮肉げに唇を歪めた。
「ニーナさんを伯爵夫人が監禁? それは知らなかったですね。ああ、もちろん、伯爵夫人に俺たちがなにかをしたということはありません。とんでもないことですし」
一郎はうそぶいた。
「……へえ……。じゃあ、伯爵邸に監禁されていたニーナをどうやって、連れ出したのかしら?」
「道を歩いているところを偶然会っただけですよ。歌姫を引退することが決まり、トーイさんのところに戻るというので、会わせました。実に簡単なクエストでした」
一郎は言った。
「そんなことを信じると?」
ミランダが顔をしかめる。
「ほんとよ」
コゼが横からはっきりと言った。
ミランダが大きく嘆息し、ひと呼吸してから口を開く。
「……ドルニカ伯爵は、先日、記憶をなくして幼児退行しているところを保護されたわ。話によると、夜に見知らぬ馬車から全裸で降ろされ、大勢の王都民の前で大便を漏らしたそうよ。まるで幼児のような喋りしかできなかったとかね。一日して退行だけは戻ったけれど、数年間の記憶をすっぽり失っていて、誰に何をされたのかまったく答えられないらしいわ。それに──なにかにすごく怯えているようだし、しばらくは療養だという噂ね」
「そうですか。お気の毒ですね。まあ、俺たちには関わりないですが」
一郎は堂々と応じた。
実際には、淫魔術でドルニカの記憶を消し去り、あの夜の王都広場に放り捨てている。
その際、間違っても、消失させた記憶が復活することはないほど強く術式を刻み込んだ。
また、ブルドについても同じだ。
記憶を抜き取り、毒に関する知識まで削いだ。
その結果、〈毒使い〉のジョブさえ失わせられたのだ。淫魔術は支配下の女の能力にまで干渉できる──その確かさを一郎は知った。
とにかく、ふたりは記憶を失ったまま放逐され、一郎やニーナに再び関わることは決してないだろう。
「……はあ……。まあ、どうせ、ギルドじゃ、あなたたちをかばえないしね。間違って、伯爵夫人が記憶を思い出し、あんたらを訴えれば……そして、それに違法があれば、容赦なくギルドはあんたらを王軍に突き出すわ」
「そのときはどうぞ。まあ、その心配はないとだけ言っておきます」
一郎は頷いた。
「なら、心配ないわね」
ミランダが今度こそ、満面の笑みを浮かべた。
素晴らしい唄だった。
小さな宿屋の酒場に、ニーナの声が響き渡っている。
ステファンは大勢の客で賑わう酒場の隅に腰を下ろし、その声にただ聞き惚れていた。
やはり、彼女の唄はいい……。
最高の芸術だ……。
あの唄がなくならなくてよかった。
ステファンは胸の奥から満足を覚えていた。
やがて唄が終わり、場内に大きな拍手と歓声が湧き起こる。
この宿屋の食堂の小さな舞台に立つニーナが微笑み、深く頭を下げる。
──ニーナがマイムに戻ってから、もう三箇月が経っていた。
その間に彼女は、心も身体も驚くほど立ち直った。
しかも今は、新しい命を宿していると聞く。
柔らかな頬の色、落ち着いた笑顔、そのすべてが「母になる」兆しを宿していた。
あれほど酷い拷問を受けたというのに……。
いまではまるで何もなかったかのように、彼女は楽しげに唄っている。
それを見届けたとき、ステファンの心はもう十分だと告げていた。
──これで安心できる。自分は旅立てる。
トーイがやってきた。
肉の料理とビールを載せた盆を持ち、ステファンの前に置く。
「頼んだ覚えはないけどね」
ステファンは苦笑した。
「あんたから代金なんか取るものかい。それに、来てくれてありがとう。……今回の件では、あんたにも助けてもらったと聞いた。礼をしたいと思ってたんだが、ニーナを王都に近づけるわけにはいかないし、まだ一人にするのも怖くてな」
トーイはそう言ってから、目を細めた。
「そういえば、あの冒険者たち──ロウさんや仲間の連中、いま随分と名を上げてるらしいな。王都でも、知らない者のいないくらいに有名になっている」
「……そうなんだな」
トーイはちょっと懐かしむような顔になった。
どうやら、すでにトーイにとっては、王都のことも昔の話のようになっているのだろう。
おそらく、ニーナにとっても……。
「ところで、ニーナ様が元気そうで安心した。あんなことがあったのに……。やっぱり、ニーナ様はお前のもとに戻るべきだったんだろうな。王都では、あんな顔は一度も見せなかった」
ステファンは言った。
「それが不思議でね……。ニーナはこの三箇月のことをよく覚えていないらしい。思い出そうとしても夢の中みたいに曖昧なんだ。覚えているのは、この宿屋の前で俺が毒針で倒れたときまで。ドルニカ夫人のことも、ほとんど忘れている……」
「そう……なのか?」
「うん……。でも、そのおかげで、こんなにも早く笑顔が戻った。俺は、それがなにより嬉しい」
トーイの言葉に、ステファンは驚きながらも納得した。
やはり、あの冒険者の力だ。不思議で頼もしい男だった。
「あら、ステファン、来てくれたのね──」
屈託のない声が響いた。
前掛け姿のニーナが現れる。板についた若女将のような所作。
頬は柔らかく、瞳は澄み、そして腹部には新しい命がある。
「突然、王都の仕事をやめたりしてごめんなさい。あなたにも迷惑をかけたでしょう?」
「王都のことは心配いりません、ニーナ様。すべて片づけておきました。あなたが引退したことで問題になることは、もうなにもありません。ご安心ください」
「ゆっくりしていってくれるんでしょう? よければ店が終わるまで待っていて。トーイと三人で飲みましょう」
ニーナはそこで、ふと笑ってお腹に手を当てた。まだ目立たない小さな膨らみだ。
「わたしは飲めないけど……お付き合いはするわ」
ステファンは目を伏せ、小声で呟いた。
「……こいつの子ですよね?」
「まあ、なんてこというのよ」
ニーナは顔を真っ赤にして、次の瞬間には堪えきれずに爆笑した。
その様子に、トーイも呆れたように笑みを浮かべている。
ステファンは、その態度を見て確信した。
──どうやら、あのときの子ではない……。
ふたりにとっては冗談にしかならない問いだったのだ。
胸の奥にわずかに残っていた重石が、すっと消えていくのを感じた。
ステファンは首を横に振った。
「残念ですが、そうもいきません。別に宿を取ってあります。……これは別れの挨拶に来ただけなんです」
「別れ?」
トーイが眉を寄せる。
「旅に出ることにしました。ニーナ様のことも一区切りついたし、いい機会です。もっと見聞を広めたいと思っていたので」
本当は──ニーナを忘れるためだ。
結局、自分は彼女に恋をしていた。
ニーナの唄を、そしてその唄を歌うニーナ自身を……。
だが、そのニーナはこれからトーイと生き、母となる。
ならば、自分は旅に出て、すべてを心に封じるしかない。
「そんな……。水臭いわね。宿屋なんて引き払ってしまってよ。ここも宿屋なのよ。ここに泊まってよ、お義母さんに頼んで部屋を用意してもらうから」
ニーナが声をあげ、トーイも同じように勧めてくれる。
だが、ステファンは静かに首を振った。
「……だったら、お願いがある。それをかなえてくれたら、ひと晩ここに厄介になります」
「なに、ステファン。なんでも言って」
「あなたが最初に俺の前で歌った唄が聴きたいです……。報われない恋をする男の唄です」
ステファンは微笑んだ。
「お安いご用よ。あなたのために、一生懸命に歌うわ」
ニーナが前掛けを外し、その場で歌い始めた。
すぐに、柔らかく、そして力強い旋律が、宿屋いっぱいに流れていった。
第10話『新米冒険者と歌姫の幼馴染』終わり──
第11話『男嫌いの女騎士』に続く──