【改訂版】異世界で淫魔師ハレム【コミカライズ作品】 作:ドン・ドナシアン
083 斡旋された屋敷
ギルド本部の前の大通りで二度、正面玄関で三度声をかけられた。
いずれも冒険者らしい顔だったが、一郎には見覚えがない。ただ、妙に親しげだった。
違和感を覚えながら、本部のロビーに足を踏み入れる。
広間は冒険者たちの溜まり場のようになっているが、入った途端に視線が集まった。好意と、わずかな敵意。だが一郎には、ここで気安く声を交わせる相手などひとりもいない。
「気のせいかな。急に人気者になったみたいだな」
一郎が横のエリカにささやく。
「気のせいじゃありません、ロウ様。みんなこちらを見ています。わたしから離れないでください。コゼ、後ろを」
「わかっている」
エリカが肩を寄せ、コゼが一歩下がって背を塞ぐ。
「おいおい、大袈裟だろう」
一郎は苦笑した。
そのまま受付に向かい、空いている席に腰を下ろす。
エリカとコゼは座らず、背後に立って警護の形を崩さない。ここはギルド本部の中なのに、と思ったが口にはしなかった。
「やあ、マリー。ミランダを頼むよ。呼び出しを受けたんだ」
一郎は、受付のマリーに声を掛けた。一郎たちのパーティについては、ほとんどこのマリーが対応してくれる。
日常は受付係だが、ミランダの片腕のような立場でもあるらしい。実は、〈レベル10〉の魔道遣いでもある。
「はい、お待ちくださいね」
マリーは一郎たちに軽く会釈すると奥へと姿を消した。
しばらくして戻ってきて、にこやかに声をかける。
「ロウ様、皆さま。ミランダがお待ちです。どうぞこちらへ」
案内に従い、一郎たちは廊下を抜け、重厚な扉の前に立った。
扉が開かれると、そこはミランダの執務室だった。大きな机の上には書類が山のように積まれ、外の喧騒とは別世界のような静けさが漂っている。
机の向こうにいたミランダは、小柄な体を椅子に預けていたが、顔色は青白く、どこかげっそりとして見えた。忙しさに追われていることは一目でわかる。
「やあ、あんたたちね。わざわざ呼びだてして悪いわ」
ミランダが顔をあげた。
「忙しそうだね」
一郎は声を掛けた。
「そうね。色々とね……。とりあえず、こっちに座って。立ち話じゃ落ち着かないでしょう」
ミランダは立ち上がり、応接用のソファを示す。
一郎たちが腰を下ろすと、ミランダも向かいに座り直し、背後のマリーに声をかける。
「先日のジーロップ山のクエストの件ね。成功報酬を支払うわ。マリー、準備して」
「……成功扱いになったんですか?」
エリカが驚いて訊ねた。
あのジーロップ山のクエストは、本来「シャングリアに手を出さない」という条件つきだった。だがその条件を一郎が破ったと見なされ、ギルドは失敗扱いと判断。報酬は没収され、瘴気溜まりの封印による王宮からの賞金も差し止められていた。
シャングリア自身は責任を取るように故郷へ戻り、彼女が大伯父と呼んでいる一族の長であるモーリア伯爵を説得するため領地へ帰っていたのだ。
「そうよ。シャングリアが伯爵を説得して、モーリア領内のギルドを通じて正式に支払いがあったの。だから成功扱いに変更。成功報酬の金貨五枚と、没収されていた瘴気溜まり封印の賞金十枚、あわせて十五枚。いつものように“ギルド・ビル”に入れておくわね」
マリーがビル登録用の水晶玉を卓に置いた。
エリカが管理しているビル用のカードをかざすと、水晶玉が淡く光った。財が登録されたのだろう。
これで三人のどこでも引き出せる資産となる。
──金貨十五枚。これで累計は二百枚を超える。一郎の感覚では数千万円に相当する額だった。もはや小さな財産どころではない。
「……ということは、シャングリアは、冒険者としてやっていくことを伯爵に認めてもらえたんですね」
エリカが安堵の声を漏らす。
「さあ……。そこまではわからないわ。ただ、依頼人がクエストを成功と認めたということね。地方ギルドから報せが来たわ」
ミランダが頷いた。
「じゃあ、多分、来るわね……。あいつ」
コゼが軽く肩を竦めた。
「これで、クエスト連続成功記録の更新続行ね。本当に、あんたたちみたいな優秀なパーティばかりだと助かるんだけどねえ……。実際には、失敗したり、依頼者ともめたりして、現地で面倒を起こすパーティが多くて参るわ。このところ、それが続いてね……。その後始末で忙しくて……」
ミランダが愚痴めいた言葉を吐いた。
いつも闊達な彼女にしては珍しく、それが疲れた表情に表れているのだろう。
「俺たちにできることがあれば、協力するよ、ミランダ」
一郎が声を掛けると、ミランダはにっこりと微笑んだ。
「ありがとう。だけど、あんたたちはすでに一箇月で強制クエストを二回も受けてくれているしね。まあ、大丈夫よ」
そう言ってから、彼女はくすりと笑った。
「……わかった。でも、いつでも協力するという言葉を覚えておいてくれ」
「ありがとう……。それにしても、あんたたち、もう有名人よ。あの女騎士シャングリアが“パーティに加わる”なんて大声で宣言して、ギルド中の冒険者に聞かれてしまったんだから。あっという間に噂になったのよ」
「有名人?」
一郎は眉をひそめた。
「あらっ? 気づいてないの? ここであんたたちを知らない者はいないわよ。あの騒ぎの主役は、間違いなくロウとシャングリアだったんだから」
ミランダがくすくすと笑った。
一郎も、大通りやロビーで向けられた好奇の視線の理由に合点がいった。
「シャングリアが戻れば……パーティに加えるんでしょう?」
ミランダが興味深そうに問いかける。
「まあ、そうなるだろうね」
一郎が苦笑しながら答えると、マリーが待ってましたとばかりに口を挟んだ。
「……ねえ、ロウさん。本当にシャングリア様が、ロウさんに惚れて冒険者になったって噂、あれって本当なんですか? このギルドで、性奴隷になるって、彼女が叫んだんですって?」
「こら、マリー。立ち入ったことを訊くんじゃないわ」
ミランダがたしなめる。
だがその目は、一郎の答えを待つように、興味深げに光っていた。
一郎は小さく息を吐き、苦笑した。
「……噂は噂だよ。ただ、彼女がどうするかは、自分で決めることだろうな。気心も知れたし、こっちからは拒まないよ」
「性奴隷とかいうのもですか?」
「まあ、そうですね」
そう答えると、マリーは「ひゃあ」と声をあげて破顔し、ミランダは呆れたように肩を竦めた。
「ふう……。やっぱりジーロップ山のクエストをあんたに任せたのは、判断ミスだったかもね。あんたは──希代の女たらしよ」
ミランダは喉の奥で笑った。
「……俺なんかについてきてくれるだけで、ありがたいと思ってるよ」
その答えにミランダは目を細め、さらに口元を緩めた。
「じゃあ、エリカ、コゼ……。あんたたちにとって、ロウは恋人みたいなものなんでしょう? そんなの許せるの?」
からかうような声音に、エリカとコゼが一瞬顔を見合わせる。
「……まあ、正直に言えば。もうひとりいてくれたら助かるっていうか……。ロウ様は、いつも私たちを大事にしてくれるから」
エリカはきゅっと唇を結び、真面目な顔をしながらも、頬を赤らめて小さく言った。
「そうですね……。ご主人様に抱いてもらえるのは幸せですけど、確かにもうひとりかふたりくらい仲間がいたら安心かも。ご主人様は……本当にすごいですから」
コゼも少し照れたように笑い、うなずいた。
思いがけないふたりの言葉に、一郎は頭を掻き、苦笑するしかなかった。
「じゃあ、俺たちはこれで」
一郎はようやく席を立とうとした。
「あっ、ちょっと待って」
ミランダは慌てて一郎を留めた。
彼女は手元の紙束を探り、なにかを見つけ出して一枚の紙を差し出した。
「あっ、あった……。これね。多分そうだわ。ロウ、あんた、あたしの紹介した斡旋屋に住居を探すよう頼んでたでしょう?」
紙には文字が並んでいたが、一郎には読めない。受け取った紙をそのままエリカに渡した。
「ええ、頼みました」
エリカが頷いた。
シャングリアが領地へ立ち去ったあと、一郎は定住のための家を探してほしいとミランダに依頼していたのだ。
それでミランダに紹介された斡旋屋を訪れ、条件を告げて注文した。
アルファ・ランクに昇格したことで、冒険者ギルドのお墨付きがつき、町役人に届ければ住居を借りられる。
宿屋暮らしが数箇月以上続いていたから、家を得られれば大きな助けになるはずだった。
「でもね、大変な注文をしたんでしょう? あの斡旋屋が困ってたわよ。それで、あたしのところに話を戻してきたの。あたしの紹介だから応えたいけど、そんな物件はないってね。あんた、どんな家を注文したの?」
ミランダは呆れ顔で言った。
「そんな大したものじゃないよ。ただ、家に風呂を作りたいから、家の中に井戸があるか、上水を引き込んでいる場所がいいって言ったかな。まあ、それくらいだ」
一郎は答えた。
「ほかにも言っていましたよ、ロウ様。声が洩れるのが嫌だから、壁が隣に接している家はいやだとか」
エリカが思い出したように言った。
「垣根の高い庭付きがいいとも言いました。庭でいろいろできますし」
コゼも口を挟んだ。
「あとは馬車を置ける厩がほしいとか……」
「天井はしっかりと、とか……。地下も少しあった方がいいとか……」
エリカとコゼがさらに並べ立てた。
その条件の裏にはすべて、一郎が思い描く“調教”の場面があった。
風呂は入浴中に女たちを弄ぶため。壁は嬌声を外に漏らさないため。
庭は屋外での戯れのため。
馬車や厩は遠征中でも女たちを抱くため。そして強い天井や地下は、責めや仕掛けを広げるための工夫だった。
次々と注文を告げる一郎に、エリカとコゼが呆れ顔をしていたのも無理はない。
「呆れたわね。まるで貴族の屋敷じゃない。とにかく、いま渡した物件で我慢しなさい。そこに書いてある場所で、斡旋屋が午後から待っているそうよ。一度は見てきなさい」
ミランダが言った。
ちょうどそのとき、奥から彼女を呼ぶ声がした。ミランダは一郎に軽く挨拶して、そのまま執務室を後にした。
「ミランダは忙しそうだな」
一郎は残ったマリーに言った。
「そうですね。このところ、ずっと立て込んでいます。でも、ロウさんたちの対応には必ず顔を出すんです。やっぱり、ミランダのお気に入りなんですよ」
マリーは受付に腰を下ろしながら、いたずらっぽく笑った。
「俺たちがミランダのお気に入り?」
一郎は眉を上げた。
「俺たち、というより……“ロウさん”ですよ。ミランダは、あなたのことがちょっと気になってるんじゃないかって、専らの噂なんです」
マリーは声を潜めて、一郎にひそひそと告げた。
メモに従ってやってきたのは、郊外の一軒家だった。
斡旋を頼んだのは、王都ハロルドの城郭内のつもりだったから、城壁よりもさらに外側で、しかも居住区からもずっと離れた郊外の一軒家に辿り着いたときには、少し驚いてしまった。
だが、エリカによれば、渡されたメモに従えば、ここで間違いないということだった。
到着したのは、背の低い樹木の林に囲まれた石造りの建物だ。
一階建てだが、外から見ている限り、かなり広そうだ。少なくとも、門から先にもちょっとした前庭が拡がっている。
また、家の裏は川に面しているようだ。ここからではわからないが、庭もそれなりにあると思う。
「ここ、いいんじゃないか? 俺の注文にぴったりと思うぞ。周りに住居がないから、遠慮なく好きなように遊べる。しかも、家の後ろは川だ。きっと水には苦労しない」
一郎は嬉しくなって声をあげた。
ミランダは、一郎の注文した家などあり得ないと言っていたが、しっかりと、それなりのものを斡旋してくれていたのだ。
「でも、王都から少し離れていますね。それは不便ですよ、ロウ様」
エリカが口を挟んだ。
確かに、ここまで歩いてくるのに、一郎の時間感覚で“小一時間”かかっている。この世界の時間単位であれば、“一ノス”というところだ。
「でも、王都の城門が閉じることはないから、夜、閉じ込められるということはない。城郭に行くには、やっぱり馬車を買えばいい。それくらいの蓄えはあるだろう、エリカ?」
「まあ、それはそうなんですけど……。でも、これって、家というよりは、貴族の屋敷みたいな感じですよ。こんなすごい建物を冒険者に斡旋?」
「いいじゃないか、エリカ。中であの斡旋屋が待っているんだろう? とにかく、話を聞いてみよう……。コゼは、どうだ? いいと思わないか?」
「思います……。ここがあたしたちの家になるかもしれないと思っただけで、あたし、幸せです」
コゼが溜息のような息を吐きながら言った。
一郎たちは、そのまま門をくぐり、前庭を通りすぎた。
前庭はちゃんと手入れをされている。
玄関に着く。
エリカが呼び鈴を鳴らした。
だが、誰も出てこない。
「まだ、斡旋人は来ていないんでしょうか?」
エリカが一郎に視線を向けた。
「まあ、とにかく、入ってみるか」
一郎は扉に触れてみた。
鍵はかかっていない。
一郎たちは中に入ってみた。
入口の向こうは大きなホールになっている。
やはり、広い。
中央には数個のソファや卓、また調度品などが整然と置かれている。
やはり、人の気配はない。
ただ、確かに、家……というよりは屋敷だが、中は清潔であり、掃除も行き届いている感じだ。
「ロウ様、あれを?」
エリカがホールの中央付近の壁に飾られた一枚の大きな絵を指さした。
そこには夫婦か恋人を思わせる男女が描かれていた。大きな明かり窓から差し込む陽光に照らされ、色彩は柔らかくも妙に艶やかだった。
「……なんとなく、ロウ様に似ていませんか?」
エリカがくすりと笑った。
一郎は思わず頷いた。
髪の色こそ違えど、背格好や顔立ちは自分に似ている。偶然の一致と片づけるには、不気味に思えた。
女は若い美女だが、一郎の知る誰にも似ていない。
ただ、構図が異様だった。
男は椅子に腰を下ろし、女は跪き、床を見つめている。見下ろす男の瞳には光がなく、女の項には影が濃く落ちていた。
「でも、変な絵ですね……」
コゼの言葉と同時に、一郎はかすかな違和感を覚えた。
雲が陽を覆ったのか、室内の光が弱まった刹那──絵が揺らいだような気がした。
「コゼ、窓のカーテンを閉じろ。エリカは燭台に火を」
一郎が命じると、コゼは紐を引いて明かり取りを覆い、エリカが魔道で燭台に炎をともした。
「あっ」
「わっ……」
ふたりが同時に声を上げた。
一郎も凍りついた。
絵が変貌したのだ。
構図は同じ。
しかし、女の衣は掻き消え、裸身があらわになっている。さらに首には鎖の付いた首輪、鎖の端は男の手に握られていた。──絵の中の男は一郎に酷似し、その足元に跪く女は無抵抗にうなだれていた。
「隠し絵……です……。でも、どうして……」
コゼが震え声で言った瞬間、がちゃり、と重い音が響いた。
入口の扉が自動で閉まり、鍵がかかる。続けざまに、窓や裏口の錠前も音を立てて落ちていく。
「なに……?」
エリカが駆け寄り扉を押すが、びくともしない。
コゼは短剣を抜き、すぐさま一郎の前に立った。
「だ、だめです……。魔道で封じられています」
エリカが青ざめた顔で叫ぶ。窓も扉も、すでに見えない力に覆われていた。
「どういうこと……これは……? エリカ、あなたの魔道で破れないの?」
コゼが短剣を構えたまま声をあげた。
「無理……。わたしの力じゃ歯が立たない。これは、もっと強い魔道よ……」
エリカの声が震える。
そのとき──。
「……ピエール、お帰りなさい。随分と長かったじゃない。心配したのよ。ところで、そのふたりは誰? とても美しい子たちね。あなたの新しい女奴隷かしら? だったら、わたしに躾けさせて。きっと立派に調教して、あなたに捧げるわ」
低く甘やかな声が、どこからともなく響いた。
一郎は思わず振り返る。
そこに、ひとりの女が立っていた。
──壁の絵に描かれていた女。
血の気を失うほど美しいのに、肌は薄く透けていた。
輪郭の向こうに壁の影が透き通って見える。
女は確かに存在しているのに、同時に現実から乖離した、ぞっとするほど冷たい気配を纏っていた。
そして、なによりも驚いたのは、一郎の魔眼で、目の前の女のステータスが読めないことだった。
ステータスのわからない相手など、一郎には初めての経験だ。
さらに異様なのは、その身体。女の輪郭は淡く透け、背後の壁や燭台の炎が滲むように見える。確かにそこに立っているのに、実在と虚無が重なり合っていた。
「ゴーストです……ロウ様。それはゴーストです。気をつけて」
離れた位置にいたエリカが蒼白な顔で叫んだ。
ゴースト──つまり幽霊?
一郎は背筋を冷たくした。
「どうしたの、ピエール? わたしを忘れたような顔をしているじゃない。まさか……妻を忘れたわけじゃないわよね?」
女の声は甘やかに響いたが、底には冷たい狂気があった。
ピエール? 一郎のことを、そう呼んでいるのか?
訝しむ間もなく、女の身体がすっと滑るように移動し、一瞬で目の前に現れた。
「な、なによ──」
コゼが短剣を閃かせた。
しかし刃は虚空を裂くだけ。ゴーストの身体には影ひとつ生じない。
「まあ……生意気な女奴隷たちね。いいわ、調教を始めましょう、ピエール。わたしのやり方が生ぬるければ、遠慮なく言ってちょうだい。あなたのために、どこまでも躾けて差し上げるから」
女は首を傾げ、口元に笑みを浮かべた。その笑みは艶やかであるはずなのに、どこか壊れていた。
瞳は熱に浮かされたように爛々と輝き、言葉の一つひとつが粘つくように甘く、同時にぞっとするほど冷酷だった。
「うわ──」
「きゃあ──」
コゼとエリカが同時に悲鳴をあげた。
不意にふたりの身体がふわりと浮きあがり、見えない手に引き寄せられるように宙へ持ち上げられた。
コゼは一郎の目の前から引きはがされ、エリカのいる場所まで運ばれる。
そしてふたりは並んで宙に吊られ、大の字に押し広げられた。
だが、手足を縛っているものは、なにひとつ見えない。
ただ、目に見えぬ力が骨まで軋ませるように、ふたりを宙に磔にしていた。
「エリカ──コゼ──」
一郎は叫び、すぐにクグルスを呼び出そうとした。
クグルスとの連絡を念じて、手首を強く擦りあげる。
それがきっかけとなり、紋様が手首に浮かんで淫魔力が繋がり、異界の扉が開かれるはずだった。
だが──なにも起こらない。
異界との繋がりの気配は掴めず、手首にもなにもないまま……。
一郎は愕然として立ち尽くした。
その横で、女の笑い声が響いた。
「ふふ……ピエール。まだわからないの? ここはわたしの家よ。あなたとわたしの愛の屋敷。ここでは、わたしの望みだけがすべてになるの」
囁きは甘美で、だが耳の奥を爪で掻かれるような不快さを伴っていた。
「……さあ、ピエール。さっそく始めるわね。最初は媚香を嗅がせるわ。たっぷりとね」
女ゴーストがくすくすと笑った。
いまや、ゴーストは一郎の眼の前だ。
見ていると、エリカとコゼが浮いている床からいきなり白い煙が噴き出してきた。
「なにっ?」
「ちょ、ちょっと、これって……?」
エリカとコゼの顔色が真っ赤になった。
すぐに一郎には、その煙の正体がわかった。
あれは媚薬の煙だ。
しかも、かなりの強力なものだ。
あんなものを嗅ぎ続けたら大変なことになる。
一郎はとっさにふたりのところに駆け寄ろうとした。
「ピエール。どこに行くの? あのふたりは、まずは、わたしに任せてったら」
女ゴーストが不本意そうな声をあげた。
構わずに、一郎はゴーストの横を通りすぎた。
「うわっ」
だが、急に身体が宙に浮いたと思った。
いや、実際に浮いている。
しかも、浮かんだまま強烈な力で背中側に移動させられている。
「ぐうっ」
背中を叩きつけられて、一郎は思わず呻き声をあげた。
一郎はロビーにあった長椅子のひとつに、すごい力で押しつけられてしまったのだ。
しかも、背中が椅子の背に張りついたように動かない。
そのとき、一郎の頭にひとつのステータスが飛び込んできた。
シルキー
屋敷妖精、女
支配者
マーリン(ゴースト)
シルキー?
屋敷妖精?
だが、それらしい姿はない。
それにしても、マーリンとは──。
もしかして、目の前の女ゴーストがそうなのか?
「お、俺はピエールなどではありません……。ロウという冒険者です……」
一郎は必死に女ゴーストへ声を投げかけた。
だが女はまるで意に介さず、落ち着きなく部屋をきょろきょろと見回している。
「シルキーね? ピエールになんてことをするの。ピエールに酷いことをしたら折檻よ。この屋敷の旦那様なのよ。姿を現しなさい、シルキー」
金切声が響いた。
だが、現れるものはない。
一方で、媚香の煙を嗅ぎ続けているエリカとコゼの身悶えは激しさを増していた。
一郎の魔眼には、ふたりの「快感値」が〈20〉を切っているのが見える。エリカはすでに〈10〉。短時間でそこまで落とされるのは、あの煙が極めて危険な代物である証だった。
一郎は焦りを覚え、必死に声を張った。
「マーリン、訊いてくれ。俺たちは──」
だが、女ゴーストの奇声がそれをかき消した。
「そうよ、マーリンよ。おお、やっと思い出してくれたのね。そうよ、わたしは妻のマーリンよ」
そのとき、押しつけられていた長椅子の横に、ふと気配が立った。
十歳ほどの、紺色のメイド服を着た可愛らしい少女。
その姿が空中に滲み出るように現れた。
だが、一郎は直感する。これは人間ではない。
おそらく彼女こそ屋敷妖精──シルキー。
「……どこの誰かわからない旦那様……助かりたければ、話を合わせてください……。さもないと、あなたも連れの女の方々も死ぬだけです……」
「ああ? 死ぬだけって……」
「なぜマーリン様の名を知っているのかわかりませんが、あの方は強力な魔道遣い。ゴーストとなったいまでも、一瞬であなた方を殺せます……。たとえ、すっかりと狂っているとしても……」
シルキーは、一郎にしか届かない声で、かすかにささやいた。