【改訂版】異世界で淫魔師ハレム【コミカライズ作品】 作:ドン・ドナシアン
093 シャングリアの帰還
陽はすでに西の山に沈み、街道を渡る風が冷え始めていた。
シャングリアは、王国西端のモーリア伯爵領から王都へ戻る途上にあった。
大伯父との話し合いは、思いのほか早くまとまった。
前伯爵の実娘であるシャングリアのことは大切にしてくれるが、武門の家であるモーリア家を継ぐことになった家長としての彼は、家の名誉と軍務の秩序をなにより重んじる男でもある。
提示された条件は明快だった──。
王軍騎士団の籍は残すこと。月に一度の点呼と演習には必ず出頭すること。王都・地方を問わず緊急招集があれば、冒険者の仕事より軍務を優先すること。家名を毀損する振る舞いを慎むこと。
これらを守るなら冒険者としての活動を許す──。
その旨を記した手紙が、その場で認められた。
宛て先は王軍司令部の部隊長。モーリア伯爵自らが署名し、家紋入りの封蝋を押してある。
いまシャングリアが懐に収めているのは、その手紙だ。紙の手触りも、蝋の硬さも、指先にまだ残っている。
とにかく、ようやくロウたちの仲間として歩み出せる。
その高揚を胸に抱き、濃紺の軍服の上着を揺らして、シャングリアは街道をひたすら疾走していた。
吐き出すウマの息は疲労により白くなり、蹄音が暮れなずむ大地に乾いた調子で響く。
モーリア伯爵領はマルエダ辺境候領、西部国王直轄地と並び、ローム三公国との国境を防衛する要だ。
入国管理所のあるドロボークに隣接し、王国中央街道を縦断して王都へ至ることができる。
そして、その西域は平原が広がり見通しも良いが、王都に近づくにつれ、深い森林や山岳地が道の両側に迫ってくる。
もっとも、中央街道は王軍が整備を怠らぬため、交通に支障はない。各所に駅舎が置かれ、騎士や兵はそこでウマを替えながら進軍する。
やがて視界にマイムの城郭が現れた。
王都のひとつ手前にある副王都とも呼ばれる都市で、貴族の屋敷が並ぶ城壁の脇に駅舎が隣接している。
厚い石壁に木造の大屋根、兵の詰め所と馬屋、昇降台を備えた施設──王軍の専用であり、利用を許されるのは軍属のみだ。
「王軍騎士、シャングリアという。ウマの交換を頼む」
シャングリアは馬を停め、濃紺の軍服に身を包んだ姿で昇降台に降り立った。
腰の剣が沈む光をかすかに返す。いまも王軍騎士の地位を保っているがゆえに、こうして駅舎を使って西端から王都まで駆け抜けて来られたのである。
それについては、大伯父に従ってよかった。ただの冒険者でしかなければ、当たり前だが、駅舎施設などは利用できない。
「承知しました。準備できましたら声をかけますので、施設内でお待ちください」
詰め所から出てきた兵はウマを受け取り、敬礼が返る。
馬具を解く音や水桶の音を背にして、シャングリアはとりあえず、待合室のような場所に入って、そこにあった椅子に腰掛けて身体を休ませる。
マイムから王都までは、ウマの脚なら半ノスもかからない。
久方ぶりに会えるロウたちを思い、胸の奥がはずむ。
「シャングリア殿。王都の冒険者ギルドを経由して伝言が届いております」
すると、別の兵が一通の封筒を差しだしてきた。
「わたしか?」
封筒に宛名はない。蜜蝋もなく封印も簡素なものだ。差出人の名も表書きにはなかった。
封を切る。
細い筆致が目に入った。エリカだと記してあった。
“拠点を移しました。王都の手前、かつて幽霊屋敷と呼ばれた旧邸へ。事情は会って説明します。門前に来ればわかるようにしてあります。シャングリア、無事の帰還を待っています──エリカより。”
……幽霊屋敷──?
視界が一瞬かすむほど、驚きの衝撃が走った。
もちろん、仮にも王都の騎士団の所属する騎士だから、その存在は知っている。
王都の少し手前にある悪名高い廃屋敷だ──。百年近くも前から殺人ゴーストが棲むと噂され、討伐のため入った者が戻らなかったという有名な場所である。
拠点に選ぶには、あまりにも不穏すぎる。
なぜ、ロウがそのような場所を……?
疑念に包まれる。
冗談ではない。だが文面は簡潔で、筆致は落ち着いている。
エリカの文字を直接見たことはなかったが、簡潔で無駄のない文は彼女らしいと思えた。
でも、本当にあんなところを……?
シャングリアは訝しんだ。
「新しいウマの用意が整いました。馬具と荷も入れ替えてあります……。それと水です。どうぞ」
兵の声に我へ返る。
「ありがとう」
頷き、差し出された薄い果実水を杯ごと受け取る。
魔道で作ったのか、氷片があり、触れた冷えた水が舌を潤し、渇いた喉に沁みていった。
「幽霊屋敷か……」
外に出て、交換のウマの荷を確認しながら。小さく呟く。
まあ、とりあえず向かってみるか……。
門前に来れば、なにかわかるだろう。
確かめるしかない。
目で見て耳で聞き、判断すればいい。
その封筒を胸に収め、大伯父からの封蝋に触れてから鞍に身を戻す。
「行く。感謝する」
シャングリアは軽く手綱を払った。
新しいウマが鼻を鳴らし、いつの間にか、陽は陰り、街道を夜闇がおりようとしていた。
シャングリアは街道をウマで駆っていた。
ところどころに小さな建物が並び、人気はなくても王都に近いせいか道幅は広い。馬車が二列で通れるほどの余裕があり、石畳は月明かりを受けて淡く輝いていた。
いつしか、完全に陽は落ちた。
だが、街道は闇に沈みきらない。頭上にはメティス、ヘラティス、アティス──三つの大きな月が寄り添うように浮かび、蒼白い光を惜しげなく降り注いでいる。
星々も瞬き、空は澄んでいた。
月と星の光だけが夜の頼りだ。厚い雲が覆えば一歩先も見えぬ闇に沈むだろうが、今夜は三つの月が冴え渡り、街道はほとんど昼のように見通せた。
やがて緩やかな坂に差しかかる。下りに入れば両側は林に変わり、月影が濃くなる。
耳には川のせせらぎが届き、あのいわく付きの幽霊屋敷も近い。
いまは行き交う者はなく、馬車の影もない。ひっそりとした道に、蹄音だけがやけに響く。
「おっと──」
そのとき、ウマが急に脚を止めて、シャングリアはウマから振り落とされそうになった。
さすがに落馬などしなかったが、手綱を引いても従わず、耳をそばだてて、なにかを探すようにウマは林を見つめている。
「なにをしている。進め──」
足先で腹を蹴るが、ウマは呼吸を荒くし、なにかを探す仕草で鼻を鳴らすだけで、前へ進もうとしない。
それどころか、勝手に道を外れて林の中に入っていく。
「……どうした? おいっ」
怒鳴ったが、ウマはシャングリアを載せたまま、林の奥に分け入っていく。
やがて、ぴたりと動かなくなる。
だが、落ち着きはなく、首を激しく動かして、ぶるると鳴きだした。
「なんだ、お前?」
シャングリアは眉を寄せ、仕方なく、とりあえずウマからおりた。
ウマからおりたのは、突然にウマが従わなくなったからだけではない。
少し前から、急激な尿意に襲われていたのだ。
移動中に小用で困らぬよう、水分は控えるのが常だったが、マイムの駅舎で差し出された果実水を口にしたからだろうか。
たった一杯でここまでとは……。
しかも、堰を切ったように突き上げてくる、この切迫──?
疑念が胸をよぎるが、尿意は容赦なく強まり、思考を圧迫してくる。
ウマが動かないとはなんとかしなければならないが、いまはこの尿意だ。
シャングリアは剣を腰に下げたまま、周囲を見る。
人の気配は感じない。
林の影に身を入れれば、月明かりから逃れて目立たないだろう。
シャングリアは用を足すため、さらに少しだけ林の奥に進み、樹木の陰に隠れた。
「誰だ──」
叫びざま、慌てて下着とズボンを引き上げようとした瞬間だった。
闇のなかをなにかが飛来した。避ける間もなく、それは剣に当たった。
咄嗟に抜こうとした剣が、鞘にねっとりと貼りついた。柄を握った指まで離れず、掌に冷たい粘りがまとわりつく。
「トリモチ……?」
獣を捕らえるための仕掛け──それを何倍にも濃くしたような粘着だと悟った。
次の飛翔物が迫る。剣を振って受けたが、別のひとつが横から飛び込み、回避しきれない。
シャングリアはすでに立ち上がっていたが、足首には下ろしたままのズボンと下着が絡みついている。
股間を無防備に晒したままの格好で、しかも足元の衣服ごと、地面にトリモチで貼りついてしまった。
「く、くそうっ──」
力任せに足を引き抜き、ズボンと下着を捨てて横に飛ぶ。
その刹那、三射目の飛翔物が頭上をかすめた。
直感のまま横へ飛んだ刹那、頭上の枝から網が落ち、落ち葉を巻き込んで地を打った。もし一瞬遅れていれば、全身を呑まれていた。
「誰だ──?」
息を荒げ、剣を構える。だが刃はなおも鞘にくっつき、手ごと粘りついている。
それでも必死に身を守ろうと構えを取った。
次の瞬間──。
四方から一斉に飛翔物が襲いかかってきた。
避けられず、胴へ絡みつく。縄だ。しかも縄の表面にまでトリモチが塗られていて、腕ごと体幹に巻きつけられていく。
「これも罠か──っ。誰だ──」
四方から飛び出した縄が唸りを上げ、瞬く間に腕と胴を締め上げた。
さらに数本の縄が、周囲の幹から唸りを上げて飛び出した。
一瞬にして胴を一回転して締め上げ、反対の幹に走って密着する。
「……くっ」
木立の影に、目立たぬ仕掛けが張り巡らされていたのだ。
六本もの縄がトリモチの粘りをまとって胴と腕を縛り、シャングリアは立ったまま一歩も動けなくなっていた。
股間は覆うものがなく、夜気があまりにも生々しく肌に触れる。羞恥に堪え、せめてと内腿を固く寄せ、脚を曲げて股を隠そうとする。だが縄が食い込み、余計に姿勢は窮屈さを増すばかりだった。
「……誰だ」
呼びかけても返事はなく、林は静まり返る。川のせせらぎがやけに大きく聞こえ、心臓の鼓動が喉にまで響く。
敵は姿を見せない。顔も声もわからない。見えぬ相手に罠で嬲られる恐怖が、冷たい汗となって背を流れた。
もしここで襲われたら──。
王軍の騎士でありながら、女として最も無様な姿を晒したまま……。
歯を食いしばり、必死に縄を引きちぎろうとする。だがトリモチは獣すら逃さぬ粘りだ。剣も封じられ、腕ごと絡め取られている。
そのとき。
木陰が揺れた。
黒装束の影が三つ、音もなく現れた。
全身を黒布に包み、顔はさらに仮面で覆っている。気配をまったく感じなかったのは、なにかの細工で気を消していたからだろう。
「王軍騎士のシャングリアだな。いい格好だ……どうぞ犯してください、とでも言いたげだ」
一番後ろの者が低く告げる。金属を擦るような、不自然な声。変声の道具を使っているのがわかった。
血が凍る。
自分がいま、どれほど無防備に囚われているのか──あざ笑うように突きつけられた言葉が、羞恥と恐怖を倍増させた。
「だ……誰だ──?」
叫ぶ声は震え、夜気に溶けた。
だが、その声の抑揚に聞き覚えがあった。
影の体格も、漂う気配も──まぎれもなく、あの三人だ。
「ロウ……エリカ……コゼ……。これはどういうことだ──?」
絶望と怒りが入り混じった声をあげた。
すると右にいた小柄な影が、肩をすくめて笑った。
「えっ……、もう、ばれちゃったの?」
甲高い声音──間違いなくコゼだった。
さらに後方の黒装束が低く言う。
「まったくだ。嫌がるミランダを脅して……いや、説得して、ギルドの魔道具を借りまくって、趣向を凝らして罠を仕掛けたというのに……」
その言葉とともに、仮面が外される。
現れたのは、やはりロウの顔だった。
残る二人も覆いと仮面を取り払う。
月明かりに照らされ、エリカの冷たい瞳と、コゼの悪戯っぽい笑みが露わになった。
シャングリアは必死に前へと身を乗り出した。
なにがどうしてこうなったのか、まったく理解できない。釈然としない。
だが、それよりも──いまは別の切迫した事情があった。
「とにかく……事情はあとで説明してもらう……。でも、その前に……これを外してくれ……いますぐに、だ」
声は荒く震え、息が詰まる。羞恥に頬を赤く染めながらも、切迫したものは隠せなかった。
内腿はきつく寄せられ、縄に縛られた姿勢のまま、必死に限界を押しとどめている。
「どうしてだ?」
ロウが目の前に立ち、わざとらしく微笑んだ。
「だ、だから……外してくれ……。もう耐えられない、出そうなんだ」
シャングリアは怒鳴り声をあげる。だがロウは薄く笑みを保ったまま、首を傾げた。
「だから、なにがだ?」
その瞬間、ロウがわざと惚けていることを悟った。
これもまた、正体の知れない悪戯の一環なのだろう。でも、そんな理屈を考える余裕はなかった。
いまはただ、一刻も早く縄を解いてもらわなければならない。羞恥も、怒りも、すべて呑み込んで……。
「……おしっこだ。おしっこをさせてくれ……頼む──」
シャングリアは必死の哀願を口にした。
声は掠れている。
もう尿意は限界に達していた──。