あの一夜を境に、二番隊隊長・砕蜂は、まるで二つの人格を手に入れたかのようだった。
隊士たちの前では、以前にも増して厳格に、そして月詠小夜に対しては、見つけ次第、舌打ちと共に凍てつくような視線を投げかける。その完璧なまでの鉄面皮は、しかし、小夜にとっては、必死に自らの変化に抗おうとする、愛らしい子供の駄々のようにしか見えなかった。
その日の午後、小夜が四番隊の長い廊下を歩いていると、向かいから、文書を抱えた砕蜂が足早にやってくるのが見えた。すれ違い様、砕蜂はいつも通り、フン、と鼻を鳴らして小夜を無視しようとする。
しかし、小夜は、その腕を、まるで当然のように掴んだ。
「っ…!離せ、人目がある…!」
「あら、怖い顔。少し、お話があるのですけれど」
小夜は、有無を言わさず、近くにあった備品室の暗がりへと、砕蜂を引きずり込む。乱暴に扉を閉め、背中で鍵をかけると、先ほどまでの穏やかな表情は消え失せ、捕食者の笑みが浮かんだ。
「さあ、砕蜂。昨夜のおねだりの続き、聞かせてくださる?」
「き、貴様っ…!ここは執務の場で…!」
抗議の言葉は、しかし、小夜の唇によって、いとも容易く塞がれる。舌が強引にこじ開けられ、口内を蹂躙される。人目があるかもしれないという、背徳的なスリルが、砕蜂の抵抗を鈍らせ、体の芯を疼かせる。
唇が離れる頃には、砕蜂の瞳は潤み、呼吸も荒くなっていた。
「…さて、本題ですわ」と、小夜は、まるで何事もなかったかのように、話を切り出す。
「三番隊の市丸ギン…あの男、近頃、何か変わった動きはありませんこと?」
「…何故、あの男のことを」
「少し、気になることがありましてね。貴女の刑軍なら、その尻尾くらい、掴めるでしょう?」
小夜はそう言いながら、砕蜂の小さな体を、自らの豊満な胸へと、ぐっと抱き寄せた。
驚くべき柔らかさと、温もり。そして、心を落ち着かせる、小夜だけの甘い香り。その暴力的なまでの母性に、砕蜂の体から、ふっと力が抜ける。
「…私の胸で、甘えたくなったのかしら?良い子ね、砕蜂」
「ちが…!」
否定しようとする砕蜂の頭を、小夜は、まるで赤子をあやすかのように、優しく撫でる。そして、その胸の谷間に、彼女の顔を埋めさせる。
「大丈夫よ。ここでは、誰も見ていませんから。貴女が、ただの弱い女の子に戻っても、私が許して差し上げます」
その囁きは、悪魔の誘惑。隊長としての重責、夜一への届かぬ想い、そして、この女に屈したという屈辱。全てが、この温かい闇の中で、どうでもよくなっていくようだった。砕蜂は、抵抗を忘れ、ただ、その柔らかな感触と香りに、身を委ねてしまう。
「…お願い、できますわよね?」
胸の中で、くぐもった声で、小夜がもう一度問う。
砕蜂は、顔を埋めたまま、ほとんど無意識に、小さく、こくりと頷いた。彼女はもはや、この甘美な支配から、逃れる術を知らなかった。
満足げに砕蜂を解放し、備品室を出た小夜は、気分転換に、と現世の菓子を出す甘味処へと足を向けた。
そこで見つけたのは、見慣れた金色の髪。仕事をサボり、あんみつを突きながら、どこか遠い目をして物思いに耽る、松本乱菊の姿だった。
その視線の先にいるのは、偶然通りかかった、隊長の市丸ギンと、副隊長の吉良イヅル。楽しげに話す二人の姿を、乱菊は、グラスの縁をなぞりながら、どこか寂しげな、複雑な表情で見つめている。まるで、自分だけが、その輪の外にいるかのように。
「あら、乱菊さん。何をそんなに熱心にご覧になって?」
小夜は、音もなく、その向かいの席に腰を下ろした。
「…なによ、あんた。人の顔見て、ニヤニヤして」
警戒心を隠そうともしない乱菊に、小夜は構わず続ける。
「だって、あまりにも美味しそうな顔をしていらっしゃるから。…ああ、三番隊の方々のことですか。市丸隊長は、何を考えているのか、なかなかわからない方ですものね」
小夜の視線も、ギンへと向けられる。
「あのように側にいても、心がずっと遠い場所にあるような…まるで、届かない刃(やいば)のよう。鞘に収まっているようでいて、その切っ先は、いつだって、自分ではない誰かか、あるいはどこか遠い場所を向いている。…貴女ほどの方が、一人の男に心を乱されるお姿は、とても、そそられますわ」
ギクリ、と乱菊の肩が揺れた。その心の内、誰にも見せたことのない不安を、いとも容易く見透かされて。
「…あんたには、関係ないでしょ」
睨みつける乱菊に、小夜は悪戯っぽく微笑んで、勘定を卓に置くと、すっと席を立つ。
「ええ、今はまだ。…ですが、その届かぬ刃に、いつか貴女の心が傷つけられ、凍えてしまった時は、いつでもこの四番隊にいらっしゃいな。私が、その身も心も、芯からじんわりと、温めて差し上げますから」
意味深な言葉と、艶やかな視線を残し、その場を去る。今はまだ、このくらいでいい。蒔かれた種は、いずれ、彼女が最も弱った時に、甘い毒の花を咲かせるだろう。
※※※
その日の夕刻。
執務室で二人きりになった卯ノ花が、書類から顔を上げ、静かに小夜に声をかけた。
「小夜。今宵は、月が綺麗ですね」
その言葉に、小夜はふっと息を緩める。それは、二人だけの合言葉。普段の戯れとは違う、魂の交歓への誘い。
小夜が砕蜂を手懐け、乱菊にちょっかいを出していることも、この女(ひと)は全てお見通しなのだ。その上で、「そろそろ、私との時間も大切にしてくれませんか?」という、長年連れ添った伴侶が、ほんの少し拗ねてみせるような、そんな親しみに満ちた圧を、その微笑みの裏に滲ませている。
小夜は、恭しく、しかしその声に、深い安らぎと親愛を込めて応えた。
「ええ、烈。もちろん、承知しておりますよ」
その声には、燃え上がるような熱情はない。
ただ、長い、長い時を共に歩んできた者だけが分かち合える、絶対的な信頼と、穏やかで、どこまでも深い愛情だけが、静かに満ちていた。
まるで、「ただいま」「おかえりなさい」とでも言うように、二人の間には、阿吽の呼吸が流れる。
「今宵は、貴女のためだけに、私の全てを使いましょう。…腕が、鈍っていなければ良いのですが」
そう言って悪戯っぽく笑う小夜に、卯ノ花もまた、くすくすと喉を鳴らして笑うのだった。
どんなに外で遊んでこようと、この腕の中が、互いの唯一の帰る場所であることを、二人は知り尽くしているのだから。
舞台は、再び、誰にも知られていない、四番隊の地下大修練場。
そこにいたのは、もはや「卯ノ花烈」ではなかった。
隊首羽織を脱ぎ捨て、長く豊かな黒髪を、ただ一本の紐で無造作に束ねた、初代剣八・卯ノ花八千流。その瞳には、もはや普段の慈愛の光はなく、目の前の伴侶との、千年の時を凝縮したような戯れを、心の底から愉しむ光だけが宿っていた。
「さあ、始めましょうか、小夜」
その声は、地を這うようでいて、どこか楽しげな響きを帯びている。長年連れ添った夫が、妻に「少し、付き合え」とでも言うような、そんな気安さがあった。
「あまり、外で遊び呆けていると、この私の剣も、嫉妬で曇ってしまいますよ」
「ふふ、ご冗談を。貴女の刃が曇ることなど、天地がひっくり返ってもありえませんわ」
小夜もまた、いつもの余裕の笑みを浮かべたまま、しかしその瞳の奥には、この瞬間にしか感じられない、絶対的な安らぎと興奮を湛え、斬魄刀『濡羽』を抜き放つ。
二人の霊圧が、挨拶を交わすように、穏やかに、しかし圧倒的な密度で空間に満ちていく。
次の瞬間、二人の姿は、激しい鋼の音だけを残して、掻き消えた。
それは、殺意の応酬ではない。
互いの剣技を、呼吸を、魂の在り様を、全て知り尽くした上で、「今」の相手を確かめ合う、対話。
小夜が繰り出す、流麗で予測不可能な斬撃。卯ノ花は、それを最小限の動きで、しかし完璧に見切り、受け流す。
「少し、腕が上がりましたね、小夜。どこの女を口説いてきたのですか?」
「さて、誰のことでしょう。貴女ほど、私を夢中にさせてくれる方はおりませんのに」
斬り結びながら、そんな、痴話喧嘩のような言葉を交わす。痛みすらも、久方ぶりの愛撫のように、心地良い。
やがて、長い対話の末、互いの刃が互いの喉元に突きつけられ、ぴたりと動きが止まる。
決着は、つかない。いつものこと。
どちらが強いかなど、二人にとっては、もはや些細な問題だった。
「…ふふ。どうやら、今宵も引き分けのようですね」
「ええ。ですが、本当の勝負は、ここからでしょう?」
卯ノ花はそう言うと、自らの刃を捨て、小夜の唇を、深く、穏やかに、しかし有無を言わさぬ力強さで奪った。
それは、欲情に駆られたキスではない。ただ、「お前は、ここにいるのだな」と、互いの存在を確かめ合うような、深く、長い口づけだった。
もつれ合うようにして、冷たい床に倒れ込む。
互いに負った、心地よい傷口から流れる血を、厭うことなく舐め合う。鉄の味と、互いの肌の味が混じり合い、これ以上ないほどに馴染んだ、いつもの媚薬となる。
衣を剥ぎ、肌を重ねるのに、もう言葉も、激しさもいらない。
小夜の指が、慣れ親しんだ道筋を辿るように、卯ノ花の秘められた場所へと滑り込む。
卯ノ花もまた、小夜の体の、どこをどうすれば、彼女が悦びの声を上げるのかを、知り尽くしている。
そこに、初めての相手を前にした時のような、探るような仕草はない。ただ、互いの体が、魂が、求めるままに、自然に、そして完璧に、一つになっていく。
喘ぎ声すら、どこか穏やかだ。
絶頂の波が訪れても、狂ったように叫ぶことはない。ただ、互いの名を、愛おしげに、確かめるように、呼び合うだけ。
「…烈…」
「…ああ、小夜…」
それは、若い恋人たちの、刹那的な情熱の交換ではない。
全てを知り、全てを受け入れ、それでもなお、互いを求めずにはいられない、究極のパートナーシップの確認作業。
この広い世界のどこを探しても、自分の全てを預けられるのは、この腕の中だけ。
その絶対的な安心感の中で、二人は、ゆっくりと、そしてどこまでも深く、溶け合っていく。
その夜の交わりは、いつものように、ただ静かで、満ち足りたものだった。
まるで、長い旅を終えた旅人が、我が家へと帰り着いた時のような、そんな、安らぎに満ちた儀式。
小夜が、真の意味で「帰る」ことができる場所は、この世にただ一つ。
この、最強の女の、腕の中だけなのだから。