風すら通わぬ深い森の奥、茸と苔の香りに包まれた胞子の森の一角。色とりどりのキノコが生えるその土地に、小さな石の家がひっそりと佇んでいる。ここに住んでいるのが、かつて王国を騒がせた魔法使い……そして今は、ただのキノコ研究家として暮らす少女だった。
「よし……こいつは“夜鳴き茸”。鳴き声を採取するのは今夜だね……ふふっ」
少女――レイナは小さな瓶に紫色のキノコを入れ、微笑んだ。栗色の髪に、いたずらっぽい瞳。けれどその表情の奥には、数百年を生きた古木のような落ち着きがある。
彼女は、過去に危険な魔法を開発し、大金を稼いだ挙げ句、王国に目をつけられ、面倒になって国外追放――という経歴を持つ。
「まあ……金も使い果たしたし、のんびり暮らすにはこの森くらいがちょうどいいよね」
そんな彼女が、今日もいつものようにキノコ採取をしていたときのことだった。
――くんくん。
「……ん?」
苔の下から立ち上る土の匂いに混じって、どこか鉄っぽい香りが鼻をかすめた。湿った空気の中に漂う、微かに甘く、妙に生々しい気配。レイナは視線を巡らせ、そして――それを見つけた。
「……人?」
草むらの中で、仰向けに倒れている若い女性。蒼白な肌に、少しぼろついた黒の服。手足はすらりと長く、艶やかな漆黒の髪が地面に広がっていた。こんな森の中に、しかも人が……?
レイナは警戒しつつも近づき、その身体に手を当てる。息はある。けれど、意識はなかった。
「ま、いいか。研究室のソファ空いてるし……回復魔法、っと」
軽く指を鳴らすと、女性の身体に柔らかな光が走る。目覚める気配はまだなかったが、外傷はなさそうだった。レイナはため息をつき、女性の肩に手を回して持ち上げる。
「……はあ、あんた軽いわね。まあ、助かったけどさ」
少女はそのまま、女性を抱えて家へ戻っていった。
*
――それから数時間後。
レイナは研究室の机に向かい、採取したキノコの胞子観察に夢中になっていた。
顕微鏡の向こうに見える胞子の網目模様。美しい。そしてそれが何の毒性を持ち、どう加工すれば魔力と反応するか――その仮説をメモに書き記していたそのときだった。
「――ひゃっ!?」
突然、背後からふに、と柔らかい感触が背中に走った。反射的に立ち上がり、振り向こうとしたその瞬間――左右から白い腕が伸びてきたかと思えば、レイナの胸に収まった。
「え……っ!? ちょっ……!?」
驚きに目を見開いたレイナ。
胸を乱暴な仕草で揉まれている。身を捩って逃れようとするも、熟練した技術で拘束されている。
パニックに陥っていたレイナだったが、急に半回転させられた事で、状況を理解されるに至った。
目の前には妖艶な表情を浮かべた美女の顔があり、その唇が迫っていた。
唇が重なり――そこで事態の深刻さに気が付いた。何かが、吸われている。自分の中に流れていた魔力が、唇を伝って引き抜かれていくような、奇妙な感覚。
「――ッ!!」
バンッ!!
怒りと共に放たれた衝撃波が、研究室の壁にヒビを入れながら女性を吹き飛ばす。女性は床に叩きつけられ、呻きながらも身を起こした。
「……いたたた……なによ……いきなり吹き飛ばすなんて」
レイナは肩で息をしながら睨みつける。
「起きたらいきなり胸揉んでキスして魔力吸うって……どこの変態よアンタ!」
「ふん、あんたが“溢れてる”からでしょ? あたしのせいじゃないわ。おいしそうにダダ漏れだったのよ、仕方ないじゃない」
女性はむっとした顔で立ち上がる。確かにどこか人間離れした雰囲気がある。瞳は妖艶に輝き、背中からは今は畳まれた小さな黒い羽。レイナはため息をつく。
「……貴方、淫魔ね」
「ふふふ。正解。どうかしら? 貴方、私のペットにならない? とっても気持ち良い毎日を約束してあげるわよ」
レイナは眉を顰めた。
しかし、すぐに笑顔を浮かべる。その様子に淫魔は怪訝な表情を浮かべた。
「それ、いいわね。採用」
「え?」
驚愕したのは淫魔だった。
まさか自分の提案が受け入れられるとは思っていなかったのだ。勿論、中にはそういう趣味の人間がいる事もあるが、彼女には目の前の魔女がそういう人間には思えなかった。
困惑する様子の淫魔を見て、レイナは満足そうな表情を浮かべると一つ頷いて、
「じゃあ“あなた”は今日から私のペットね! いや、ペットは外聞が悪いから……そうね、使い魔にしてあげるわ。丁度、キノコ研究の助手が欲しいと思っていた所だったのよ」
と言い放った。
唖然としていた淫魔だったが、話の内容を理解すると顔を真っ赤にする。
「誰が人間なんかの使い魔になるか!」
声を荒げる淫魔に、レイナはニヤリと不敵に笑う。すると、部屋中に魔力が満ち始めた。
「う、うそ……」
それは圧倒的な魔力だった。
思わず身体を縮める淫魔に対して、レイナは上下関係を分からせる様に、高圧的に告げるのだった。
「さぁ、使い魔契約をしましょうか」