残骸置場 作:逃走‼蜚蠊男
井上に、嗜める様な口調で言った男は、もう一人と比べて大きな男であった。
背丈だけでなく、筋肉もかなりの量感である。
鍛えられた、空手家の肉体であった。
身長183cm体重95kgほどだろうか。
誰もが目を引く、そんな大きな体躯ではない。
だが、そこは、鍛えられた肉体だ。
同じ身長体重であっても、質が違う。
──強いな
真冬が、彼に抱いた印象がそれだった。
悪く言う訳では無いが、例えば『怖い』とは思わなかった。
彼は、確かに『武』の人では、ある。
だが、その武は暴力とはイコールでは無さそうだと、真冬は感じたのである。
──盾であって矛ではない、そんな印象であった。
無論、そこが空手道の試合の場であれば、存分に矛となるであろう。
ようは時と場所である。
武を暴力とはしない、そんな男だと、真冬は察したのだ。
「俺達さぁ、柔道やってんのよ、柔道。
「俺達皆、黒帯、強いよ~」
「井上ちゃん、遊びに行こうよ、俺達とさぁ」
真冬は聞いた事が無い名前を男が言った。
成る程、柔道か。
確かに柔道家らしい、太く重そうな体格の男達だと、真冬は思った。
重いと言っても肥満ではない。
芯が通った重心。
柔道──
剛柔揃い、柔道なのだ。
「ふん、闘辰館ねぇ、とうしんかんつうか、
真冬は心中で小首を傾げた。
意味は一瞬分からなかったが、明らかに、何かしら小馬鹿にした口振りであろうことは、理解出来た。
三人組の男達が、顔色をさっと変えた事からも窺えた。
この、頓珍漢が云々と言った男。
敢えて言うなら、真冬は此方は怖いと思っていた。
例えば空手の試合なら、間違いなく、もう一人の方が上だろうと、真冬は察していた。
だが、こちらの男はそうした強さの他に別の強さがあるのだ。
恐らく、研ぎ澄まされた鋭利なナイフを前にしても、こちらは怖じ気つかない。
人は本能的に刃物に恐怖する。
しかし、この男はそうした物を前にしても、自分の武を見失わない筈だ。
そんな気配があるのだ。
獣の臭い。
武と暴力を両立させた匂いであった。
故に怖いと感じたのだ。
無論、間違いなく強い。
怖いだけではない。
また、
真冬が感じる『怖い』には、その硬さも含まれる。
その男から硬い強さが、感じられるのだ。
精神も筋肉も拳も、確実に硬い。
何よりも、硬い氣が、男から立ち上っているのである。
場合によっては、その氣をぶつけるために、拳を固める。
その拳がぶつけられるのは、何も空手道の試合の場だけではないのである。
こうした路上の喧嘩でも、空手道で鍛えた硬い拳を奮うのであろう。
そう確信出来るのだ。
だから怖い。
──神心会という空手道場には、こんな強い人間が山ほどいるのかな。面白いな。
真冬は空手道神心会に、少なからず興味が湧いていた。
「構うな、行くぞ、二人とも」
「……押忍」
「あんたらも、後輩が悪かったな。通してくれ」
取り囲む様な立ち位置にいる男達に向かってそう告げた。
威圧する様な口調では無い。
慇懃な物ではないが、決して喧嘩を吹っ掛けているような無礼さは、その声に、含まれてはいなかった。
「
一人がわざわざ手を広げそう言った。
そして、挑発するように、そのままの体勢で、上半身を左右に何度か振っていた。
しかも、押忍と言う言葉を、態と崩した幼児言葉の様に言ったのだ。
どう考えても、彼らの方は喧嘩を吹っ掛けようとしている。
──ナンパが目的では無い。
神心会の門下生だから絡んでいるのである。
神心会の門下生を相手に喧嘩をしたいのである。
加えて、そこに、井上がいた。
かなりの美少女である井上を、副産物の戦利品として持って帰るのも悪くないと、そうした下卑た考えも持っているだろう。
井上は白帯、つまり無級だが、神心会主催のトーナメントの合間に行われる演舞のメンバーの中にいたり、たまに行われる試合などにも顔を出す。
そうしたイベントを好む者で、特に女子格闘家好きには、かなり知られているのが、この井上だ。
愛らしい容姿が、ある意味災いしているのである。
大人になればセクハラに悩まされそうな薄幸さがどこか
真冬は、ポスターに視線を落としながら、剣呑な気配と不穏な空気が張り詰め、広がり上昇していく厭な熱気を感じていた。
今にも暴発し、爆発する、そんな熱を孕んでいるのだ。
時限爆弾のように、その爆発までの時を、じわりじわりと刻んでいる。
それが犇々と肌に伝わるのだ。
──厄介だなあ
真冬は、井上の怯えた表情を見てしまった。
二年前の、翠と同じ目だ。
あの時、翠を放って置いたら彼女はどうなっていただろう。
なら、この女性はどうか。
年上だ。
普通なら、九歳の少女が護る相手ではない。
だか、この様な状況である。
井上と言う女性の事は、知らない。
だが、彼女の怯えの色に染まっている目が、あの時の翠を思わせてしまった以上、無視したくない。
真冬はそう思った。
そこに、理屈はなかった。
危うきに近寄らず──
當之真冬に、未だ、護身、開眼成らずと言ったところか。
闘辰館の男達は、みな身長180cmを越えている。
特に、手を広げ挑発している男は188cm105kgと言った所か。
かなりの重量級だ。
190cm近い日本人──海外なら兎も角、日本では、かなり珍しい身長の高さである。
しかも、柔道で鍛えている。
首が太い。
よく見れば、カリフラワーや餃子の様な形に耳が潰れている。
ぶつかり合い、寝技などの鍛練で畳と擦れ形成される、所謂、耳介血腫である。
その耳からも、年季の入った柔道家であると窺えるのだ。
だが、振る舞いは、そうした一面から見える想像とは真逆に当たる、軽薄そのものであった。
しかし、真冬は、ここにいる五人の男達のなかで、この男が一番『怖い』と感じていた。
仮にルールが取り決められた異種格闘技──
いつぞやに、プロレスラーの巽真や、神心会に並ぶ空手道の大家である北辰館の松尾象山が行った『バーリトゥード』何でもありの異種格闘技試合。
それのようなルールで、この空手家と柔道家がやりあったなら、間違いなく、この場を仕切っているような形にある神心会の男が勝つだろう。
だが、こと路上での喧嘩となれば、別だ。
真冬の見立てでは、挑発している男は目を突くし、睾丸も潰してくる。
そうしたことに躊躇いを持たない人間だ。
刃物の使用さえ辞さない、そんな狂気に身を置いている人物なのだと、真冬は理解出来た。
何故、真冬の様な九歳の少女がそこまで分かるのか。
それは、気配である。
一人の人間が纏う異様な空気圧だ。
膨れ上がった、熱くも冷たくもある、そんな空気の圧力である。
ともすれば、この男、事故を装い、人間の首を折っている──そんな異様な血の臭いと気配が全身から滾っているのだ。
だが、それを感じられる理由、それを確信出来る理由、そうした事に頭が回る理由。
それは、何故か。
何故ならば、真冬もまた、そうした狂気に囚われた人間であるからであった。
「先輩、この頓珍漢共、口で言っても理解出来そうにないっスよ」
「構うな、
神心会の、この場に於いての年長者らしき男がそう嗜め、井上を庇いながら移動を試みていた。
「へへへ、神心会たぁ、マジで腰抜けの集まりだねぇ」
下卑た笑いと共に、三人組の一人が彼を指差し侮蔑の言葉を吐いた。
神心会が腰抜け──顔面に唾を吐かれるのと同様か、神心会への思い入れに依っては、それ以上ともなる侮蔑の言葉である。
「あ?何が腰抜けだと?」
「止めろ、町中の喧嘩など、北辰館の連中に任せていろ。神心会の門弟がやることでは無い」
北辰館の館長、松尾象山は、空手家の人間が例えば口論などの揉め事に巻き込まれているのを目撃したら、うちの門下生なら口論などせず既に殴りかかっていると言ってしまう程の武術家気質である。
そして、北辰館の門下生も、そうした武術家集団なのだ。
空手家の暴力事件、そうした物があれば、確実に神心会の人間より北辰館の人間が多いのだ。
だが、愚地独歩もまた、恐ろしい武術家気質の持ち主だ。
空手が強いだけでいいのか?
そんな事を口にされる。
愚地独歩は、恐らくだが、そうした手合いに対しては、彼等が望むような玉虫色の返答をするだろう。
だが、実際は違う。
高弟の前ではこう言うのだ。
「強ければ良いんだよ」
彼も立派な、強き事を重んじる武術家なのである。
ならば、愚地独歩は、間違いなく、木塚の考えや態度の方を是とするだろう。
木塚は、さっさと、この頓珍漢共を叩きのめしてやりたい。
そう考えているのだ。
真冬は、このタイミングで動く事を決めた。
ポスターを眺めながら、ゆっくり、身体を動かしていく。
だが、仕掛けなかった。
自身の動きが起こり始めるのを、自らの意思で、若干ずらしたのである。
──木塚の存在であった。
彼が、打って出ようとしていることに気付いたのだ。
気配、若干の筋肉や骨格の動きと軋み。
その際に生じる空気流れや空間の震動。
流動しているのを肌で感じ、耳で聞いている。
何より、打って当てると、そう覚悟した木塚の意思や脳が伝達している信号を、真冬の脳が察知しているのである。
それは、宛ら、予知能力を思わせる知覚や先読みであった。
こうした読みを、九歳の少女が行っているのだ。
どこで訓練したのか。
そして、どのように体得したのか。
その若さで到達出来る領域では無いのである。
だが、体得していることに、間違いは無い。
そして、その知覚により、確かに真冬は木塚の動きを察知していた。
だから、動かない。
ここで、自分が動き、闘辰館の男に仕掛けたなら、木塚の面子が立たない。
そうした、思いが真冬の心に浮かんでいるのだ。
彼が闘辰館を倒したなら問題ない。
真冬が助けたいのは、あくまで井上という女性である。
彼女を助ける者が誰であっても、そこに問題は無いのだ。
助けるのは自分以外でも良い。
感謝されたいわけでは無いのだ。
しかし、井上の恐怖と緊張のメーターがピークに達しているようにも思えた。
それが気掛かりだった。
そんな時だ。
また、腹が鳴った。
真冬の腹はかなり呑気な様子である。
緊張などとは程遠いところにあった。
腹はただ、牛丼を欲している。
──速く終らせて欲しいな。
自動ドアの奥に目をやると、店員が多少の動揺を見せていた。
長々とドアの前で何かしらのやり取りが続いているからだ。
しかも、大男が五人である。
揉め事なのは、見て分かる。
神室町で、日常茶飯事の光景とはいえ、店の前でやって欲しくは無い──それが店員の本音である。
「てぇ事は、あれだ。神心会は北辰館より腑抜けの集まりなんだな」
「こいつら、あれだよ、巽真とかのバーリトュード出ねえもん」
「腑抜けで腰抜けっしょー、あのでかいのずっとビビりっぱなしじゃん」
年長者が言った『町中の喧嘩など、北辰館の連中に任せていろ』これに対して、煽りを入れて来たのだ。
木塚は、最早、止まらなかった。
真冬は察した。
行った!と真冬は心中で声を上げる。
木塚は、するりと構えた。
左腕と左脚が前に出ている。
右の腕と脚は後ろ。
右拳は胸元より少し上。
空手の構えだ。
そして、前に出していた左足を踏み出す。
それに続き右足も動いた。
それらの動きとほぼ同時に、すかさず、左拳を繰り出した。
真っ直ぐ、188cmの巨漢の顎を打ち上げたのであった。
速く──
重い──
ボクシングで言うところのジャブ。
刻み突きである。