その日の夜、瑠斗は自宅の自室で勉強机に向かっていた。宿題は先程片づけたが、まだ今日の分の自習勉強が残っている。だがふと、瑠斗のシャーペンを握る手が止まった。
(…姫崎さんが、化け物だったなんて)
瑠斗は夕方の出来事を思い出していた。自習の為に向かった空き教室で、クラスメイトの少女が自慰をしていると思ったら、彼女の秘所から巨大な蜂の腹部が飛び出してきた。瑠斗はそれを見た瞬間、恐怖に駆られてその場から逃げ出した。そしてそのまま、一直線に自宅に帰ってきたのだ。家族からは珍しがられたが、そんな事はどうでもいい。と言えるような光景を目にしてきたのだ。「クラスメイトの女の子が実は化け物だった」なんて、誰にも言えないし、言おうとも思えなかった。ましてや、明日になれば自分はその少女と同じ教室で、勉学に励むのだ。そう思った瞬間、瑠斗はまた恐怖を覚えた。
「ば、バレてない…よな?もしバレてたなら、お、俺は……」
思わず頭を抱えて蹲る瑠斗。身体は小刻みに震え、呼吸が早くなる。殺されるかもしれないとの恐怖が、瑠斗の頭を支配していく。だがそんな時、瑠斗の部屋にあるベランダから、ガタン!という音がした。その音を耳にした瑠斗は、自然とベランダの方へ視線を向けた。
(…ミノか?)
瑠斗の自宅では猫を1匹飼っている。名前は「ミノ」で茶色の毛並みの猫だ。そして瑠斗の部屋にあるベランダは、ミノがよく日向ぼっこをしに来る場所でもあった。日向ぼっこと言わず、良く外から上がってくるのだが、夜に来るのは結構珍しいことだ。瑠斗は勉強机から立ち上がり、ベランダの方へと歩を進めた。カーテンを開け、窓の鍵を外して引き戸を開けて愛猫の名前を呼んだ。
「ミノか~?」
だが、引き戸を開けた瞬間、瑠斗は―――
こんばんは、明智瑠斗
「うわぁっ!!」
思わず声をあげ、バランスを崩して床に尻もちをついた。ベランダにいたのは、愛猫「ミノ」ではなく、「姫崎ぬい」だった。ぬいは尻もちをついた瑠斗を見下ろしながら、瑠斗の部屋へと上がってきた。本能的に後退る瑠斗を見て、ぬいは笑った。
「クスクス、やはり人間は面白い。私が現れただけで、これほど恐怖を感じているのだからな」
「ひ、姫崎さん!?な、なんでここに!?」
驚きと恐怖でどうにかなってしまいそうな瑠斗が口にしたのは、そんな言葉だった。ぬいは口元を歪ませ、言い放った。
「決まっているだろ?私の正体を知った者を、消しに来たのよ」
「け、消しにって!お、俺は―――」
「バレていないとでも思っていたのか?あの教室の扉からは、お前とお前の精液の臭いが漂っていたんだぞ?」
そう言ってぬいはスカートのポケットから、瑠斗の精液を拭いとったハンカチを取り出し、それを瑠斗に見せつけた。ハンカチにこびり付いた瑠斗の精液は、染みを作って磯臭い匂いを放っている。
「これが私の正体を知った者を教えてくれたのだ。残念だったな」
ぬいはクスクスと笑いながらハンカチをしまった。
「ひ、姫崎さん…あ、貴方は一体何者なんだ!」
瑠斗は顔を恐怖で歪ませ小刻みに震えていたが、意を決して質問を投げかけた。答えてくれないと思っていた瑠斗だったが、ぬいは以外にも簡単に答えてくれた。
「私はヘキュバ*1。幻魔と呼ばれる存在の高等種族よ」
「へ、ヘキュバ?幻魔?な、何なんだそれって!?」
「人間の言葉で例えるなら、地の底で暮らす化け物。かしら?」
「地の底で暮らす化け物…幻魔」
聞いた事のない言葉に加え、余りに現実離れした内容に瑠斗は、困惑していた。だが、ぬいは更に言い募る。
「夕方に私が変身する姿を見たというのに、信じないというのか?まぁ、私は構わんがな」
「いやいやいや!信じる!信じざるを得ません!」
慌てて肯定する瑠斗を見て、ぬいはまたクスクスと笑った。慌てる瑠斗の姿が滑稽だ。と言っているような笑い方だった。そしてぬいは、床に尻もちをついたままの瑠斗に迫った。身体を密着させるように四つん這いで迫ってくるぬい。制服姿であるせいか、何故か妙な色気を瑠斗は感じていた。
「だがまぁ、お前が私の正体を知ってしまった以上、お前はここで死ななければならないのよ」
「あ、あぁ…お、俺は…」
怪しい笑みを浮かべて迫ってくるぬい。瑠斗は先程感じた、色気など一瞬で消え去っていた。瑠斗の表情には再び、恐怖で歪んでいった。やがてぬいの顔が瑠斗の耳元まで迫った。ぬいの口から洩れた吐息が、生暖かい風をはらんで瑠斗の耳をくすぐる。
(こ、殺される!!)
瑠斗はその瞬間、首を噛み切られて死ぬことを直感し目を瞑った。だがそれに反して、痛みはすぐにやってこなかった。瑠斗は恐る恐る目を開いた。すると目の前には、ぬいの顔があった。依然として小さな笑みを浮かべている顔だが、そこから殺気のような物は感じられない気がした。瑠斗は恐る恐る口を開いた。
「姫崎……さん?」
「―――と言いたいところだが、お前を殺してしまっては変な噂が立つことになる。そうなれば、私の正体をより多くの人間が知る可能性が増えてしまうからな。今回は見逃してあげることにするわ」
ぬいの表情からはいつしか笑みが消え、諦めたような表情をしていた。はぁ…とため息を零すぬい。瑠斗はあっけらかんとした表情で、ぬいを見つめていた。
「じゃ、じゃあ―――」
「ただし条件がある」
瑠斗がぬいに何かを尋ねようとした直後、ぬいが言葉を遮った。その声は強く、まるで拒否は認めない。と言っているようだった。瑠斗は、じょ、条件?と困惑した表情でぬいの目を見つめた。
「1つは、私の正体を誰にも喋らない事―――」
「い、言わない言わない!絶対言わない!ていうか、言ったところで信じてくれるような友達いないし!」
「……お前、それ自分で言っておいて恥ずかしくないのか?」
「うっ……」
慌てた様子で、絶対に喋らない。と言ったつもりが、いつの間にか瑠斗は、自分に友達がいないことまで告げてしまっていた。ぬいに図星を衝かれて、目を逸らす瑠斗だったが、ぬいは、まあいい。と更に言葉を続けた。
「そしてもう1つの条件だがな―――」
そう言った瞬間、ぬいの顔が紅潮して目を逸らした。突然の事だったため瑠斗は困惑していたが、ぬいは意を決して口を開いた。
ま、毎日私に、お前の精液を呑ませろ!
「……え?」
瑠斗は、鳩が豆鉄砲を食ったような腑抜け顔になっていた。もはや困惑を通り越して、意味不明だ。と顔が言っている様な、そんな表情だった。ぬいは紅潮したまま、もじもじと何か言いづらそうにしながら口を開いた。
「そ、その…試しにお前の……ハンカチに付いた精液を舐めてみたんだ…そ、そしてら―――」
人間の精液はこれ程美味いのかッ!!
「と、なってしまってな……」
瑠斗の目の前にいる「幻魔の少女」は、まるで恥じらいを覚えたばかりの女児の様に顔を赤らめ、瑠斗から視線を逸らしたまま黙り込んでしまった。彼女の口は波打ったような形で、身体はもじもじと震えている。それを見ていた瑠斗は、ぬいのあまりの可愛さに思わず言ってしまった。
「お、俺のでいいのなら……別に、構わない…けど」
「ほ、本当か!?」
瑠斗の言葉に、ぬいは目を輝かせた。先程まで、氷の様に冷たく見えていたぬいの表情は、今ではまるで、欲しがっていた玩具を買って貰えた子供のように明るいものになっていた。やがてぬいはにこやかな表情のまま、瑠斗の傍から立ち上がった。それに合わせて瑠斗も立ち上がった。ぬいは紅潮した顔で瑠斗に振り向き、人差し指で瑠斗を指さした。
「じゃ、じゃあ明日の放課後、あの空き教室で待ってるから!必ず来なさいよ!」
「あ、うん。わかったよ」
瑠斗が不思議そうな表情を浮かべたまま二つ返事で返した。それを確認したぬいは、瑠斗の部屋からベランダへ飛び出し、そのまま夜の闇へと消えていった。
「……俺、助かったんだよな?」
誰もいなくなった室内で、瑠斗は困惑気味に独り言ちたのだった。