皿の上で箸がかすかに震え、百の呼吸が着物の胸元を上下させる。その動きにつられた視線がまた商人たちの間で揺れ、俺は飲み込んだ溜息を喉の奥で噛み殺した。隣の百は、静かだ。静かすぎる。怒りを固めて沈めたときの、あの危険な沈黙だ。
「……要」
低く呼ばれた名に、俺はびくりと肩を跳ねさせた。百は皿に箸を落とし、扇子を指先で閉じたり開いたりしながら、視線だけを横へ寄越してくる。その目が、酔いも軽蔑もすべてを凍らせるような鋭さを孕んでいた。
「ねぇ、さっきの……聞いた?」
「え、ど、どれだよ……」
「“粋なお選びですね”よ」
声は静か。だが扇子の骨が小さく軋む。百の膝がひとつ寄ってきて、俺の膝に触れた。偶然じゃない。わざとだ。怒りの熱が、そのまま足先から伝わってくる。
名前を呼ばれただけで、心臓が跳ねる。百がすっと体を寄せ、俺の耳元に口を近づけた。吐息が触れ、汗が背を落ちていく。
「“腹が立ってます”って、普通に言っていいのよ?」
「お、おお……それは……わかってるけど……」
「じゃあ顔に出さないでよ。私だけ怒ってるみたいじゃない」
睨むような、頼るような、複雑な響き。俺は思わず彼女の横顔を見た。艶やかな深紅の着物、首筋の白さ、少し噛まれたように赤くなった唇。そして、胸元。着物の合わせが浅いせいで、立ち上がるたびに谷間が揺れそうで、俺は視線の置き場に困った。
「……要、見てる」
「み、見てない!」
「嘘。さっきからずっと。私、怒ってるのに」
「いや、だからこそ余計にこう、目のやり場が……!」
「じゃあ、ちゃんと目を合わせて」
百が俺の顔を片手で上向かせる。白い指が顎に触れ、思考が一瞬で飛ぶ。すぐそこにある彼女の瞳は、怒っているくせに、どこか不安に揺れていた。
「……ねぇ、要。私だけが必死なの、嫌なの。わかる?」
「百……」
「牽制してるのも、怒ってるのも、あなたを巻き込んでるのも……全部、私ばっかりじゃない」
扇子が膝の上でぱたりと閉じられる。百は少しうつむき、唇の端を噛んだ。
「……だから、少しくらい支えてよ。見た目がどうとか、胸がどうとか……そんなの後でいい。今は……隣で、ちゃんと私の味方でいて」
その小さな声が、宴会場のざわめきに溶けて消えそうで、俺は反射的に彼女の手首をそっと取った。百が驚いたように目を丸くする。
「いるよ。味方でいるから。だから……落ち着け、な?」
「……っ、要、そういう風に言うとこ、ほんと……」
百が頬を赤くし、視線を逸らす。怒りの火が少しだけ鎮まったのがわかった。けれど次の瞬間、向かい側から声が飛ぶ。
「斎賀さん、その男……本当にお似合いで?」
若い商人が酒の勢いで口を滑らせたのだろう。百の肩がびく、と跳ねた。扇子が震え、その胸元の布が危うく揺れる。
「ねぇ……要」
百がぎり、と歯を食いしばり、俺の手を強く握った。
「このまま黙ってたら……私、本気であの人を泣かせる」
「わかった、俺が行く」
立ちかけた俺の腕を、百が急いで掴む。
「ちょ、ちょっと! 行くって何するつもりよ!」
「いや、なんか言ってこいって雰囲気じゃ――」
「違う! 私の代わりに喧嘩しろって意味じゃない!」
百が身を乗り出し、俺の胸に額がぶつかるほど近くなる。着物の香りが鼻をくすぐり、彼女の体温がひどく近い。
「……“私が怒ってるの、あなたが望んだことじゃない”って……ただ、そう言ってほしかったの」
「……ああ。わかったよ。それなら言う」
「い、言うの? 本当に?」
百が一瞬で赤面する。その肩が震え、扇子の骨がしなった。
「そ、そんな真正面から言われたら……私、変な顔になる……!」
「大丈夫。もうみんな逸らしてるよ視線」
「それはそれでムカつくのよ……!」
百が悔しそうに唇を尖らせた、その瞬間だった。
酔っぱらいの浪人が、また余計なことを言う。
「おい若造〜! ほんとにそんな美人を守れんのかぁ?」
百の呼吸が止まり、空気がぴたりと凍りつく。俺は即座に百の手を握り、声をかけた。
「百。俺が望んだのは、お前の怒りじゃない。隣にいてくれることだけだ」
百の肩がふっと緩む。目が大きく開き、息が漏れる。
「……っ、それ……いま言う……?」
「今だろ。お前が暴れる前に」
「……ば、暴れないわよ……っ」
百は顔を背けたまま、俺の袖をぎゅっと掴んだ。その指先の力は強いのに、手のひらは微かに震えている。
その小さな告白は、宴会場の喧騒よりもずっと熱かった。百はそっと俺の腕に寄り添い、胸元の布がまた揺れる。周囲の視線がようやく引いたのを確認してから、百はため息混じりに囁いた。
「……もう、ほんと……こんな場で言わせないでよ……」
俺は苦笑しつつ、百の手をしっかり握り直した。百の頬にはまだ怒りの熱が残っていたが、その指先の温度は、さっきよりずっと穏やかだった。
もしシャンは連載版あり?
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あり
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なし
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タイトルでバンされる可能性あり