居酒屋の暖簾をくぐった瞬間、炭と油の匂いが一気に鼻を突いた。
宴会場の張りつめた空気とは正反対の、だらけた夜の匂いだ。
奥の座敷では、すでに天音永遠が出来上がりかけていた。
グラスを揺らしながら、こちらを見るなりにやりと笑う。
「いや〜、聞いた聞いた。宴会場で腕組んで、睨み効かせて、
挙げ句の果てに“恋人です”って宣言したんでしょ?」
「宣言したのは事実だ」
百は淡々と答え、徳利を手に取る。
「戦術的判断だ。あの場では最適解だった」
「はいはい、“最適解”ねぇ」
天音は楽しそうに頬杖をついた。
「でもさぁ、いいなぁ百は。
もう家族に紹介できる段階まで進んでて」
その言葉に、百は杯を口に運ぶ前に一瞬だけ止まり、深くため息を吐いた。
「……そんなに良いもんじゃないぞ」
そう言って酒を飲み干す。
「家族ってのはな、紹介した瞬間から“覚悟”が始まる。
祝福も詮索も、全部まとめてだ」
「でもさぁ」
天音の声が、やけに甘い。
「じゃあ次は私の番じゃない?」
嫌な沈黙が落ちた。
「……は?」
俺が声を出すより早く、百が天音を見る。
「お前、今、何考えてる」
「ん〜?」
天音はわざとらしく首を傾げ、笑みを深めた。
「今度はさ、私も要を家族に紹介しようかなって。
“二人とも付き合ってます”って」
「話を広げるな」
百が即座に遮る。
「順序というものがある」
「順序? 何それ美味しいの?」
「美味しくない」
二人のやり取りに、俺は頭を抱えた。
「……むしろ、お前達に翻弄される俺の気持ちを考えろ」
すると、間髪入れずに声が重なる。
「「嫌だよ」」
即答だった。
「即答!?」
がっくりと項垂れる俺を見て、天音は楽しそうに笑い、百は肩をすくめる。
「ほらな。こうなる」
「いや、止めろよ!」
「止める理由がない」
百はそう言い切り、少しだけ視線を逸らす。
「……それに」
低く続く声。
「お前が隣にいるの、悪くない」
一瞬、天音が目を丸くした。
「おや?」
「言質取った」
「取ってない」
「取った取った」
天音はにやりと笑い、俺の肩をぽんと叩く。
「ま、覚悟しときなよ要。
百の次は、私だから」
「順番待ち宣言すんな!」
百は杯を置き、小さく息を吐いた。
「……まったく。酔っ払いが二人いると厄介だ」
「自分もだよ?」
「私は自覚がある」
天音がグラスを掲げる。
「じゃあさ、とりあえず今日はこれで」
百も、少し遅れて杯を持ち上げる。
「……お疲れ様、だな」
三つのグラスが軽く触れ合い、乾いた音が鳴った。
その音は、宴会場の緊張も、家族だの順番だのという厄介な未来も、
ひとまず棚上げするように、居酒屋の喧騒へと溶けていく。
――こうして、
ややこしくて、面倒で、
それでも少しだけ前に進んだ夜は、
笑い声と酒の匂いの中で、静かに幕を閉じた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
本作は短い期間の連載ではありましたが、
斎賀百と天音永遠、そして要という三人の関係性を
“シャングリラ・フロンティアらしい会話劇”として描くことを目指しました。
完璧に見える人間ほど不器用で、
強く見える女性ほど弱さを抱えていて、
その隙間に生まれる言葉や距離感を楽しんでいただけていれば幸いです。
短編という形で一度区切りを迎えますが、
彼らの日常やこの先の騒がしさは、
きっとどこかで続いていくことでしょう。
また別の機会に、彼らと再会できる日を願いつつ――
ここで一旦、幕を下ろさせていただきます。
ご愛読、本当にありがとうございました。
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