冬の夜は、静寂と冷気に満ちていた。
風が枝を揺らすたび、葉の落ちた木々がきしみを上げ、空気の冷たさをより一層際立たせていた。
その中、山あいに併設された露天風呂だけが、まるで異世界のように湯気をもくもくと吐き出していた。温かな蒸気が白い闇を照らし、湯の表面には、やわらかな橙色の灯りがゆらゆらと反射している。
――その湯を、ずっと、待っていた。
木の脱衣所。凍える空気の中、その真ん中に設けられた小さな木のベンチに、ひとりの少女――いや、早乙女らんまが座っていた。
赤いおさげ髪は、風呂上がりのように乾ききっておらず、ところどころ雪の粒を含んでいた。湯気でほのかに頬を染めながら、両手で小さなケースを握りしめている。
淡い桃色の楕円形。銀色の箔押しで書かれた文字は──「不死鳥丸」。
それを見つめるらんまの瞳には、かすかな震えと、こらえきれない期待が浮かんでいた。
「……ふぅ……ようやくだ……」
震えたのは、寒さのせいではない。
――思い出す。
数週間前、シャンプーの曽祖母であるコロンに押された「総身猫舌のツボ」。そのツボのせいで、熱い湯にすこし触れただけでも、まるで全身に火をつけられたかのように飛び上がるはめになった。
たとえそれが、自分の姿を男に戻してくれるはずの熱湯であっても――だ。
湯船に手を突っ込めば「ぎゃああ!」と叫び、足を浸けようものなら「しぬっ!!」と暴れまわる。自分の体なのに、まるで反応がコントのようで、誰がどう見ても情けない姿だった。素っ裸でのたうち回ったことも、一度や二度じゃ済まない。
だから、今夜こそが勝負だった。
「へっ……どんなにしぶといババァだって、オレを止めることなんざできねーってこった」
口元がわずかに歪む。雪だるまレース、そしてその後のガチンコの格闘戦――あのしぶといコロンを猫拳で勝利し、ようやくこの丸薬を手に入れたのだ。
この手にあるのが、「不死鳥丸」。
――総身猫舌を治す、画期的丸薬。
ただの湯あたりや体質改善ではない。ツボによって強制的に変化させられた体質そのものを、一粒で正常な状態に戻すという、とんでもない代物だ。
「……よしっ!」
らんまはケースをカチリと開けた。中には、小さく丸く光沢のある赤褐色の粒が一つ。照明の光を反射して、ほんのり輝いて見える。
「飲むぜ……これで、久々に男に戻れるぜ……!」
ごくっ。
迷いは、なかった。
口に放り込み、ひと息で飲み下す。丸薬は舌に苦味を残すこともなく、すっと喉を通って胃へと落ちていった。思わず目を閉じ、ひと呼吸――
そして、目を開いた。
「ふっふーん、オレの勝ちだな、コロンのばーさん!」
ベンチから勢いよく立ち上がる。薄く凍った床を踏み鳴らすように、らんまは脱いでいた服に手をかけ、次々に脱ぎ捨てていく。
チャイナ服の上着を脱ぎ、タンクトップも脱ぎ、トランクスも脱ぎ、靴下を蹴り飛ばし――完全な裸になるまで、ほんの十秒もかからなかった。
「っさむっ!!」
思わず肩をすくめるが、今のらんまにとって、それすら気持ちよかった。
「ま、いいさ……どうせすぐに、あったかい湯に浸かれるんだ。しかも、男の体でな!!」
寒空に向かって吠えるように叫ぶ。小屋を飛び出し、雪の積もる石畳を、軽快なステップで駆け抜ける。
露天風呂の縁まで来ると、両手をぐるぐると振って勢いをつけ、ひざを曲げ、勢いを込めて――
「とりゃあああっ!! 男復活、いっくぜぇぇぇぇぇ!!」
華麗なジャンプ!
足が地面を離れ、雪の舞う空中へと、しなやかな肢体が弧を描いた。赤い髪が風にたなびき、雪と湯気が交じる空間の中に、彼女の――いや、「彼」の姿が浮かび上がる。
そのまま、高々と空を舞い、しっかりと両足を揃えながら――
バシャアアアアアアン!!
湯面を豪快に割って、露天風呂の中へ飛び込んだ!!
……が。
「っっっっづああああああああああああっっっ!!!!!???」
ものすごい悲鳴が、夜の山中に響きわたった。
「っっっちょっ……あっっっっっつぅぅぅぅううううう!!!」
バシャバシャと、湯が派手に跳ね上がる。湯船の中で暴れる裸の赤毛の少女が、仰天したように飛び出した。
「だっちゃあぁあああーーあああ!!熱ぃいいーーっ!!あちちちちちち!!な、なんでだ!? オレ、まだ……女のまんまじゃねーかあああああっ!!水、水、水ぅう!」
慌てて、全身に蛇口からの水を浴びるらんま。
まぎれもなく、女性のまま。しっかりと胸はあり、腰もくびれたままで、かすかな湯気がその肌をなぞっていた。
「不死鳥丸ぅぅぅぅぅっっ!! 効いてねぇぇぇぇぇええええ!!!!!」
――真冬の夜空に、らんまの叫び声だけが、むなしく響いていた。
あとがき
この物語は、TVアニメ『らんま½ 熱闘編』第6話「爆走!雪だるまレース」のエンディングをベースにした、ちょっぴり切なくて、どこか笑えるパロディ作品です。
原作では、苦労して手に入れた「不死鳥丸」のおかげで、ついに湯に入れるようになったらんま。ようやく男に戻れる……はずだったのですが。
「うまくいかせないぜ!」と、ちょっと意地悪な気持ちで書いたのが今回のお話です。
せっかく手に入れた奇跡の丸薬が、まさかの偽物。本人は大真面目に決意して、雪の中、全裸でダイブしたのに、結果は……ギャグ一直線。らんまの苦労は報われず、まだまだ“女のまま”の生活が続くことになってしまいました。
けれど、これこそが、早乙女らんま。
何度倒れても起き上がり、何度裸になっても(?)前を向く。そんならんまの不屈っぷりが、やっぱりたまらなく愛おしいんですよね。
今回も、読んでくださってありがとうございました。
デカパイ、オマンコ丸出しの中編小説も鋭意制作中です!
それでは、また。