範馬道 神室町の蜚蠊幼女(ヤマトゴスロリ) 作:贋海王
奇妙な音だった。
空気を裂く、不思議な摩擦音が鳴った。
下手な者が吹いた短い笛の音の様でも、鞭をしならせた時に生じる乾いた音のようでもあった。
落石の様な拳が疾り、冬の大気を焦がした音である。
そして、その拳は、大気中に漂う埃を確かに焦がしていた。
火元が無い倉庫の中で、一瞬だったが、焦げ臭い物が真冬の鼻孔を擽ったのである。
そうした現象も、その拳の速度があまりに凄まじいスピードとパワーだったから起きたのだろう。
だが、その拳は真冬に掠りもしなかった。
真冬は、膝行で僅かに左へ回り、右手の甲を振り上げたのだ。
甲で放つ鞭打──誰が、御式内の体勢から鞭打が飛び出すなど考えるだろう。
確かにこれは、真冬が行う、彼女の御式内なのだ。
弾いた──それとほぼ同時に、真冬の視界に、悪樓の爪先が突然入って来た。
フェイントとしての蹴り脚。
意識の上で織り交ぜたそれは、準備段階でもあったのだ。
二重のフェイントでもあった。
蹴りと見せ掛け、殴る、だが、実際にも蹴り付ける、そんな動作だ。
無理な姿勢でパンチを打ち下ろし、防がれた。
その上、体勢を崩されてしまう。
そこから更に蹴りを放つとは、悪樓もまた、凄まじい身体能力の持ち主である。
(蹴っただと!?)
鎬は、驚愕を隠せなかった。
冷や汗が頬をつたっている。
真冬の顔面に向かって、つるはしか何かを振り回した様な、爪先で放つ重く鋭利な蹴りが、襲い掛かったのだ。
鎬も、更に蹴りが繰り出されるとは思っていなかったのである。
真冬の視線は、鎬へと向いていた。
だが、伸びてきた悪樓の爪先を、更に上体を下げて躱したのだ。
まるで、お辞儀をするような格好である。
茶室で、そうするかのように、ゆるりと頭を下げていた。
元々、御式内は正座に見える。
殿中作法に基づいた秘伝なのだ。
優雅さも当然ある。
そして、礼儀作法など学んだ事もない、かねてから浮浪児宛らの真冬だったが、この所作一つに、大和撫子の美しさや気品めいた物が、奇妙な事に、何故か備わっているのだ。
──座れば
将来、真冬の起居振舞を指して、そう喩えて語る女性が現れる。
つまり、大和撫子の美しさを讃える言葉である『座れば牡丹』を真冬に当て嵌めて、捩っているのだ。
花に例えるのではない。
──御式内
武術で語られるのだから、真冬とは、奇妙で、尚且つ面白い女性である。
そして、真冬のこの技術は、幼い頃から、その片鱗を、この様にして、既に見せていたのだ。
日本刀に勝ると言う意味で
「何!?」
悪樓の脚が、真冬の頭上を疾り抜けた。
何か、気味の悪い事が起きている。
悪樓は、そう思った。
タイミングが、奇妙に狂ったからだ。
いや、真冬にタイミングを外されたのである。
伸び切った右足首に、真冬の左掌が添えられた。
そして、尺骨と橈骨が粉砕されている右上腕が、蛇の様な動きで絡み付いて来たのだ。
悪樓の視点が、突然変わった。
天井、壁、床と、一瞬で目まぐるしく、見える物が変わったのだ。
何が起きたと、思うより先に、浮遊感に襲われていた。真冬に投げられ、縦に、一回転したのである。
悪樓は、頭頂部を真冬に向けて、俯せに倒れていた。
(まさか──これは、あ……合気……なのか!?)
こうして、218kgの巨躯が、宙に舞ったのである。
鎬は信じがたい面持ちで、真冬と悪樓を見詰めていた。
良く見ると、真冬が投げた悪樓の右足首が、血塗れであった。
たんに投げただけでは、こうは、なるまい。
そんな負傷だった。
真冬は、左手を自身の膝の上に添えるように置いた。
その左手も血に濡れている。
悪樓の爪先蹴りが放たれた時から、既に、真冬は攻撃を加えていたのだ。
真冬がタイミングを外すように仕掛けていたのである。
悪樓が行った意識の上でのフェイントを、やり返したのだ。
真冬は、防御をする意識のタイミングを態と外した。
悪樓もまた、肉体が行動を開始する0.5秒前の脳の伝達を知覚している。
真冬の脳と肉体が、別の行動を取ったのだ。
悪樓が知覚した、真冬の脳が伝達した行動と、真冬の実際の肉体の行動が、別物だったのである。
故に攻撃のタイミングが狂ったのだ。
そして、呼吸だ。
真冬の耳は、彼の心臓の鼓動と呼吸を捉えていた。
その呼吸から、彼の行動を読み取り、呼吸を合わせた。
その為に、彼のタイミングをずらし、防御を容易く行ったのである。
実戦合気柔術『渋川流柔術』の開祖である“達人”『渋川剛気』や、彼の師である『御輿芝喜平』なら、真冬が行ったこれらの技術を完璧に理解しきるだろう。
だが、この場にいる鎬も悪樓も異様な状況であるとしか、考える事が出来なかったのだ。
合気──
もし、渋川剛気が真冬のそれを見たら、どう感じるだろうか。
ごく自然に呼吸し呼吸を合わせる、誰に学んだ訳でもない、在るが儘の合気である。
武田惣角のヤマト流が祖となり御輿芝喜平の護神流に。
護神流の術理が渋川剛気の渋川流へと伝わり、合気道が生まれ、完成していった。
もし、渋川剛気と當之真冬の合気が出会えば、それはどう、変化していくのだろう。
真冬の合気にとって毒となるか。
武田惣角から連なる合気にとって毒となるか。
それとも、合気が更なる進化を遂げるのか。
それは、また、近い未来で語られる當之真冬の闘争の記録となる。
左腕がほぼ死んでいる為、悪樓は、右手を支えに上体を起こしていく。
顔を上げた。
目の前に、当然だが、真冬が居る。
彼女の虚ろな紅い双眸は、正面から逸れていた。
つまり、悪樓を見ていないのだ。
(何処を見ておる──)
視線を追って、探った。
その先は梯子だ。いや、梯子の上である。
横穴状の廊下が続いている。
──逃走を考えているのか。
と、悪樓は推察するが、実際は、暗がりで壁を背にして潜む鎬を、見ているのだ。
引き摺るように、脚を動かし、悪樓は立ち上がる。
もはや、どこが痛いのか分からないほど、激痛が全身を駆け巡っている。
だが、立ち上がろうとした時だ、右足首で火薬が炸裂したかのように錯覚した。
熱い痛みが、足首に広がっている。
その激痛に、悪樓は顔を歪めた。
奥歯を噛む。
足首──いや、アキレス腱が激痛の発生源だ。
奥歯が擦りきれる程、歯を食い縛り、真冬を睨み付ける。
鬼の様に両目が吊り上がっていた。
異様に澱んだ双眸であった。
血と汗で汚れ、痛みと怒りで、歪みに歪んだ凄まじい表情となっているのだ。
吊り上げられたその目に、突然、何かを投げ付けられた。
膝に置かれていた真冬の左手の内に、それは隠されていた。
真冬自身、隠そうとする意思は無かったかも知れないが、そうした格好になっていたのである。
何が、目にぶつかってきたのか。
両目に投げ付けられた。
投擲武器ではない。
悪樓には見えなかったが、血塗れの肉片であった。
眼球に衝突し、痛みより一瞬の驚愕で、悪樓は目を覆った。
反射に近い。
上体が反らされたかと思うと、再び、俯せ気味に手をついた。
(──アキレス腱を毟ったのか)
鎬には、それがアキレス腱だとすぐに理解出来た。
理解出来たとしても、その容赦の無さを目にして、若干青ざめている。
右手上腕を絡ませ、左掌を添えた時だ。
左手の五指で掴んだ。
そして、爪を引っ掛けたのである。
爪が刺さり、指も潜り込んで行った。
鋼板を穿つ真冬の爪。
花崗岩や玄武岩を抉る真冬の爪。
打岩を完成させた、拳と爪、そして指だ。
真冬は、貫手で、打輪と打針も成し得たのだ。
真冬が完成させたそれらを所有している『徳川光成』は、こう語る。
『あの娘の拳はどんな肉体も打ち抜いてしまうじゃろう』
完全な死に際の集中力を取り戻した今の真冬ならば、悪樓の肉体さえも貫く事が可能なのだ。
そして、既に脱力もまた完全な状態になっている。
──
先ずは、蛇の様に巻き付いた右手上腕で、重心を崩した。
ここでも、意識のずれで、悪樓のタイミングを狂わせた。
投げられまいとする、悪樓の反発を崩し、呼吸を合わせていく。
──そして、投げるのだ。
単に投げようとしても、腕力で投げる事は出来ないだろう。
完全な開放率の陵伽なら、腕力で216kgを投げる事も可能である。
だが、鬼の貌が背なで哭いていたとしても、今の真冬の腕力では、流石に不可能な話であった。
故に合気が、活きて来るのだ。
逆に、陵伽では、こうした真冬の様な合気や呼吸を、高水準で行う事は難しいだろう。
尤も、陵伽にはまた別の手段も持ち合わせてはいるのだが。
タイミングと重心を崩し、呼吸を合わせ投げる。
その際に、真冬はお辞儀の様な上体を反る様に起こしていく。
顔を挙げる瞬間と、投げるタイミングを同時に合わせていき、投げたのだ。
お辞儀から上体を起こした時に、攻めの消力に転ずるのだ。
呼吸と脱力が合わさり、そこで216kgにも通用する真冬の投げが炸裂したのである。
その投げと共に、アキレス腱を毟ったのだ。
御式内と合気と消力。
殿中の秘伝と、連面と続く古流武術の奥義、中国武術の高等技術が、一人の少女のなかで、一つになっているのである。
真冬は、膝行のまま、前方に進む。
歩幅なら、半歩も進んではいない。
血と肉片の目潰しを食らい、アキレス腱を失いながらも立ち上がろうと踠く悪樓を前に、真冬は、両手を膝の上に、体勢はそのままで、じっと鎬を見据えた。
そこで漸く、鎬は、真冬が自分に何かを、訴えているのだと察したのである。
『仕切り直し、没ネタエピソード』は削除し、残骸置場に入れた方が良いですか?
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そのままで良い
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残骸置場行きが良い