範馬道 神室町の蜚蠊幼女(ヤマトゴスロリ) 作:贋海王
「右膝の前後十字靭帯加えて、左足アキレス腱の損傷。移動が困難故に、それを補う為の御式内か。面白い」
男は、表情一つ変えずそう言った。
そして、笑い声を洩らした。
咳き込むような、奇妙で、不自然さが感じられる笑い声であった。
「俺に挑むか、ガキが」
「翠、下がって」
真冬は、翠へ顔は向けず、声だけを掛けた。
常ならば、気に掛ける相手に顔を向け、戦闘を行う事が多い真冬だったが、今回はそれが出来ないでいた。
それ程、彼への警戒を強めているのだ。
余裕が全く無いとも言える。
無論、いつも余裕があり、相手を侮っているから、そうした行動を取っていると言う訳ではない。
ただ、気配の察知が、常の戦闘ならば、可能であるからだ。
当然だが、守る相手より、敵の方が気配は大きい。
気配を『氣』と言い換えても良いだろう。
それなら、守る相手の動きを目に留めながら動く方が、その人物を守りやすいと、考えているのである。
だが、この男に対しては、その気配の察知が困難であると、判断したのだ。
気配が全く感じられず、いつの間にか、近寄られた。
その事もあり、この男への警戒心が強くなっているのである。
城之内家の屋敷には、当然だが、警備員が二十四時間、常駐している。
監視カメラも、至る所に備え付けられている。
警備員達も詰所で、監視カメラを眺めているだけではなく、庭や屋敷内の見廻りを行っているのだ。
この池付近でも、監視カメラは常に回り続けているので、警備員が異変に気付く事があれば、必ず駆け付けるだろう。
翠は、警備員がやって来る事に期待もしていた。
勿論、警備員達が何人駆け付けて来ても、無駄に負傷者が増えるだけなのだが、翠はそこまでは考えが及ばなかった。
恐ろしい相手だとは分かる。
しかし、その戦闘力の確かな水準が、どれ程の物なのかは、理解していないからである。
戦闘力の見極めなど、ただの女子小学生の翠に出来る訳がないのだ。
「貴様の様な腑抜けに、何が出来る」
また、一歩だけ踏み出す。
真冬は、制する様に、左腕を翠の前で伸ばしていたが、それを肘で曲げて、前に出した。
拳は握らず、開手の状態であった。
手の位置は三角巾で吊るしている右腕の前で、胸元の中心辺りに置いた。
片合掌に近い体勢であった。
手のひらと、甲にもガーゼが当てられ包帯を巻いている。
蒙将龍戦で、音速を越えた鞭打を放った為に負傷しているのだ。
その男の歩幅なら、後四歩くらいで、彼の間合いに入るだろう。
とは言え、それは、今の歩幅で、移動を続けた場合だ。
一気に詰め寄って来ることだって充分あり得るのだ。
飛び蹴りの様な技をかけて来ることも考えられる。
飛び付いて関節技を狙ってくる場合だって考えられるだろう。
一歩ずつ詰めて来ないかも知れないのだ。
また、一歩だけ踏み出した。
と──そこで、脚が前に伸ばされた。
右足が、跳ね上がり、疾った。
中足が、顔面目掛けて、襲って来たのである。
突風が叩きつけて来たような一撃だった。
突然、脚が伸びて来たのだ。
予備動作の様な物が無かったのである。
ほんの一歩だけ前に出てきた。
そこから、突然の蹴りであったのだ。
だが、真冬はそれに反応した。
果たして、これに反応出来る人間など、何れだけ存在するだろうか。
そんな一撃であったが、真冬は動いた。
片合掌に似た状態の左手が、するりと上がった。
手首を曲げて、甲を上にする。
その甲を伸びて来た男の脚──踵辺りを打ったのだ。
それを弾くと、手首を返し、僅かに跳ねた男の足首を掴んでいた。
爪を、突き立て皮膚に潜り込ませた。
片合掌から、甲で打つ、弾き手首を返し掴む。
その動作を一瞬で行っていた。
それぞれの動作に、コンマ何秒の差も無い様な速度であった。
しかし、男は大きく、そして高く、その足を持ち上げた。
すると、足首を掴んでいた真冬の手が、あっさりと外されたのだ。
真冬の爪が突き刺さっていなかったのだ。
いつもならば、コンクリートを容易く抉り毟り取る爪が、その男の皮膚を貫く事が出来なかったのである。
真冬が、敵を掴む際は、大抵がそうしたやり方だ。
爪で刺し、強靭な骨格と固定された指の関節で、引っ掛けるように、掴むのだ。
握力は用いていない。
単純な握力だけなら、普通の女児と変わらないのだ。
爪が突き刺さらなければ、人成らざる骨格も意味を為さないのである。
離れた足が、直ぐ様動いた。
それが鎌で刈り取るように、打ち突けて来た。
蒙将龍に千切られた左耳に、足が落とされた。
包帯で保護されたそれを削ぐ様に、落ちてきたのだ。
右膝を擦るように、動かし、それを追うように左膝も動いた。
そして、右手方向に回り込む形で真冬は膝行したのだ。
突風のようなと、比喩ではない。
男の足が振り抜かれると、風が吹いた。
膝行で躱したが、靡いた髪が数本千切れていた。
足が通りすぎた時に発生したその風圧で、髪が揺らめいていた。
膝行で躱す。
その状態で避けられるからと言って、その蹴りが遅い訳では無い。
その突風が、蹴りのスピードの速さを物語っているのだ。
「防戦だけか?貴様からも仕掛け、当てなければ、その娘を護れんぞ」
御式内は、自ら攻撃に出るには向かない構えである。
防御から、カウンター気味に征する技術なのだ。
男はそれを知っているから、敢えて煽る様に言っているのだ。
真冬もその煽りの意味に気付いている。
だが、ここからどう仕掛けるべきか。
下手に、当て身に転じたら、あっさりと迎撃され、一層不利になるだろう。
「俺はな、シロガキ。お前を一つだけ、評価している。そいつは、人を躊躇いなく殺傷せしめる所だ」
真冬は、そう言われても無言であった。
「俺のガキの中でも、心の裡にその狂気が孕んでいる者は少ない。しかし、その殺傷本能がお前には宿っている。殺人を経験している事は力に繋がるのだ。闘争とは、狂気の比べ合いだ、故に、お前の狂気は優秀な暴力となる」
「貴方は……何者なのですか」
「なに?」
無言で、男の語りを聞いていた真冬だったが、男が一息ついた時に、そう問い掛けた。
真冬の問い掛けに、男は不思議そうな顔を見せた。
そして、納得したように頷くのだった。
「そうか、名乗った事が無かったな」
息が詰まる。
真冬は、喉の奥に重い石が突然現れ、呼吸を遮っている──そんな息苦しさを感じていた。
その石が増えて続け、肺まで落ちて来るのだ。
この息苦しさは、男のある台詞が影響している。
男は真冬と、自身の子供とを比べる様な事を言ったのだ。
真冬は、彼の子供達と比べ、狂気を孕んでいる。
確かにそう言ったのだ。
何故、自分と、子供を比べた。
そもそも、何故、この男は自分の前に現れるのだ!?
あのミレニアムタワーの一件。
金属の墓場でもそうだ。
──そして、この男と会うと自分は一つ強くなれた。
死に際の集中力──
服の袖で鞭打を扱う技術──
それらを得たのだ。
「範馬勇次郎、まぁ、何と言うべきか──お前の親父だ」
その言葉に、翠の表情が変わった。
驚愕と、怒り。
複雑な表情だった。
対して真冬の表情に変化は無かった。
実のところ、気付いていたのかも知れない。
陵伽と出逢った時にも、気付いていた。
彼女が姉であると。
そんな血と遺伝子の共鳴があったのだろう。
息苦しさも、そうした所から来ていた物である。
「……お父さん……」
「おう」
「お母さん、亡くなりました」
「あん?そいつがどうかしたか?興味もねぇ」
「……え?」
「顔も名前も覚えてねぇ女の事なんざ、今更、どうでもいい事だ」
範馬勇次郎は、詰まらなさそうに、そう言い放った。
──顔も名前も覚えていない?
「お母さん、首を吊ったんです」
「あぁ、そうかい」
範馬勇次郎が、笑った。
その時だ。
真冬は動いた。
右膝で、地面を蹴ったのだ。
地面が抉れていた。
攻めの消力により、地面を蹴り、加速したのだ。
「跳ねっ返りおって、腑抜けが」
範馬勇次郎の喉元に、真冬の左腕が迫った。
五指を揃え、貫手を繰り出したのだ。
だが、その左腕を捕られた。
ぎしりと、手首を絞められる。
「お
その瞬間、真冬は引っこ抜かれる様に持ち上げられた。
範馬勇次郎が、真冬を掴んだまま振り上げる。
真冬の視点がぐるりと変わった。
その行動で、真冬の左腕が悲鳴を上げた。
肘の靭帯が伸びる音だ。
そして、前腕の筋肉が断裂する音であった。
範馬勇次郎は、真冬の身体で素振りをしたのだ。
小さな真冬の身体だ。
範馬勇次郎にとったら、竹刀で素振りをするのと変わらないだろう。
しかし、真冬の身体と、支点となる左腕に衝撃と重力が襲い掛かった。
肉と骨──それが、同時に断たれる凄まじい音が響いた。
真冬の身体が、前方に投げ棄てられた。
地面に、ぽつぽつと、赤い点が散らばった。
真冬の身体が滑っていく。
その地面には、紅い筋が、伸びていた。
範馬勇次郎の右手に、ただの一本の棒切れとなった、真冬の前腕が握られていた。
「左腕も無くなっちまったな、シロガキ」
範馬勇次郎は、恐ろしい哄笑をあげた。
しかし、真冬の耳に、それは既に届いてはいなかった。
「これは、制裁だ、シロガキ。汚された雌の身体を恥じろ。己の無力を恥じるのだ。これで終わるなら、所詮、そこまでと言うことだ」
範馬勇次郎は、左腕を握り潰し、踏みつけた。
「女、お前は良い。お前がこいつの側にいろ、お前と居たならば、少しは化けるかも知れぬ」
翠は、真冬に駆け寄っていた。
そして、身体を抱き締める。
咄嗟に、範馬勇次郎を睨み付けた。
だが、既に、彼の姿はそこに無かったのである。
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そのままで良い
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残骸置場行きが良い