範馬道 神室町の蜚蠊幼女(ヤマトゴスロリ) 作:贋海王
巨大な白いワニがいた。
馬鹿げた程の大きさだ。
小柄な真冬は当然にして、例えば身長240㎝体重310㎏と言う規格外の体躯を誇る元ボクサーにしてレスラーのアンドレアス・リーガンをも一飲みにしてしまうのではないか。
汚水の中から現れたワニは、真冬が待つ道路側に上がって来た。
──地響き
そのワニが歩むと地響きが辺りに発生している、そんな錯覚が真冬に過る。
半開きの口内には、牙が見える。
その顎からの噛み付きによる咬合力の恐ろしさは想像に難くない。
背中で波打つ鱗板骨が内蔵されたオステオダームは、正しく甲冑の様相である。
かの三百人以上の人間を殺したナイルワニのギュスターヴは、拳銃や機関銃の弾丸を受けても死ぬ事はなかった。
鱗、皮膚、筋肉が強靭な筈だ。
そして、この下水道に棲む白いワニも……。
──対物火器による大口径の弾丸であっても、その背鱗板で容易く衝撃を殺して弾いてしまうだろう。
太く長い丸太のような尾にはごつごつとした突起が三列、規則的に並び鎧としても武器としても扱えるだろう。
全長はどれくらいだろうか。
恐らく一般的なナイルワニの2倍、12メートル程度は有るのではないか。
それはまるで、太古から甦った古代のワニを思わせる巨大さだ。
恐竜をも襲うことがあったと言うような古代のワニである。
この白いワニの種類は何なのか……と言う疑問が流石に真冬にも湧いてくる。
普通の子供なら、親に連れられて行った動物園で、実物のワニを目にする機会など幾らでもある。
しかし、産まれ落ちてから、父を知らず、母からの愛など一切無く、虐待を受けていた真冬には、そんな機会は訪れなかった。
故に、初めて見る実物のワニが、この白いワニであった。
安全な動物園で出会う事になるワニと違い、すぐ目の前にいるこのワニは、柵もなく檻もない、そうした隔たりが一切無い危険な距離で出会ったワニなのだ。
真冬が笑った。
微笑と言うにも程遠い、少し口角を上げただけのものだが、確かに笑った。
巨大なワニを見て、嬉しそうなのだ。
知識では知っていても見たことのない生き物と出会う喜び。
初めて動物園で猛獣を見る子供の様に、真冬は、はしゃいでいるのだろう。
真冬とて、幼い……九歳の女児で有ることに変わりはない。
だが、普通の女児ならば、こんな下水道で巨大なワニとの鉢合わせに喜ぶはずがないだろう。
『ワニと遊びたいな』
先程まで戦友にして師匠である蜚蠊と遊んでいた童心の延長──そんなところか。
そして、ワニは真冬の前で歩みを止めると口吻を大きく開き、頭部を振るった。
上顎と下顎が開くと、小型車くらいの全高なら問題なく噛み付ける程だった。
さしもの真冬も、虚ろな眸に僅かな驚愕の色が浮かんだのだった。
背後に
左右に
何処に避けても無駄だ。
相手は大き過ぎる、そして、自身は小さすぎる。
この噛み付きはどこまでも追い付いてきて、避けられない。
ノーベル賞受賞者の“アルバート・ペイン”は危険な場所の例としてTレックスの口のなかを挙げている。
何をバカなと言うのは簡単だ。
しかし、もしも現代人が、このワニの顎が開き、自身を噛み砕こうとしている状況に直面したら、ペイン博士の言葉を何ら疑る事無く100%納得してしまう筈だ。
真冬は、ワニの下顎を右肘で払う様に撃ち込んだ。
しかし、ワニの牙は真冬が着ているラッパ状に拡がるゴスロリ衣装の袖口に引っ掛かり、引き裂いていた。
真冬の肘打ちは、それが起きる前に完了していたが、それも衣装の袖口に引っ掛かり裂いてしまう原因だったかも知れない。
だが、ワニの噛み付きも、真冬を傷付ける事が出来なかった。
肘を打ち付けると、真冬は、それを軸にして跳んだのだ。
そして更に、一回転し膝蹴りをワニの上顎の外鼻孔に叩き込んだ。
──堅い
ニーソックスに包まれた膝に、血が滲んだ。
擦り傷だ。
「格好いいですね、ワニさん。愉しいですか」
心が踊った。
声も、はしゃぎようを隠せず僅かに弾んだものだった。
桃源郷での押し潰されそうな恐怖と苦痛が、さっきの蜚蠊との鬼ごっこを経て、更にこのワニと出逢った事で、既に過去の物として、忘却の彼方へと消えていた。
──とは言え、近い将来の話
──今は気付いていないが、あれが男性との性的接触に対する大きな傷痕として、潜在意識にトラウマとして刻まれており、男性との性行為が巨大な恐怖として残り、しかも、男性との闘争は戦闘中にも性的接触を行う相手もいるし、何よりも十代半ばになってからの敗北後はそうした望まぬ性的接触……いや、凌辱の場ともなってしまうことが幾度もあったからか、そうした事例を経験した結果、男性との恋愛“は”全く意識する事すらなく成長し、年齢を重ねる結果となってしまう未来が待っているのである。
何にせよ、今の真冬にとってこの下水道での一件は、精神的に救われる物ではあったのだ。
鼻孔を蹴った真冬だったが、地面に着地する寸前に、半回転して来たワニの尻尾が幾重にも束ねた鉄鞭の様に、彼女に打ちつけられた。
その鉄鞭を両腕でブロックする。
しかし、人間の受けが役に立つ事がない。
一撃を防御した両腕の肉が潰れて、裂けた。
更にまだ宙にいたバランスの悪い体勢での一撃だ、真冬は弾き飛ばされ、下水道の壁に叩き付けられる。
壁が無ければどこまで飛ばされただろう。
だが、それがダメージともなった。
──壁に激突した右肩が悲鳴を上げた。
肩と両腕、膝が痛い。
──だから、愉しい。
生きている実感が、心の奥底から湧いてくる。
痛みが嬉しい。
痛みに耐える事で、生きていく強さを得ていると感じられる。
“娘なんて強いあの人の子供になれないの。弱い娘なんていらなかったのよ、蛆虫”
母から聞いた辛い言葉だ。
だから、少しでも、強くなってみたいと思った。
金属を抉る爪が自分に有ることを知ったときは嬉しかった。
しかし、母に教えたことは無かった。
大人になって、母に自分の全てを見せたい、その時まで秘密にした方がお母さんは喜んでくれる。
そう思った。
巨大なワニとの闘争はその時の想いを叶えてくれる。
ワニと遊び、傷つけられたその痛みが真冬になる。
真冬になれば、母から真冬と呼んで貰える。
「ワニさん愉しいですね」
笑った。
破顔と呼ぶに相応しい笑顔だ。
ワニはその笑顔から剥き出しになる真冬の歯に見惚れる様に釘つけとなった。
ワニに果たしてどこまで思考能力があるかは分からないが、敢えて代弁して言うならば……
──こいつ、サーベルタイガーの末裔か
彼の細胞が記憶しているのだろうか、真冬の歯を見て連想して紡がれたのは、面白い事にそうした言葉であった。
『仕切り直し、没ネタエピソード』は削除し、残骸置場に入れた方が良いですか?
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そのままで良い
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残骸置場行きが良い