ヒンメルが死んでから、幾度目かの冬が過ぎた頃。フリーレンは魔法都市として名高いアイゼンベルクの古書街にいた。石畳の道を往来する人々が吐く息は白く、分厚いローブの隙間を縫って肌を刺す。しかし、フリーレンにとってそんな寒さは、過ぎ去った季節の記憶と同じくらい、意味をなさないものだった。
彼女の心を占めるのは、ただ一つの渇望。
魂の眠る地、オレオール。
ヒンメルに、もう一度会うための場所。
その手がかりと、師フランメの魔法の痕跡を求め、彼女は埃とインクの匂いが染みついた古書店を渡り歩いていた。だが、どの文献も彼女の渇望を満たすには至らない。羊皮紙に記された魔術理論はとうに解析し尽くしたものであり、英雄譚は、共に旅した仲間との思い出に比べれば色褪せて見えた。
そんな時だった。魔道士たちが暖炉を囲んで交わす声が、フリーレンの耳に届いたのは。
「聞いたか?『時の果ての森』に棲まう魔女の話を」
「ああ、万象の書庫を持つという⋯まさか、お伽話だろう」
「それが、どうも実在するらしい。神話の時代に失伝したはずの魔導書すら、そこにはあるとか⋯」
フリーレンは足を止める。ありふれた噂話。これまで幾度となく耳にしてきた、根も葉もない与太話の類。だが、次に続いた言葉が、彼女の千年を生きた心を貫いた。
「なんでも、魂の構造そのものを解き明かしたという禁忌の書、『魂魄のグリモワール』さえも蔵しているそうだ」
その瞬間、フリーレンの世界から雑音が消えた。人々の喧騒も、凍てつく風の音も、全てが遠のく。彼女の永い旅の目的地が、今、定まった。
◇
噂だけを頼りに、人跡未踏の森を進むこと幾星霜。フリーレンはついに、その場所にたどり着いた。奇妙な静寂に支配された、陽の光さえ歪んで見えるような森の最奥。そこに、天を突くように一本の塔が聳え立っていた。継ぎ目ひとつない、夜の闇を固めたような黒曜石の塔。強大な魔力で編まれた結界が、凡百の存在を拒絶している。
フリーレンが結界に手を伸ばし、その構造を解析しようとした、その時だった。
音もなく、重厚な扉が内側へと独りでに開いていく。
中から現れたのは、一人の女。艶やかな黒髪を腰まで垂らし、血のように赤い唇が弧を描いている。見た目はフリーレンよりも若いくらいだが、その瞳は違った。千年を生きたエルフの魂すら見透かすような、深く、昏い色。底なしの沼を思わせる瞳が、フリーレンを捉えていた。
「ようこそ、フランメの弟子。あなたが来ることは分かっていたわ」
魔女──リリティアナは、全てを知っているかのように微笑む。フリーレンは動じない。ただ、その瞳を真っ直ぐに見返し、単刀直入に用件を告げた。
「あなたの書庫の魔導書を読ませてほしい」
リリティアナは楽しそうに目を細め、フリーレンを塔の中へと誘った。「ええ、もちろん。そのために、あなたを待っていたのだから」
案内された先は、フリーレンの想像を、そして期待すらも遥かに絶する光景だった。
天井の見えない、巨大な吹き抜けの空間。壁という壁は全て書架に埋め尽くされ、無限とも思える数の魔導書がぎっしりと並んでいる。魔法の光を放つ古文書、鎖で封じられた禁書、伝説の中にしか存在しないはずのグリモワール。その全てが、まるで埃を被ることさえ許されていないかのように、静かに息づいていた。
フリーレンの心に、数百年ぶりに純粋な高揚感が込み上げる。
「素晴らしい⋯」
思わず漏れた呟きに、リリティアナは満足げに頷いた。「ええ、素晴らしいでしょう?ここは私の楽園。そして、あなたにとっても楽園になるはずよ」
フリーレンは書架から視線をリリティアナに戻し、問う。「対価は?」
これほどの知識。ただで閲覧できるはずがない。
リリティアナはゆっくりとフリーレンに歩み寄り、その白い耳元で囁いた。声は蜜のように甘く、しかし抗うことのできない魔力を帯びていた。
「対価は簡単よ。あなたがこの書庫で本を読んでいる間、あなたの身体を──私の好きにさせてもらう。ただ、それだけ」
リリティアナの指が、フリーレンの頬をそっと撫でる。
「魔法による抵抗はしない。物理的な抵抗もしない。あなたはただ、静かに本を読んでいればいいの。私は、あなたの身体で私の退屈を慰めるから」
フリーレンは数秒間、その言葉の意味を分析した。身体を好きにさせる。精神に干渉されるわけでも、魔法を奪われるわけでもない。何より、目の前の知識の山に比べれば、そんなものは取るに足らない些事だ。彼女は自身の精神力に、絶対の自信があった。いかなる物理的刺激も、読書の集中を妨げるには至らない、と。
「分かった。その契約、飲もう」
即答だった。そのあまりに無感動な返事に、リリティアナの瞳が妖しくきらめいたのを、フリーレンは知らない。
契約は成立した。フリーレンは早速、魂に関する魔導書が収められた一角へと向かい、重厚な革張りの本を手に取る。近くにあった豪奢なビロード張りの椅子に深く腰を下ろし、集中力を高め、その一ページ目を開いた。
フリーレンの世界は、古代文字と魔法理論だけになる。周囲の気配が消え、意識がテキストの海へと沈んでいく。
──そのはずだった。
ふわり、と背後から甘い香りが漂う。リリティアナが、音もなくフリーレンの背後に立っていた。そして、長くしなやかな指が、フリーレンの銀色の髪をそっと一房すくい上げる。
フリーレンは反応しない。意識は本に集中している。
リリティアナの指は、絹のような髪を弄んだ後、するりと下へ滑り、フリーレンの尖った耳の輪郭を、ゆっくりとなぞり始めた。これまで誰にも触れられたことのない、敏感な場所。冷たい指先が、柔らかな軟骨の感触を確かめるように、這っていく。
その時。
フリーレンの肩が、ほんの僅かに、ピクリと震えた。
彼女自身は気づいていない。無意識の、取るに足らない身体の反応。
しかし、リリティアナはその微細な反応を見逃さなかった。彼女はフリーレンの耳元に唇を寄せ、吐息だけが届くほどの距離で、愉悦に満ちた声を潜ませた。
「さあ、始めましょうか、フリーレン。私たちの、永くて楽しい時間を⋯」
フリーレンの蒼い瞳は、まだ魔導書に縫い付けられたままだ。彼女はまだ知らない。この契約が、彼女の千年不動だった心を、身体の奥底から溶かしていくことになるということを。