研究室に、朝の光が差し込み始めていた。
ろうそくの灯りがその役目を終え、白い光が、床に散らばる羊皮紙や、壁に描かれた魔法陣の跡を、静かに照らし出していく。
フリーレンは、一睡もせずに夜を明かした。開かれた『魂魄のグリモワール』を前に、ただ座り込んでいる。その隣でリリティアナもまた、一言も発さずに、ただ静かに寄り添い続けていた。
やがて、フリーレンはゆっくりと立ち上がった。
その動きは、まるで何百年も動かなかった石像が、初めて動き出すかのように、ぎこちなく、しかし確かな意志に満ちていた。
彼女は、祭壇の上のグリモワールにそっと手を伸ばし、パタンと静かに閉じた。
その音は、彼女の決断を告げる、厳粛な響きを持っていた。
「使わないよ、この魔法は」
フリーレンは静かに言った。その声には、もう迷いはなかった。
「ヒンメルなら、きっとこう言う。『僕との思い出を犠牲にしてまで会いに来るなんて、本末転倒じゃないか』ってね」
その顔には、憑き物が落ちたような、穏やかな表情が浮かんでいた。過去の幻影に囚われていた長い霧が、ようやく晴れたかのように。思い出は失うものではなく、胸に抱いて生きていくものだと、ようやく本当の意味で理解したのだ。
そして、フリーレンはリリティアナに向き直った。その青い瞳が、真っ直ぐにリリティアナの心を射抜く。
「それに⋯⋯」
フリーレンは、少しだけ照れたように、しかしはっきりと告げた。
「私には、失いたくない『幸福な時間』が、また一つ増えてしまったから」
リリティアナの瞳に、深い安堵の色が浮かぶ。フリーレンがここに残る。この楽園の日々は、これからも永遠に続くのだと。彼女がそう思い、その美しい唇を歓喜に緩めかけた、その矢先に。
フリーレンは続けた。
「だから、私は行くよ」
「え⋯⋯?」
リリティアナの思考が、一瞬凍り付いた。
「私は、まだ旅を続けなくちゃいけない。ヒンメルたちと旅した場所を、もう一度この目で見ておきたいんだ。それに、魂の眠る地(オレオール)がどんな場所なのか、この目で確かめるまでは」
その言葉に、リリティアナの表情から、血の気が引いていくのが分かった。一瞬、その瞳に、深い悲しみと、フリーレンをこのまま腕の中に閉じ込めてしまいたいという、黒い激情の影が差した。
行かせない。どこへも。あなたは、私のものなのに。
しかしその感情は、すぐに掻き消された。
リリティアナは、理解してしまったのだ。
フリーレンのその尽きることのない探究心こそが、彼女の魂の本質であり、自分が愛した、焦がれた、その輝きそのものなのだと。フリーレンをこの塔に縛り付けることは、彼女の魂を、この手で殺すことと同じなのだと。
リリティアナはただ、唇を噛みしめることしかできなかった。
◇
その夜。
旅立ちを、明日に控えた夜だった。
リリティアナは、自室のベッドで、ただぼんやりと本を読んでいた。しかし、その文字は一つも頭に入ってこない。
シーツにまだかすかに残っている、フリーレンの香り。
まだ記憶に新しい、腕の中の温もり。
明日になれば、その全てが、ただの思い出に変わってしまう。
その事実だけが、リリティアナの心をじりじりと焼くように苛んでいた。
その時、静かに部屋の扉が開いた。
立っていたのは、フリーレンだった。彼女は寝間着姿のまま、リリティアナの元へと歩み寄る。そして無言のまま、リリティアナが読んでいた本を取り上げ、静かに閉じると、その隣にそっと腰を下ろした。
リリティアナは、何も言えずに、ただフリーレンを見つめる。
先に沈黙を破ったのは、フリーレンだった。
彼女は少しだけ躊躇いながらも、リリティアナの手を取り、その瞳を真っ直ぐに見つめて、はっきりと告げた。
「リリティアナ⋯⋯」
「あなたの全てを、私に刻んでほしい。旅の間、寂しくないように」
リリティアナは、フリーレンのその言葉に、息を呑んだ。
驚きと、喜びと、そして、どうしようもない愛おしさが、一度に胸の奥から込み上げてくる。彼女は、フリーレンのそのか細い身体を、壊してしまいそうなほど強く、しかし優しく抱きしめた。
「⋯⋯馬鹿ね」
リリティアナの声は、涙で震えていた。
「そんなことを言われなくても、そのつもりだったわ」
リリティアナは、フリーレンをベッドへと優しく導くと、その小さな身体をゆっくりと横たえた。そして、フリーレンの寝間着の紐に、そっと手をかける。
しかし、その指が紐を解く前に、フリーレンが、自らの手で、そのリリティアナの手を制した。
そして、その仕返しとでも言うように、フリーレンはリリティアナの寝間着の紐に、おずおずと指を伸ばした。
互いの瞳を見つめ合ったまま、二人は同時に、ゆっくりと、相手の衣の紐を解いていく。
月明かりの下、互いの白い肌が、少しずつ、同時に晒されていった。
フリーレンは、初めて見るリリティアナの裸身に、息を呑む。
リリティアナは、何度見ても飽き足らない、愛しいフリーレンの身体に、熱い吐息を漏らした。
二人は初めて、対等な存在として互いの身体を求めた。
いつもなら、このままリリティアナがフリーレンの身体に覆いかぶさってくるところだった。
しかし、今夜は違った。
フリーレンは、リリティアナが動くより先に、自らその身体を起こした。そして、ベッドの上に座るリリティアナの前に、跪くようにして、その白い脚にそっと口づけを落とした。
「フ、フリーレン⋯?」
リリティアナが、戸惑いの声を上げる。フリーレンは、顔を上げずに、ただリリティアナの脚を、太腿を、その肌の感触を確かめるように、両手でゆっくりと撫で上げていく。
そしてついに、その最も神聖で、秘密の場所にたどり着いた。
フリーレンは顔を上げた。その青い瞳には、もう戸惑いはない。ただ、愛する人を喜ばせたいという、純粋な意志だけが宿っていた。
「今夜は⋯⋯私が、あなたを喜ばせたい」
そう囁くと、フリーレンは、リリティアナが今まで自分にしてきたのと同じように、その花弁に初めての口づけを落とした。
「あっ⋯⋯ん、ぅ⋯⋯!」
リリティアナの喉から、立場が逆転したことを示すかのような、甘い喘ぎ声が漏れる。
フリーレンは、リリティアナの反応を確かめるように、不器用ながらも、懸命にその舌を動かす。どうすれば彼女が喜ぶのか、自分の身体が教えられた記憶を頼りに、その一点を探し求める。
やがてリリティアナの身体が、大きく痙攣した。
フリーレンは顔を上げ、満足そうに微笑む。
「どう⋯⋯かな?」
その問いかけに、涙目で、息も絶え絶えのリリティアナは、ただ首を横に振ることしかできなかった。そしてフリーレンのその、か細い身体を、たまらないといった様子でベッドへと引き倒した。
「⋯⋯仕返しよ、フリーレン」
彼女は、これまでの全てをなぞるように、フリーレンの身体を愛し始めた。
かつて、フリーレンが屈辱に震えた、その胸の頂点。リリティアナが、再びそこに指を伸ばし、優しくつまむ。しかし、フリーレンの身体は、もう恐怖には震えない。ただ、愛されているという、甘い実感だけが、背筋を駆け上がっていく。
「ん⋯⋯ぁ⋯⋯」
漏れる声は、もう隠す必要のない、悦びの音色。フリーレンは、自らその胸を、リリティアナの指へと押し付けた。
「いい声。もっと聞かせて、フリーレン」
リリティアナは、かつて無理やりこじ開けた、その秘裂へと、ゆっくりと指を進める。しかしもう、こじ開ける必要はなかった。そこは、リリティアナを待ち望むかのように、熱く、そして潤んで、いとも容易くその指を迎え入れた。
フリーレンは、その動きに合わせて、自ら腰を揺らす。どうすれば、もっとリリティアナを感じられるのか、身体が、魂が、もう知ってしまっている。
「リリ⋯⋯ティアナ⋯⋯もっと、あなたの、中で⋯⋯」
それは、二人の魂が完全に同期し、一つの欲望となって溶け合っていく、神聖な儀式だった。
これまでの全ての戯れが、全ての快感が、この瞬間のためにあったのだと、二人ともが理解していた。
リリティアナは、フリーレンのその言葉に応えるように、その身体を、より深く、より強く、求め始めた。
そして、クライマックス。
二人は、互いの名前を、喘ぎ声に混ぜて呼び合いながら、唇を貪るように重ねたまま、同時に、深い絶頂の光の中へと堕ちていった。
「フリーレンッ!」
「リリティアナ⋯⋯!」
激しい痙攣の後、訪れたのは、穏やかな静寂。
二人は、汗ばんだ肌を重ねたまま、互いの心音を聞いていた。
部屋に満ちるのは、二人の匂いが混じり合った、甘く、そして少しだけ切ない香り。
フリーレンは、リリティアナの腕の中で、そっと呟いた。
「⋯⋯これで、大丈夫」
離れていても、もう寂しくはない。
そう、確信できる夜だった。
◇
一夜が明け、塔には朝の柔らかな光が満ちていた。
旅立ちの時が来た。
塔の入口。フリーレンは、旅の支度を整え、そこに立っていた。リリティアナが、その小さな背嚢の紐を、最後にきゅっと結んでやる。言葉は少ない。しかし、触れ合う指先や、交わされる視線だけで、昨夜の熱の名残と、これから始まる別れの寂しさが、痛いほどに伝わってきた。
全ての準備が終わり、二人はただ、向かい合って立っていた。
何を言えばいいのか、分からなかった。さようなら、という言葉は、あまりに冷たく、そして永遠の別れを思わせた。
先に動いたのは、フリーレンだった。
彼女はリリティアナに一歩近づき、その両手を取ると、おもむろに、自らの意思で、深く、そして長い口づけを交わした。
それは、昨夜の情事の、甘い余韻の味がした。そして、これからの長い旅の間、互いを支えるであろう、確かな約束の味がした。
ゆっくりと唇を離し、フリーレンはリリティアナの瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「必ず、ここへ帰ってくる」
その声は、もう迷いも、揺らぎもなかった。
「だから⋯⋯待っていてくれる?」
それは、初めてフリーレンから交わされた、対等なパートナーとしての、少しだけ不安げな「約束」の問いかけだった。
リリティアナの瞳から、堪えていた涙が一筋、白い頬を伝ってこぼれ落ちた。
しかしその唇は、フリーレンが今まで見た中で、最も美しく、そして強い笑顔を形作っていた。
「ええ、待っているわ。千年だって、二千年だって」
リリティアナは、フリーレンの頬を優しく撫でる。
「あなたという、最高に面白い魔法使いが、どんな土産話を持って帰ってくるのか、楽しみにしているから」
その言葉を最後に、リリティアナはフリーレンの頬に、もう一度だけそっと触れた。フリーレンもまた、その手に自らの手を重ねる。
言葉はいらない。視線だけで、二人はこれからの永い時間と、再会の約束を交わした。
やがて、フリーレンは名残惜しそうにその手を離すと、いつもの調子で言った。
「じゃあ、行ってくる」
リリティアナもまた、穏やかな、しかしどこか寂しげな微笑みでそれに応える。
「ええ、行ってらっしゃい」
短い言葉だけを交わし、フリーレンは踵を返した。
そして、一度も振り返ることなく、塔の外へと、光の中へと歩き出していく。彼女はもう、迷わない。帰るべき場所が、待っていてくれる人ができたから。
リリティアナは、その小さな背中が、森の緑の中に見えなくなるまで、ずっと、ずっと見送っていた。
やがて、書庫に戻ったリリティアナは、一人になった。
がらんとした空間に、再び静寂が訪れる。しかし、その心はもう乾いてはいなかった。胸の中に、フリーレンが灯してくれた、温かい光が宿っている。それは、「待つ」という、幸福な希望。
彼女は、フリーレンがいつも座っていた、あの豪奢な椅子の前に立った。そして、そのビロードの座面を、愛おしそうに、そっと撫でた。
それから、書架へと向かう。
新しい魔導書の整理を始めた。フリーレンが次にこの塔へ帰ってきた時に、退屈しないように。彼女の永い時間は、もう孤独な停滞ではない。いつか帰るべき大切な人のために、その場所を守り、豊かにしていく、穏やかで、幸福な時間へと変わったのだ。
リリティアナは、一冊の古い本を手に取ると、窓辺の自分の椅子に深く腰掛けた。
そして、フリーレンがいつも座っていた膝の上に、そっと、その本を置いた。
まるでそこにまだ、彼女の温もりが残っているかのように。
リリティアナは、その本に目を落とし、誰にも聞こえない声で、そっと呟いた。
「早く帰りなさいよね、私の魔法使い」
──了──