日常が戻ったことに安堵する岡部稔は改めて環への思いを強める。
「やっぱ俺、彼女のこと好きだわ」
しかしそんな想い人がある日、有休を取得することがわかって……?
※宮崎弁がわからないため標準語で書きます
「なんでまた? 東京はこないだ行ったばかりじゃないですか」
岡部稔は語尾を強めた。
海の男、といった具合の彼は岩戸環の同僚であり、長らく漁協に勤めている。そして同じく長らく同僚である目の前の彼女に片思いしつづけているのだが、当の本人はまったくこちらの恋慕の情に気づく気配はない。一方通行とはよく言ったものだ。そういえば、先日も一方通行逆走してしまい手痛い出費があった。片思いとはある種の自虐行為なのかもしれない。
帰宅準備を終えた岩戸環は首をすくめる。
「んーまぁちょっとね。すずめと二人してとてもお世話になった人がいてさ。だから直接お礼しなきゃと思って」
「だからって東京まで行くことはないでしょう。距離だってあるし」
「遠いったって、半日もかからないのよ? 羽田まで一時間半だし、エアーチケットだってもうとってある」
ぐ、と苦虫を噛み潰したような声が出た。
そうだった。岩戸環とは抜け目なく仕事をこなす優秀な女性だ。才色兼備の熟語がこれほどあてはまる女性はあまりいない。有休申請するのだから、準備は済ませてあるに決まっている。
だが岡部は不満だった。
理性で抑えられるほど本能は軽くはない。
「……誰と会うんですか?」
男? とは聞けなかった。もし男とわかったらとても平常心ではいられなかった。
「だから、お世話になった人。車まで出してもらったんだから」環はやれやれとまた首をすくめた。保護者のような言い方だった。「いいからあんたは気にせんと、明日からも頼むよ」
「……ですよね」
俺も行っていいですか。
その一言が言えなかった。いや、本当に言えなかったのだろうか。言わなかっただけではないのか。
だから岡部稔は、何年も自虐行為を続けている。
その視線は、環が閉めた扉にしばらく注がれていた。
◆
「え? う、嘘でしょう!? 嘘に決まってる!」
「ごめんねえ。それが本当なのよ」
環の有休取得から二ヵ月が経った初秋の夕暮れ。一日の業務が終わり、あとは各々家路につくといったタイミングで、ふと岩戸環が「報告があります」と突然皆を見渡した。
長年見知った顔が一斉に環に向けられる。そこで告げられた報告とやらは、つまり職を辞すという事柄であった。おまけに彼女はひとつとんでもない爆弾を用意していた。
――妊娠したんよ
愛おしそうに腹部を撫でる環の顔は、これまで見たことのない柔らかさと母性に満ちていた。
だが岡部稔にとっては、鈍器で後頭部をホームランされた感覚に近い。いや、もしかするともう首が取れているのかもしれない。鮮烈すぎる事実に眩暈が訪れるのを感じながら。必死に冷静であろうと試みる。
それでも話せないでいると、環がまた皆を見渡した。
「だから、ちょっと働けなくなってね。産休取ることも考えたけど……引っ越ししようかと思ってるから」
――それは旦那さんのとこに行くってことですか?
誰かが聞いた。
岡部稔の心臓が跳ねる。そうだ。妊娠ってことは、相手がいるはずだ。でも、いったい誰? だってそんなタイミング――………
「あ」
思わず声が漏れた。
だが幸運なことに誰も岡部稔の異変に気付く者はなかった。全員岩戸環の妊娠と、おそらくの結婚に祝福ムードで色めきだっている。
鼓動が早くなってきた。
喉が渇いて、口はカラカラだ。
ちょっと待て。岡部稔は自らに言い聞かせた。灰色の脳細胞とはいかないが粘土のように柔らかくない頭なら働かせることができる。
妊娠?
でも環のお腹は目立ってない。ということは、そんな過去のことじゃない。であれば最近ということになる。でもこんな田舎町だ。田舎の情報網を甘く見てはいけない。仮に環のような美人が誰かと付き合っているとしたら、あっという間に近所中に知れ渡る。なのに環にそのような浮ついた噂はひとつも聞いたことがない。何せ同僚の一人が「環さんも美人なのにもったいないよねえ」と定型文のように垂れ流していたくらいだ。だから考えられるとしたら、俺たちの知らない場所、知らない男、ということに――
でもだ。
だとしたら、推論が行き着く先は。
また誰かが聞いた。
「引っ越すってどこにですか?」
「ん?」環が照れ臭そうに答えた。「東京」
岡部は机に突っ伏した。それ以上何も聞けなかった。
(俺の片思いは……終わった、な)
長い間見続けてきた女性。
長い間憧れつづけた女性。
あの目が見る男は、自分であってほしかった。
あの唇が紡ぐ名前は自分であってほしかった。
あの体を抱くのは、岩戸環とめちゃくちゃセックスするのは自分だったはず、なのに。
(誰なんだ。環さんを抱いて妊娠させた男はいったい、誰なんだよ)
岡部稔にその事実を知る機会は、きっとない。
もしもその相手が、まだ20代前半の男だなんて知ったら、きっと純朴な彼は気絶してしまう。
~終~
エロシーンのないエロ小説というのがテーマ。
久しぶりに戸締り見たんですけど、筆者も年齢重ねてきたせいか個人的に環がドストライクでした。
たぶん岡部は芹澤に環を寝取られるだろうなと予想したので書いてみた掌編でした。