あの日、生まれて初めて魂の底から「悔しい」と叫んでから数日が過ぎた。
十六夜咲の目の色は明らかに変わっていた。かつての気弱な少女の面影はなく、そこにあるのは、獲物を見据える獣のような、ギラギラとした光だった。
古い木造の稽古場。咲は師匠である祖母、十六夜撫子の前に正座して深々と頭を下げた。
「おばあちゃん…いえ、師匠。私を強くしてください」
「……」
「横綱に龍炎寺貴和子に勝てる力を下さい。お願いします!」
撫子は黙って湯呑みの茶を一口すする。その深く刻まれた皺の奥の瞳が孫娘の覚悟のほどを、じっとりとした値踏みするように見つめていた。やがて、ゆっくりと、しかし重い口を開く。
「…いいだろう。あたしが持つ全てをお前に叩き込んでやる。だが覚悟はおありかい? あたしの稽古は地獄だよ」
「はいっ!」
咲の迷いのない返事に、撫子は満足そうに頷いた。
「マンコ相撲の極意は、三つの要素から成り立つ。心・技・体、ならぬ、『締(しん)・技(ぎ)・濡(じゅ)』。この三つが揃って初めて、力士は“本物”になる」
撫子は一本の竹刀を手にゆっくりと立ち上がった。
「まず『締』。これは体を指す。具体的に言えば、腰の重さ、足腰の強さ、そして何より膣の締め付けの強さと持久力。全ての技を受け止め、弾き返すための揺るぎない“器”だ」
「次に『技』。これは頭脳。決まり手の多彩さとキレ、相手の動きを読む洞察力。どれだけ強靭な器があっても、それを使いこなす術(すべ)がなきゃただの的さ」
「そして最後に『濡』。これは、心。そして魂そのものだ。潮の量と質、感度、そしてその快感を自在にコントロールする精神力。お前の潮はお前の生命エネルギーそのもの。それは時に相手を惑わす霧となり、時に全てを飲み込む津波となる。だが扱いを間違えればお前自身がその快感の波に溺れ、破滅する諸刃の剣だよ」
咲はゴクリと生唾を飲んだ。祖母の語る言葉は、まるで伝説の武術の奥義のように聞こえた。
「まずは基本中の基本、『締』の修行からだ。さあまわしを締めな!」
咲の地獄の特訓が始まった。
最初の稽古は、ただひたすらの四股だった。だがそれは咲が今までやっていたものとは、全く次元が違った。
「違うッ!」
ビシッ! 撫子の竹刀が咲の尻を容赦なく打つ。
「ひゃんっ!」
「ただ足を上げ下げするんじゃない! 地面を踏みしめた足の裏から、大地のエネルギーを吸い上げるんだよ! その気を、ふくらはぎを通して、太ももに溜め、そして、てめえの“子宮”に凝縮させるんだ! その“気”の重みこそが、お前の腰の一撃の重みになるんだよ!」
「し、子宮に気を…!?」
「当たり前だろう! マンコ相撲は、子宮で当たり、子宮で受けるんだ! さあ、もう五百回!」
来る日も来る日も、咲は四股を踏み続けた。来る日も来る日も、尻を竹刀でぶっ叩かれた。
数週間が過ぎた頃には、咲の下半身は見違えるようにたくましく、どっしりと安定していた。
そして撫子は次の修行の場として、咲を裏山へと連れて行った。
山奥深く、苔むした岩肌を、真冬のように冷たい雪解け水が滝となって流れ落ちている。
「さあ、脱ぎな」
「え…? ここで?」
「当たり前だろう。いいかい、滝壺の中央に腰を割って立て」
言われるがままに、咲は下半身を露わにし凍えるような水の中に足を踏み入れた。腰を落とし、四股の体勢になる。
「ひっ…! つ、冷たい…!」
「我慢しな。さて、今からやるのは、『禁玉の行(きんぎょくのぎょう)』さ」
「きんぎょく…?」
「お前の“玉門”、つまり膣を貝のように固く閉ざし、この滝の水を一滴たりとも、その“宝物殿”に入れるんじゃないよ。いいかい、もしこの滝に棲むヤマメが一匹でも、あんたの体内に侵入してみろ。あんたはこの山々の笑い者になるからね」
あまりに無茶苦茶な、しかし大真面目な指令に咲は顔を真っ青にする。
ゴオオオオオ! と、滝の水が無防備な咲の下半身を容赦なく打ち付ける。冷たさと水圧で体は震え、力の入れ方が分からない。
「だ、だめ…! 入ってくる…!」
「締めるんだよ、咲ィ! 龍炎寺にあの土俵の上で、上から蹂躙された屈辱を思い出せ! あの『奈落啜り』の味を! 二度と、あんな思いをしたくないんだろう!」
撫子の言葉に、咲の脳裏にあの日の光景が蘇る。
女王の圧倒的な質量。逃げ場のない体勢。根こそぎ魂を啜り上げられた、あの敗北の味。
「…いやだ」
ぽつりと、咲の唇から言葉が漏れる。
「もう、あんな思いは…いやだァァァァァッ!!」
咲は、叫んだ。そして、下腹部の、体の中心の、その一点に、全ての意識を集中させる。
閉じろ。
閉ざせ。
あたしの体は、あたしのものだ。誰にも、好きにはさせない。
きゅううううううううううっ!
その瞬間、咲の膣が、信じられない力で収縮した。まるで、強力な防水シャッターが閉じるように。滝の水は、固く閉ざされたその門の前で、白く泡立ち、弾かれていく。
「…ほう」
岸辺で見ていた撫子の口元に、初めて満足げな笑みが浮かんだ。
咲は、まだ体の震えは止まらないものの、確かに感じていた。自分の体の中心に、今まで感じたことのない、硬く、揺るぎない“芯”が生まれたのを。
滝行を終え、ぐったりと岸辺に横たわる咲に、撫子は言った。
「上出来さね。ようやく、“器”としての形ができてきた。だが、こいつはまだ、始まりに過ぎないよ」
撫子は、濡れた髪をかき上げる孫娘の、その力強い目を見つめる。
「明日からは、第二段階。『技』の修行に入るよ」
滝行を終えた翌日から、咲の修行は第二段階へと移行した。
テーマは『技』。あの横綱の『吸引一番搾り』を破る可能性を秘めた、咲の唯一無二の武器、『三日月』を、無意識の“まぐれ技”から、必殺の“奥義”へと昇華させるための修行だ。
撫子が咲を連れてきたのは、古い土蔵の中だった。薄暗い天井から、大きさも形も様々な十数個の“瓢箪(ひょうたん)”が、麻紐でぶら下げられている。
「師匠、これは…?」
「見ての通り瓢箪さ。今からお前はこの瓢箪を腰を一切動かさずに揺らしてみせな」
「えっ!? 腰を動かさずに…ですか?」
「当たり前だろう。お前の『三日月』は、腰の振りで当てる、鈍器じゃあない。体の内部、膣の筋肉の収縮だけで放つ、不可視の“刃”なんだよ。その刃を自在に操るための稽古さね」
咲は言われるがままに瓢箪の一つに狙いを定める。そして、意識を集中させた。
(あの時のように…! 体の内側から、斬る…!)
きゅっ、と下腹部に力を込める。しかし、目の前の瓢箪は、ぴくりとも動かない。
「形だけ真似ても意味はないよ。お前の“刃”には、まだ魂がこもっちゃいない。ただの筋肉の痙攣さ」
撫子は、厳しい口調で続ける。
「目を閉じな。そして思い出すんだよ。お前がこれまで戦ってきた相手の顔を。曙フミのあのねっとりとした腰つきを。金剛寺しのぶのあの無機質な圧力を。そして…龍炎寺貴和子のあの絶対的な質量と、お前を啜り尽くした『奈落』の味を!」
言われた通りに、咲は目を閉じる。脳裏に、これまでの戦いが鮮明に蘇る。
悔しさ、屈辱、そしてほんの少しの勝利の喜び。それらの感情が咲の体の中心に渦を巻いて集まっていく。
「見えたかい? お前の刃が、斬るべき相手の姿が」
「…はい」
「なら、放ちな!」
咲は、カッと目を見開いた!
その瞬間、彼女の体の内側から、研ぎ澄まされた“何か”が、不可視の斬撃となって放たれる!
ビュンッ!
目の前にあった瓢箪が、まるで透明な鞭で打たれたかのように、激しく横に揺れ動いた。
一つじゃない。咲が視線を送った先の瓢箪が、次々と、面白いように揺れ始める。右に、左に、奥の瓢箪、手前の瓢箪。咲は、もはや腰を動かすことなく、意識だけで、膣の内側から放つ斬撃の弾道を、自在にコントロールできるようになっていた。
「…よし。どうやら、“刃”の研ぎ方は覚えたようだね」
撫子は、満足げに頷いた。
「これで、お前の『締』と『技』は、一流力士の仲間入りだ。だがね咲。一番大事で一番厄介な修行はこれからだよ」
撫子は咲を縁側に座らせ自らはその正面に腰を下ろした。いつもの厳しい師匠の顔ではない。遠い過去を懐かしむような哀しげな目をしていた。
「最後の教えは、『濡』さ」
「…濡れ…」
「そうだよ。お前さんのその体から溢れ出る“潮”のことさ。あれはただの体液じゃない。お前の喜び悲しみ、興奮…魂そのものが、液体になったもんだ。だからこそ、お前の潮は若く純粋で途轍もない力を持っている」
撫子は一度言葉を切ると、意を決したように自らの過去を語り始めた。
「…あたしにもいたのさ。龍炎寺貴和子のような、決して超えられない壁のような、宿命のライバルがね。龍炎寺部屋の先代…貴和子の師匠さ。あたしたちは来る日も来る日も、互いの全てを懸けて戦った。そしてついに『天下一番相撲会』の決勝で、雌雄を決する時が来た」
その時のことを思い出すかのように、撫子の目が、暗く淀む。
「あたしは追い詰められていた。技も、力も、全てが互角。最後に勝敗を分けるのは、魂の力…つまり、『濡』の力だけだった」
「あたしは土壇場で一つの決まり手を編み出した。それはあたしの魂そのものを、手に叩きつける禁断の技だった」
「…その名を、『八岐大蛇(やまたのおろち)』という」
「やまたの、おろち…?」
「ああ。あたしは、自らの潮を、ただ闇雲に放出するんじゃなく、その流れを意識的に八つに分けたんだ。そしてその八本の潮の竜巻で、相手を四方八方から包み込み、快感の迷宮に閉じ込めた。一本一本の潮には違う“味”の快感が乗せてあった。甘い快感、切ない快感、暴力的な快感…。相手は八方向から来る決して終わらない快感の波状攻撃になすすべもなかった」
「……」
「あたしは勝ったよ。だが、彼女は壊れた。快感の洪水に魂が溺れちまったんだ。二度と土俵には上がれなかった。あたしは子を成すための神聖な相撲で、一人の女の魂を殺しちまったんだよ。あたしは自分が編み出した技が、自分が産み出した怪物が怖ろしくなってね…。自ら土俵を去ったのさ」
重い沈黙が二人を包む。
やがて撫子は咲の目を真っ直ぐに見つめた。
「咲。お前には、あたし以上の『濡』の才能がある。お前の潮は、誰よりも純粋で、豊かだ。だからこそ、お前に教えなきゃならない。その力を、決して暴走させちゃならないってことを。お前はその潮の“乗り手”になるんだ。決してその潮に“飲まれる”んじゃないよ」
最後の修行が、始まった。
それは四股でも滝行でもなかった。ただ静かに座り己の内側と向き合う精神の修行。
「いいかい。お前の体の中にある“泉”を意識しな。興奮や快感を、その泉に集めるんだ。そして、泉が満たされ、今にも溢れそうになる、その寸前で、ぴたりと止める」
「…えっ」
「一滴たりとも、漏らしちゃならない。心の波一つ、立てちゃならない。快感の頂きの、その崖っぷちに、仁王のように立ち続けるんだ。それができて初めて、お前は“濡”を支配したことになる」
咲は目を閉じ意識を集中させる。
脳裏に浮かぶのは行司の顔貴和子の体。体が熱を帯び、自然と潮が湧き上がってくる。
「あ…!」
ダメだ。意識すればするほど、体は正直に反応してしまう。
だが咲は必死に堪えた。唇を噛み締め全身の毛穴から汗を噴き出しながら、その“一線”を超えないように。
それはこれまでで最も地味で、そして最も過酷な戦いの始まりだった。
自分の本能との終わりのない戦いの。