アナスタシア・イヴァノワが残した絶対的な“力”の恐怖と国技への“侮辱”。
その衝撃で両国国技館の空気は未だに重く張り詰めていた。観客たちは次に土俵に上がる力士の名前に固唾をのむ。
そして、その呼び出しの声が響いた瞬間、先程までの静寂とは違う、明らかに“拒絶”と“憎悪”を含んだ地鳴りのようなどよめきが館内を支配した。
「西、小結! 特例復帰! 毒島(ぶすじま)りぃぃん!」
花道の奥から彼女は現れた。
黒髪の姫カットに蛇のように鋭い三白眼。痩身でありながら、その全身は獲物を仕留めるためだけに最適化されたしなやかな鋼鉄の筋肉で覆われている。
アナスタシアが観客を“無機物”として無視したのに対し、毒島りんは観客の憎悪と野次をまるで極上の酒のようにその全身で浴びていた。彼女はゆっくりと花道を進みながら、観客席に向かってふっと妖艶な笑みを浮かべ、深紅のルージュが塗られた唇から投げキッスを飛ばしてみせた。
「ヒューッ!」という下品な歓声と、「帰れ、外道!」という怒号が渦を巻く。彼女は自分が“悪役”であることを心の底から楽しんでいた。
絶頂川アナ:「で、出ました! 帰ってきてしまった! 土俵の神聖さをその毒で汚し、永久追放されたはずの女! “奈落の毒婦”毒島りん! その禍々しいオーラに国技館の空気がドス黒く染まっていくようです!」
天知:「…協会の狙い通り、と言ったところでしょうか。観客の憎悪を一身に集めている。しかし、彼女と対戦する力士にとってはまさに悪夢でしょう。彼女の本当の恐ろしさはその腰つきだけではありませんから…」
対するは、東の前頭六枚目、若葉かおり。その名の通り、若葉のような清純なルックスと、家族を想う心優しい性格でファンからの人気も高い清純派力士だ。彼女は土俵の塩を掴むと、邪を払うように力強くそれを撒いた。
「はっけよい、のこった!」
若葉は正々堂々、まっすぐな腰つきでりんへとぶつかっていく。清らかな力でこの土俵の穢れを浄化しようとするかのように。
だが、りんはその力をふわりとまるで煙のように受け流す。そして両者の腰が密着したその刹那。
りんは若葉の耳元に、蛇のように冷たく、そして甘い声で囁きかけた。
「…若葉かおりちゃん。あんた、テレビのインタビューでいつも『子供を授かって、幸せな家庭を築くのが夢です』って言ってるわよねぇ」
「なっ…!?」
試合中に、なぜそんなことを。若葉は一瞬思考が停止する。
「純粋で可愛らしい夢だわ。…でもねぇ」
りんの声のトーンが一段低くなる。その声はもはや囁きではなく、呪いだった。
「あんた、二年前の秋、一度身ごもった子を流してるわよねぇ」
「ひっ!?」
若葉の体の芯が凍り付いた。
それは誰にも話していない。夫と自分だけしか知らない、心の奥底に今も生々しい傷として残る哀しい秘密。
なぜ、この女がそれを。
絶頂川アナ:「お、おい、どうしたんだ若葉! 動きが完全に止まったぞ! まるで金縛りにあったかのようだ!」
天知:「…始まりましたか。毒島りんの本当の攻撃が。『精神汚染(メンタルハック)』。彼女は対戦相手の過去を、それこそ探偵のように徹底的に調べ上げます。そして、相手が最も触れられたくない心の傷、トラウマを、試合中のこの瞬間に的確に抉り出すのです」
りんの悪魔の囁きは続く。
「医者には、『あなたの体は、子供を育むには向いていないのかもしれない』って言われたんだって? 旦那さん、優しいからあなたの前では何も言わないけど、本当は子供を産める、もっと健康な体を持った女を欲しがってるんじゃないかしら…?」
「あ…、あ…」
若葉の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。腰から力が抜けていく。戦う意志が、気力が、りんの言葉の“毒”によって内側から溶かされていく。
天知:「残酷だ…。マンコ相撲は、子を成すための希望の競技。その根幹にある“子供が欲しい”という純粋な願いを、彼女は逆手に取り、最も残酷な形で相手の希望を打ち砕く…!」
若葉はもう戦えない。ただ泣きじゃくるしかできなかった。
そんな彼女の崩れ落ちた心を見下ろし、りんは最高に満足そうな歪んだ笑みを浮かべた。
「ふふ…。いい子ね。心の準備はできたみたい。じゃあ、今度は体の方をめちゃくちゃにしてあげる…」
りんの腰がゆっくりと、そして禍々しい力を帯びて動き始める。
それはもはや相撲の動きではなかった。これから始まる一方的な“凌辱”のその序曲だった。
「ふふ…。いい子ね。心の準備はできたみたい。じゃあ、今度は体の方をめちゃくちゃにしてあげる…」
毒島りんのその悪魔のような囁きを最後に、若葉かおりの戦意は完全に断ち切られた。ただまな板の上の鯉のように震えながら、これから自分の身に起こるであろう凌辱を待つしかない。
りんはそんな若葉の姿を心底楽しそうに眺めると、ゆっくりとその腰を動かし始める。
それはもはや相撲の動きではなかった。
若葉の体をまるで自分の所有物であるかのように巧みな腰つきでコントロールし、ゆっくりと回転させる。その動きは一見すると、相手を攻めあぐねているかのようにも見えた。だが、その真の狙いは月詠愁の、行司としての死角を作り出すことにあった。
絶頂川アナ:「お、おい、毒島の動きがおかしいぞ! 攻めているのか、守っているのか…まるで相手をいたぶるように、嬲るように、ねぶり尽くすような、いやらしい動きだ!」
天知:「…何かを狙っていますね。あの位置取り…行司の月詠関から、二人の結合部が一瞬だけ完全な死角になる角度…。まさか!」
天知がその可能性に気づき、声を上げようとしたその瞬間だった。
「ああああああああああああああああああああああああッ!?」
若葉かおりの口から迸ったのは絶頂の喘ぎ声ではなかった。
快感のひとかけらも含まれていない、純度百パーセントの絶叫だった。
観客の誰もが何が起こったのか理解できなかった。
ただ、その場にいた月詠愁と、超スロー再生でその瞬間を捉えた放送席の天知だけが、その禁断の行為を目撃していた。
りんが若葉の体を巧みに操り、死角を作り出したそのコンマ数秒。後手高手小手に縛られているはずのその腕の拘束を一瞬だけ緩め、蛇のようにしならせた指先を、若葉の体の決して快感のためではない、最も繊細で最も痛みだけを感じる神経の集合体へと突き立てたのだ。
それはもはや“決まり手”ではない。
ただの“暴行”だった。
決まり手:『蛇の舌(へびのした)』
ゲシッ、という鈍い音。
白目を剥き、口から泡を吹いて、若葉の体はまるで感電したかのように激しく痙攣した。快感による絶頂ではない。神経を直接焼かれたことによる完全なシステムエラー。脳がその許容量を超える痛みと屈辱に耐えきれず、強制的にシャットダウンしたのだ。
勝負あり。
だが、その結末はあまりにもおぞましかった。
りんの顔には、これ以上ないほどの恍惚とした笑みが浮かんでいた。壊れたおもちゃを見下ろし、その残骸を愛でるかのように。
国技館は一瞬の静寂の後、かつてないほどの怒号と罵声の嵐に包まれた。
「反則だろ、今のは!」「卑怯者! 土俵から叩き出せ!」
観客席から座布団や空き缶が雨のように土俵へと投げ込まれる。
行司である月詠愁は、その場で凍り付いていた。彼の憂いを帯びた瞳は、今、静かな、しかしマグマのように熱い怒りの炎に燃えていた。反則だと分かっている。だが、彼はその“瞬間”を行司として公式に“見て”はいない。ルール上、彼は結果だけを宣告するしかなかった。
「…しょ、勝者、西、毒島りん…」
その声は怒りで震えていた。
放送席では、絶頂川アナが言葉を失っている。
「…あ、あまちさん…。今のは…今のはいったい…」
天知は、その端正な顔を怒りと絶望に、これまで見せたことがないほど歪めていた。
天知:「…あれはマンコ相撲ではない。我々の愛する国技ではない。子を成すという神聖な祈りを、己の歪んだ欲望のために利用した、ただの魂の冒涜だ。我々は今、土俵の上で一つの魂が“殺される”瞬間を見せつけられたのです…!」
だが、この地獄はまだ終わらない。
勝者であるりんには、『子種拝領の儀』の権利がある。
りんはブーイングの嵐の中、ゆっくりと土俵の中央に横たわると、怒りに燃える月詠愁に向かって妖艶に微笑んだ。
「さあ、行司様。あたしへの“ご褒美”、早くしてくださらない?」
愁は無言のままりんの体へと向かう。
その儀式はこれまでで最も冷たく、そして敵意に満ちたものだった。
愁はただの義務として一切の感情を込めず、その体を動かす。りんは、そんな愁を嘲笑うかのようにわざとらしく腰をくねらせ、彼の耳元で囁く。
「あら、つれないのね。もっと、あたしをめちゃくちゃにしてくれてもいいのよ?」
それはもはや子種を授かるための神聖な行為ではなかった。
憎悪と侮蔑と支配欲だけが渦巻く、醜い“戦い”の延長戦だった。
【記者席】
ゴシップお涼は、その一部始終を冷静な目で見つめていた。周囲の記者たちがただその残虐性に顔をしかめている中、彼女だけが猛烈な勢いでノートパソコンのキーを叩いていた。
(反則…卑劣…違う。これはそんな単純な話じゃない)
彼女の脳裏には、ある確信が芽生えていた。
(あの『蛇の舌』の動き、あまりに手慣れすぎている。協会の連中は、毒島りんが“こういう戦い方”をすることを百も承知でこの土俵に上げたんだ)
なぜ?
人気力士である若葉かおりを、再起不能になるかもしれないほどの目に遭わせて、協会に何の得がある?
ただの客寄せパンダとして? いや、それだけじゃない。もっと大きな、黒い何かがこの事件の裏で動いている。
お涼はキーを叩くのをやめ、そのハイエナのような目で協会の役員席をじっとりと睨みつけた。
(見つけてやるわ。あんたたちがこの“毒婦”を使って一体何をしようとしているのか。その全てを白日の下に晒してやる…!)
光のシンデレラが闇の毒婦にどう立ち向かうのか。
そんな単純な物語では、もはやなくなっていた。
土俵の光の下で、より深く、より暗い影がその輪郭をはっきりと現し始めていた。