貴和子とアナスタシア。
二人の女王が繰り広げたあまりにも壮絶な一番。その余韻は国技館全体を一種の虚脱状態に陥らせていた。観客たちはまるで神々の戦いを目撃してしまったかのように、その衝撃から抜け出せずにいる。
十六夜咲は支度部屋のモニターでその全てを見ていた。
画面越しだというのに、二人が発する気迫と、腰と腰がぶつかり合うたびに空間が歪むかのような凄まじいエネルギーに、ただただ圧倒されていた。
(…すごい)
これが横綱の戦い。
これが世界のレベル。
自分がついこの間まで同じ土俵で戦っていたとは到底思えなかった。
先場所、自分が放った「三日月」が横綱に一矢報いたことなど、まるで遠い昔の子供の遊びのようだった。
アナスタシアの全てを粉砕する絶対的な『ツンドラ・インパクト』。
そして、それを己の感情の全てを爆発させてねじ伏せた貴和子の『大一番・寄り切り絶頂』。
どちらも今の自分では到底受け止めることすらできない。
(私に、あんな戦いができるんだろうか…)
地獄の修行を経て、確かに強くなったはずだった。
自分の体と向き合い、技を磨き、心を鍛えた。
だが、あの二人の戦いは、そんな自分の成長など矮小なものに思わせてしまうほど次元が違っていた。
知らず知らずのうちに、咲の体はその圧倒的な“格の違い”に気圧されていた。
「…東、前頭三枚目、十六夜咲!」
呼び出しの声にハッと我に返る。
そうだ、今は感心している場合じゃない。自分の二回戦が始まるのだ。
咲は重い足取りで花道へと向かった。
先程までの自信に満ちた心はどこかへ消え失せていた。代わりに、心臓を鷲掴みにされるような不安と焦りがその胸に渦巻いている。
対するは、西の前頭四枚目、鬼龍院 麗(きりゅういん うらら)。
腰に巻いたまわしに薔薇の刺繍を施した、宝塚の男役のような麗しい力士だ。彼女の相撲は、相手をうっとりさせるような華麗で流れるような腰つきから、予測不能なタイミングで鋭い一撃を繰り出す幻惑スタイル。
「麗様ー!」と、客席からは女性ファンたちの黄色い声援が飛んでいる。
「はっけよい、のこった!」
試合開始。
だが、咲の動きは明らかに硬かった。
(ダメだ…体が重い…)
鬼龍院の幻惑するような腰の動きに全くついていけない。先程までの女王たちの戦いが、残像のように脳裏に焼き付き、自分の動きを、自分の相撲を見失わせていた。
絶頂川アナ:「お、おい、どうしたんだ十六夜! 動きがまるで初日の時の輝きがないぞ! 鬼龍院の幻惑殺法に完全に翻弄されている!」
天知:「…これが“格”というものかもしれませんね。あまりにもレベルの高い戦いを見た後では、自分の力が、自分の戦うべき場所が分からなくなってしまう。今の十六夜関は迷子のようです。このままではまずい」
鬼龍院は咲の動揺を見逃さなかった。
「…どうかなさいまして? 天上人の戦いに怖気づいてしまいましたの?」
その挑発するような囁きと共に、鬼龍院の腰がこれまでで最も鋭く、そして優雅に咲の懐へと突き刺さる。
必殺の、『薔薇の棘(ローズ・ウィップ)』だ。
「くっ…!」
咲はなすすべもなく土俵際へと追い詰められる。
(ああ…私、このまま…負けるんだ…)
諦めの感情が心を支配しようとしたその時だった。
「咲ィ! 何を信じるんだい、お前さんは!」
客席から、師匠である撫子の雷のような声が飛んできた。
その声と同時に、別の方向から野太い、しかしどこか聞き覚えのある声援が咲の耳に届いた。
「そうだぞ、十六夜! お前の相撲は見てて気持ちいいんだよ! 難しく考えるな! もっと自分勝手に気持ちよくなれや!」
声の主は肉屋の店主だった。彼の隣で八百屋の親父も魚屋のおかみさんも、商店街の仲間たちが皆、声を枯らして咲に声援を送っていた。
(私の…相撲…?)
そうだ。私は何のために戦ってるんだっけ。
横綱に勝つため? 世界のレベルに追いつくため?
違う。
違うだろ、十六夜咲。
私が、あの地獄の修行で本当に手に入れたかったものは。
(…気持ちよく、なりたいんだ)
勝敗とか技術とか、そんなものじゃない。
相手を、自分の体で、自分の心で受け止めて。
そして一緒に、ぐちゃぐちゃになるまで気持ちよくなりたい。
ただそれだけじゃなかったのか。
ふっ、と咲の肩から力が抜けた。
迷いが消えた。
鬼龍院の『薔薇の棘』が、とどめを刺そうと咲の体に深く突き刺さる。
だが、その瞬間、咲は笑っていた。
そして、その攻撃を避けるのでも、受け止めるのでもなく、まるで愛しい恋人を受け入れるかのように、その体で優しく、そして深く“喰らった”のだ。
鬼龍院麗の必殺技『薔薇の棘(ローズ・ウィップ)』が、十六夜咲の体に深く突き刺さる。
だが、咲の表情に苦痛や焦りの色はなかった。
むしろ、その口元には穏やかな慈愛に満ちた笑みさえ浮かんでいた。
彼女は、鬼龍院の攻撃を、その威力も込められた闘志も痛みさえも、その全てをまるで極上のディナーを味わうかのように、全身で深く、そしてゆっくりと受け入れたのだ。
「なっ…!?」
攻撃を仕掛けたはずの鬼龍院が、驚愕に目を見開く。自分の力が、相手にダメージを与えるのではなく、まるで乾いた大地に吸い込まれる水のように、ただ吸い取られていく。いや、違う。吸い取られるだけじゃない。自分の力が、相手の中で、何かとてつもなく大きなエネルギーへと変換されていくのが、肌を通して伝わってくる。
絶頂川アナ:「な、な、な、なんだこれはァ!? 十六夜が笑っている! 鬼龍院の必殺技をその身に受けながら、恍惚の表情で笑っているぞ! 彼女の体の中で、一体何が起きているんだーっ!?」
咲の体の中で渦が巻いていた。
鬼龍院から受け取った全ての力。観客からの全ての声援。そして、自分の中から湧き上がる、ただ「気持ちよくなりたい」という純粋な欲望。その全てを燃料にして、彼女の下腹部、その中心で巨大な快感の“渦”が生まれようとしていた。
ふっ、と咲の腰が動き始める。
それはこれまでのどの力士とも違う異質な動きだった。
腰が、まるで台風の目のように高速で、しかし滑らかに回転を始めたのだ。
天知:「…これは…。今までのどの決まり手のデータにも該当しない…。『三日月』が相手を斬り裂く“刃”だったとすれば、これは相手を飲み込み、引きずり込む“渦”…。彼女は、この土壇場で新しい境地を自力でこじ開けたというのか…!」
鬼龍院はもはや自分の体を自分でコントロールすることができなかった。
咲の腰が生み出す抗いがたい快感の渦に、その体が魂ごと引きずり込まれていく。目が回り、思考は麻痺し、ただ目の前で微笑む咲の顔が世界の全てになる。まるで巨大な渦潮に飲み込まれた小舟のように、ただその流れに身を任せるしかない。
新・決まり手:『渦潮(うずしお)』
「あ…、ああ…、あああああああああああああああんっ!」
鬼龍院の体から、もはや勝敗などどうでもよくなった、幸福で満ち足りた絶頂の声が響き渡った。
勝負あり。
咲は相手を打ち負かしたのではない。「共に気持ちよくなる」ことで、相手の戦意をその快感の渦の中へと溶かしてしまったのだ。
絶頂川アナ:「かったァァァ! 十六夜咲、逆転勝利ィ! しかし、なんだ今の決まり手は! 相手を倒すのではなく、共に天へと昇るかのような、あまりにも多幸感に満ちた新しい相撲の形だァ!」
そして、始まる『子種拝領の儀』。
土俵の中央に、勝者として横たわる咲の顔には、もう先場所までの不安や羞恥の色はなかった。
そこにあるのは、自分の相撲を見つけ出した自信と喜びに満ちた晴れやかな笑顔だった。
行司の月詠愁がその傍らにひざまずく。
愁のその憂いを帯びた瞳が、今日の咲のその輝くような笑顔に、少しだけ見とれているように見えた。
二人の体が重なる。
咲はもうただ快感を“受ける”だけではなかった。
自らの腰を愁の動きに呼応させ、共に快感の『渦潮』を創り出したのだ。
二人の体は、もはや勝者と褒美の道具ではない。ただ一組の男と女として、互いの快感を求め合い、高め合い、そして一つの大きな喜びの渦となって溶け合っていく。
「んっ…、ふふっ…、あ、ぁん…、愁、さん…っ」
「…咲、ちゃん…」
愁の唇から、初めてその役職を忘れたかのような甘い声が漏れる。
二人の絶頂は完璧に重なった。
それはもはや儀式ではなかった。
ただ幸福な愛の交歓だった。
天知:「…見事だ。彼女は、マンコ相撲の戦い方だけでなく、その儀式の意味すらも変えてしまったのかもしれない。“授かる”のではなく、“分かち合う”。十六夜咲という力士は、この国技の新しい扉を開く本当の革命家になるやもしれませんね…」
儀式を終え、立ち上がった咲の姿は、神々しいほどに輝いていた。
その光景をモニターで見ていた者たちがいた。
龍炎寺貴和子は、その眉をわずかにひそめる。
(…あの輝きは、私にはないもの。執念やプライドではない、純粋な“喜び”から生まれる強さ…厄介なこと)
アナスタシア・イヴァノワは、その碧眼で冷静にデータを取る。
(…非効率。しかし、結果として相手を無力化している。変数“喜び”が戦闘力に与える影響について、再計算の必要あり)
そして、奈落の毒婦、毒島りんは、その画面を心底不愉快そうに舌打ちしながら見ていた。
(…ちゃんちゃらおかしいわ。一緒に気持ちよくなる、ですって? 反吐が出る。相撲は、相手を一方的にぐちゃぐちゃに壊してこそ楽しいんじゃないの)
十六夜咲が見つけ出した新しい“光”。
それはあまりにも強く、そしてあまりにも異質であるが故に、土俵に渦巻く様々な“影”をより一層色濃くしていくのだった。