トーナメントは波乱含みながらも順調に駒を進めていた。
十六夜咲は、あの『渦潮』開眼以降、その勢いは止まるところを知らない。対戦相手を次々とその幸福な快感の渦へと飲み込み、勝ち星を重ねていた。
龍炎寺貴和子、アナスタシア・イヴァノワ、そして毒島りんもまた、それぞれのスタイルで順当に勝ち進んでいる。
そして、運命のトーナメント準々決勝。
ついにその対戦カードが決定した。
【東・前頭三枚目 十六夜 咲 vs 西・小結 毒島 りん】
その組み合わせが発表された瞬間、両国国技館は期待と、そしてそれ以上に不吉な予感に満ちた異様な興奮に包まれた。
光と影。
純粋と悪意。
聖女と毒婦。
誰もがこの宿命の対決を待ち望んでいた。
その日の取り組みを終え、咲が支度部屋への廊下を歩いていると、不意に背後から声をかけられた。
「…ちょっと、いいかしら。十六夜 咲」
振り返ると、そこにいたのは週刊文寸の記者、“ゴシップお涼”だった。そのハイエナのような鋭い目は、いつものように獲物を品定めするように咲の全身を舐め回している。
「あ、あなたは…」
「心配しないで。今日はあんたのスキャンダルを暴きに来たんじゃない。…忠告よ」
お涼は周囲を素早く見回すと、声を潜めて咲に近づいた。
「次の相手、毒島りん。あいつはあんたがこれまで戦ってきた力士とは全く違う生き物だと思った方がいい」
「…どういう意味ですか?」
「あいつは腰で戦わない。言葉で魂を殺しに来る。あんたの一番綺麗な部分を、一番汚いやり方でめちゃくちゃに壊しに来るのよ」
お涼の言葉は真剣だった。いつものゴシップを追いかける軽薄さはない。
「あいつのバックには協会のかなり黒い連中がついている。あんたのことも、あんたの師匠…十六夜撫子の過去も全て調べ上げているはずよ。気をつけて。土俵に上がる前から戦いは始まっていると思いなさい」
それだけを言うと、お涼はハイヒールの音を響かせ、雑踏の中へと消えていった。
咲はその場に立ち尽くしていた。
(おばあちゃんの過去…?)
胸騒ぎがした。だが、今の自分には師匠との間に揺るぎない絆がある。どんなことを聞かされても揺らぐことはないと、そう信じていた。
その純粋さが、彼女の最大の強みであり、そして最大の弱点であることを、咲はまだ知らなかった。
【その頃:都内某所の高級ホテル・スイートルーム】
毒島りんは、キングサイズのベッドの上で優雅に脚を組みながらタブレットの画面を眺めていた。
その画面には、咲に関する膨大な量のデータが表示されている。生年月日、血液型、スリーサイズといった基本情報から、過去の試合データ、果ては小学校時代の卒業文集に至るまで。
「…ふーん。『将来の夢は、優しいお母さんになることです』、か。反吐が出るほどベタねぇ」
りんは嘲るように笑うと、画面をスワイプする。
彼女の前に一人の男が深々と頭を下げて立っていた。龍炎寺部屋の若い力士の一人だ。だが、その目は横綱への忠誠心ではなく、嫉妬と、そしてりんへの恐怖に染まっている。
「…毒島様。お言いつけの通り、十六夜撫子の過去について、部屋の古株から探りを入れてまいりました」
「ご苦労様。で、何か面白い話は聞けたかしら?」
「は、はい…。なんでも、三十年前の『天下一番相撲会』の決勝で、撫子は当時の龍炎寺部屋の横綱を再起不能に追い込んだ、と…。その時に使った“禁じ手”が、あまりにも非道だったため、協会を追放された、と…」
「禁じ手…ねぇ」
りんの目が妖しく光る。
「もっと面白い話はないの? 例えば…その“禁じ手”が原因で、撫子が何か大事なものを失った、とか。男とか、愛とか…そういう女々しい話」
男はごくりと唾を飲むと、さらに声を潜めた。
「…そ、それが…。一つだけ奇妙な噂が。その決勝戦の後、撫子と、当時婚約までしていたという一人の男が、謎の失踪を遂げている、と…」
「……!」
その言葉に、りんの口元が三日月のように歪んだ。
完璧だ。
完璧な“毒”の材料が揃った。
純粋な孫娘が、最も尊敬し、最も信頼する師匠の、決して知られたくない汚れた過去。そして、その過去の男の影。
これをどう調理すれば、あのシンデレラの心を最も効果的に木っ端微塵にできるか。
りんはタブレットの電源を落とすと、男に冷たく言い放った。
「もういいわ。ご苦労様。下がってちょうだい」
「は、はい!」
男が慌てて部屋を出ていく。
一人になった部屋で、りんはこれから始まる“本当の戦い”に思いを馳せていた。
そう、戦いはもう始まっているのだ。
土俵に上がる前に、相手の心を折る。それが毒島りんのマンコ相撲。
彼女は一枚の便箋と万年筆を取り出した。
そして、これからあの純粋な少女の心に送り込む、悪意に満ちた“罠”の言葉を一つ一つ丁寧ににしたため始める。
その表情は、まるで恋文を書く乙女のようにうっとりと恍惚に満ちていた。
準々決勝、対・毒島りん戦を翌日に控えた夜。
十六夜部屋の空気は、心地よい緊張感と確かな自信に満ちていた。咲は師匠である撫子との最後の稽古を終え、その体の仕上がり具合にこれまでにないほどの手応えを感じていた。
ゴシップ記者お涼の忠告は、確かに心の片隅にあった。だが、今の自分と、おばあちゃんとの絆はどんな言葉をもってしても揺らぐことはない。そう固く信じていた。
夕食を終え、明日の戦いに向けて精神を集中させようとしていた、その時だった。
「…咲や。あんた宛に手紙が届いてるよ」
撫子が咲に一通の封筒を差し出した。
差出人の名前はない。ただ美しく流麗な女文字で、「十六夜 咲 様」とだけ書かれている。上質な和紙を使った、まるで恋文のような上品な封筒だった。
「私に…? 誰からだろう」
ファンレターだろうか。咲は少しだけ頬を緩ませながらその封を開けた。
中には数枚の便箋。そこには、封筒と同じ美しくも、どこか蛇のようにねっとりとした筆跡で言葉が綴られていた。
拝啓 十六夜 咲 様
突然のお手紙、失礼いたします。わたくし、あなたと同じくマンコ相撲を愛する一人の力士と、お見知りおきください。
あなたの、あの『渦潮』。テレビで拝見いたしました。なんて純粋で、なんて素晴らしい技なのでしょう。わたくし、あなたの相撲に心から感動いたしました。
だからこそ、心配なのです。あなたのそのあまりにも純粋な魂が、穢されてしまわないかと。
あなたは、師匠である十六夜撫子様のことを心から尊敬していらっしゃるのですね。そのお気持ち、痛いほどお察しいたします。
ですが、咲様。あなたはご存じなのでしょうか。あなたの師匠が、なぜあれほどの強さを持ちながら、若くして土俵を去らなければならなかったのか。その本当の理由を。
わたくし、古い文献を調べる機会がございまして、三十年前のある試合の記録を見つけてしまいました。
あなたの師匠、撫子様が、龍炎寺部屋の先代様を再起不能に追い込んだという、あの伝説の決勝戦のあまりにも詳細な記録を。
そこに記されていた禁じ手『八岐大蛇(やまたのおろち)』。それは、ただ相手を絶頂させる技ではありませんでした。
八つに分かれた潮の奔流は、それぞれが相手の精神を破壊するための“毒”を仕込まれていた、と。快感、悲哀、怒り、恐怖…。八つの矛盾した感情を、同時に強制的に脳へと流し込み、相手の魂を内側からめちゃくちゃに引き裂く悪魔の技だったそうです。
龍炎寺の先代様は、その日を境に心が壊れ、二度と笑うことができなくなった、と…。
咲の手が微かに震え始める。
(おばあちゃんが…そんなひどいことを…)
だが、本当の“毒”はその先にあった。
…ですが、本当に恐ろしいのはここからなのです、咲様。
その試合を客席で一人の男性が見つめていました。撫子様の当時の婚約者。あなたが一度も会ったことのない、あなたのお祖父様です。
彼はその日、愛する人のあまりにもおぞましい“本性”を見てしまった。人を快感で壊すことを何とも思わない怪物の姿を。
そして、彼は恐ろしくなったのです。この女に抱かれ、子を成すことが。この女の、怪物の遺伝子を受け継ぐ子供が生まれてくることが。
試合の翌日。彼は撫子様の前から黙って姿を消したそうです。永遠に。
お分かりになりますか、咲様。
あなたの師匠は、その禁じ手の代償に愛する男を永遠に失ったのです。
あなたの『渦潮』は、とてもあなたの師匠の技に似ている。そうは思いませんか?
彼女は、あなたを本当にただの力士として育てているのでしょうか。
それとも、三十年前に失った“男”の幻影をあなたに重ね、あなたを自分と同じ“怪物”に仕立て上げることで、その過去をやり直そうとしているのではないでしょうか。
あなたは本当に十六夜咲、ですか?
それとも、ただの十六夜撫子の思い出のための代用品なのでしょうか…?
あなたの清らかな魂が曇らぬことを心よりお祈り申し上げております。
一人のファンより
ひらり、と。
便箋が咲の震える手から滑り落ちた。
全身の血が急速に冷えていく。ついさっきまで下腹部の奥で確かに感じていた“熱”が、跡形もなく消え失せていた。
部屋の空気が急に冷たく重くなった気がした。
「…咲? どうしたんだい、その手紙は」
咲の異変に気づいた撫子が心配そうに声をかける。
だが、咲はもう祖母の顔をまともに見ることができなかった。
(おばあちゃんは…あたしを…?)
信じたくない。
こんな悪意に満ちた手紙を信じたくなんてない。
でも。
ゴシップお涼のあの忠告が脳裏に蘇る。
(…あんたの師匠の過去も全て調べ上げているはずよ)
あまりにも具体的すぎる過去の話。禁じ手の名前。そして、会ったこともない祖父の存在。
「…なんでもない」
咲はかろうじてそう声を絞り出すと、手紙を拾い上げることもせず、よろめくように自室へと駆け込んだ。
バタン、と乱暴に閉められた襖の音。
一人、居間に残された撫子は、床に落ちた便箋をゆっくりと拾い上げた。
そしてその内容に目を通した瞬間。
撫子のいつもは穏やかなその顔から、すっと全ての表情が消えた。
ただ、その瞳の奥に、三十年間封じ込めてきた深く、深い怒りと哀しみの炎が静かに燃え上がっていた。
その夜、咲は一睡もできなかった。
目を閉じれば、手紙のあの美しい文字が脳裏でダンスを踊る。
祖母との地獄の修行の日々が全て歪んで見えた。
あの励ましの言葉は本当だったのか。
あの優しさは本物だったのか。
それとも、全てはあたしを“代用品”にするための演技だったのか。
準々決勝の朝日はやがて昇る。
だが、十六夜咲の心はもはや光の差さない、冷たく暗い夜の中へと完全に沈んでしまっていた。