夜が明けた。
だが、十六夜咲の心には一筋の光も差さなかった。
一睡もできずに迎えた朝。布団の中で何度も寝返りを打ったが、悪夢のような手紙の言葉が亡霊のように頭の中を支配していた。
『あなたは、ただの十六夜撫子の思い出のための代用品』
その一文が、彼女の心をずたずたに引き裂いていた。
これまでの全てが嘘だったのかもしれない。
地獄の特訓も、師匠の厳しい叱咤も、優しい眼差しも、全ては失った男を取り戻すための祖母の自己満足だったのかもしれない。
私という存在を通して、おばあちゃんは誰を見ていたの…?
重い体を引きずり、居間へと向かう。
そこにはいつもと変わらない朝の光景があった。ちゃぶ台の上には炊きたてのご飯と味噌汁の湯気が立ち上っている。
そして、咲の席にはいつもより少しだけ分厚い、黄金色に輝く甘い、甘いだし巻き卵が置かれていた。
咲の大好物だった。
「…おはよう、咲」
背後から祖母の撫子の声がした。その声色もいつもと何も変わらない。
咲は振り返ることができなかった。
昨夜、自分が、あの手紙を読んだことをおばあちゃんは知っているはずだ。なのに、なぜ何も言わないのだろう。なぜいつも通りに自分の好物を用意したりするのだろう。
その変わらない優しさが、今の咲には何よりも残酷な“毒”のように感じられた。
(もし本当にあたしを代用品だと思っているのなら…どうしてそんなに優しくするの…?)
分からなかった。何もかもが分からなくなっていた。
「…いただきます」
かろうじてそう声を絞り出すと、咲は箸を取った。
甘いだし巻き卵を口に運ぶ。
子供の頃から大好きだった優しい味。だが今、その甘さはまるで心を蝕む甘い毒のように、舌に、体に染み渡っていく。
味がしない。
美味しいのか不味いのかも分からない。ただ砂を噛むように無心でそれを胃の中へと流し込んだ。
国技館へと向かう電車の中。
二人の間に会話はなかった。
咲は窓の外を流れる景色をただぼんやりと眺めている。撫子は目を閉じ静かに座っている。
その沈黙が咲の心をさらに締め付けた。
怒ってくれればいいのに。罵ってくれればいいのに。そうすればいっそ楽になれるのに。
この嵐の前の静けさのような沈黙は、まるでゆっくりと真綿で首を絞められるような息苦しさだけを咲に与えていた。
両国国技館に着く。
いつもなら胸を高鳴らせるはずのファンの歓声。それが今日はまるで遠い世界の出来事のように聞こえる。
咲はまるで自分の体から魂だけが抜け落ちてしまったかのような幽霊のような足取りで、自分の支度部屋へと向かった。
鏡に映る自分の顔は青白く、生気がなく、まるで死人のようだった。
(あたしは、これから何のために戦うの…?)
答えはどこにもなかった。
ただ時間だけが刻一刻と、彼女が悪意の待つあの土俵へと上がる時間を告げていた。
両国国技館
「東、前頭三枚目、十六夜 咲!」
呼び出しの声と共に、咲が花道へと姿を現す。
割れんばかりの大歓声が彼女の名を呼ぶ。その腰には、地元商店街と友人たちの愛が詰まった、あの筋肉マグロとフリルレースの化粧まわしが誇らしげに巻かれている。
だが、その化粧まわしを身に着けた主は、まるで葬列にでも加わるかのようにうつむき、その顔には一切の光がなかった。
絶頂川アナ:「さあ、やってまいりました準々決勝! 我らがシンデレラ、十六夜咲の登場です! …しかし、んん? どうしたことでしょう、天知さん。今日の十六夜関、いつもの、あの肌の内側から発光するような“瑞々しさ”が全く感じられません!」
解説席の天知は、その端正な眉を深刻そうにひそめていた。彼の前にあるモニターには、土俵周辺に設置された超高感度の湿度・フェロモンセンサーのデータが表示されている。
天知:「…これは由々しき事態です。力士の“濡れ”は単なる肉体現象ではありません。その精神状態、闘志の有り様を最も正確に示す生体指標(バイオマーカー)です。ご覧ください。十六夜関の周辺湿度、及びフェロモン放出量が、これまでの試合の平均値の15%以下にまで落ち込んでいる。彼女は今、心身ともに完全に…」
天知は言葉を選び、そして非情な宣告を下した。
「“乾ききっている”状態です。これでは本来の力は到底発揮できません」
その言葉を裏付けるように、土俵入りのために化粧まわしを外した咲の下半身は、いつもと違い、潤いを失い、どこかかさついてさえ見えた。
対する毒島りんは、そんな咲の姿を花道の向こうから舌なめずりをしながら見つめている。自分が仕掛けた毒が、相手の体の芯まで完全に回りきっていることを確信していた。
やがて、りんも土俵へと上がる。
二人の力士が仕切り線の上で向かい合う。
りんは、その蛇のような目で咲の光を失った瞳を楽しそうに覗き込む。咲は、その視線から逃れるように俯くことしかできない。
仕切り直しが二度、三度と繰り返される。
りんは、わざと時間をかけているのだ。咲の心が、観衆の視線とこの重圧の中で完全に壊れていく様をじっくりと味わうために。
そして、運命の四度目の仕切り。
二人の顔が触れ合うかのような至近距離で対峙する。
りんの甘く、そして毒に満ちた囁き声が咲の耳にだけ届いた。
「…おばあ様、あなたのこと、本当に大事に育ててくれたのねぇ」
「……!」
「自分が愛する男にしてもらえなかったことを、全部あなたにしてあげてる。…まるで失った恋人の“代わり”みたいに、ね」
その言葉が、咲の心の最後の傷口を容赦なく抉る。
そして、りんはとどめを刺した。
世界で最も残酷で下品で、そして的確なたった一言で。
「ねえ、知ってる? 昔の男の“思い出”でマスターベーションするための道具のこと、なんて言うか」
りんの唇が三日月のように歪む。
「お前はただの、“思い出オナホ”だよ」
その言葉が咲の鼓膜を突き破った瞬間。
咲の心の世界が完全に砕け散った。
音も色も匂いも全てが消え失せ、ただ真っ白な無音の空間が広がる。
目の前にいるりんの顔もぼやけて見えない。
何も考えられない。
何も感じない。
あたしは誰?
あたしは何?
その永遠にも思える無音の静寂を切り裂いたのは。
行司、月詠愁の無情な声だった。
「はっけよい、のこった!」
その声は、まるで世界の果てから聞こえてくるかのように遠く、そして他人事のように咲の耳をただ通り過ぎていった。