勝負は決した。
両国国技館は、奇跡の逆転劇を成し遂げた十六夜咲への割れんばかりの喝采に包まれている。
だが、その熱狂の渦の中心で、敗れ去った毒島りんはただ呆然と土俵の上に座り込んでいた。
(…なんだったの、今のは…)
体に力が入らない。
だが、それは敗北のショックからではなかった。
自分の体を、今もなお内側から蝕んでいる未知の感覚。
これまで自分が相手に与えるだけだった“快感”。しかし、咲から与えられたそれは、りんが知るものとは全くの別物だった。
支配でも、凌辱でも、破壊でもない。
ただひたすらに温かく、全てを包み込み、そして自分と相手の境界線すら溶かしてしまうかのような、共有する幸福な快感。
そのあまりにも純粋な“光”を前にして、自分が、いかに醜く歪んでいたのかを見せつけられた気がした。
りんの脳裏に、忘れていた、忘れたふりをしていた過去の記憶が濁流のように蘇ってくる。
(回想)
薄暗い地下の闘技場。まだ十代だった頃のりん。
彼女の師匠だった女は、歪んだ笑みを浮かべ、りんの体を嬲りながらこう教えた。
『いいかい、りん。マンコ相撲で勝つコツを教えてあげる。相手をただイかせちゃダメさ。相手が、自分の体から生まれる快感そのものに嫌悪感を抱くように、汚し、壊し、そして絶頂させるんだよ。快感は武器だ。愛なんかじゃない。相手を支配するための道具なのさ』
歪んだ師匠からの歪んだ教え。
それが、りんのマンコ相撲の全てだった。
愛を信じれば裏切られる。
優しさを見せれば喰われる。
この奈落で生き抜くためには、誰よりも強く、誰よりも残酷になるしかなかった。
一度だけ心を許しかけた仲間がいた。だが、その仲間は金のためにあっさとりんを裏切った。りんがその仲間にだけ教えた体の“弱点”を対戦相手に売り渡したのだ。
その日以来、りんは誰も信じないと心に誓った。
自分のサディズムは、傷つきすぎた脆い魂を守るための哀しい、哀しい鎧だったのだ。
「…っ、う…」
りんはよろめくように立ち上がると、勝者への歓声と敗者への罵声をその背中に浴びながら、花道を引き上げていく。
いつもならその罵声すら快感だったはずなのに。
今はただ空虚に響くだけだった。
支度部屋に一人。
鏡の前に立ったりんは、そこに映る自分の顔を見て愕然とした。
いつもの自信と悪意に満ちた“毒婦”の顔はどこにもない。
ただ、迷子のように怯え、混乱しきった一人の哀れな“女”がそこにいるだけだった。
「…なんなのよ…」
あの十六夜咲という女は。
なぜあたしの毒が効かなかった?
なぜあの渦はあたしを傷つけなかった?
なぜあんな…あんな、わけのわからない“幸福”であたしを満たしたの…?
分からない。
分からない。
分からない!
りんの完璧に作り上げられた“鎧”がガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
その剥き出しになった傷だらけの脆い魂が悲鳴を上げる。
「…う…、うわああああああああああああああああんっ!」
毒島りんはその場に崩れ落ちた。
そして子供のように声を上げてただ泣きじゃくった。
それは何年ぶりか、もはや思い出すこともできない涙だった。
十六夜咲は、月詠愁とのあまりにも優しく、そして神聖な『子種拝領の儀』を終え、ゆっくりとその身を起こした。
絶望の淵から這い上がり、魂を再生させた彼女の体は、疲労困憊のはずなのに不思議なほどの生命力に満ち溢れていた。
勝利の余韻に浸る観客たちの割れんばかりの歓声が心地よく耳に響く。
だが、咲の心はその歓声の中心にはなかった。
彼女の脳裏に焼き付いて離れないのは、敗れ去った毒島りんの最後の顔。
憎悪でも、屈辱でもない。ただ未知の生物に遭遇したかのような純粋な困惑と驚愕に満ちた、あの迷子の子供のような顔だった。
(…あの人は、今…)
咲は、気づけば足が自然と西の花道へと向かっていた。
協会の役員が「勝者は、こちらです!」と制止しようとするが、咲は静かに、しかし力強く首を横に振った。
「…行かなきゃ、いけないんです」
毒島りんの支度部屋のその扉の前で、咲は立ち尽くしていた。
中から聞こえてくるのは、この世の終わりのような嗚咽。
獣のように喉を震わせ、全てを吐き出すかのような慟哭。
咲は静かにその扉を開けた。
そこにいたのは、もはや“奈落の毒婦”ではなかった。
ただ、豪華な支度部屋の床に膝を抱えてうずくまり、子供のように声を上げて泣きじゃくる一人の傷だらけの哀れな女の姿だった。
「…!」
りんが咲の存在に気づき、ハッと顔を上げる。その蛇のような瞳は、涙でぐしょぐしょに濡れ、憎悪と恐怖と、そして羞恥にぐちゃぐちゃに歪んでいた。
「…な、なにしに来たのよ…。あたしを笑いに来たのかい…? この、化け物…!」
りんが威嚇するように牙を剥く。
だが、咲はその言葉に少しも怯まなかった。
ただ静かにりんを見つめ、そしてゆっくりとその唇を開いた。
「ううん」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「ただ、あなたの相撲はとても悲しいと思ったから」
「…は…?」
りんの思考が止まる。
咲はゆっくりと言葉を続けた。
「あなたの腰が、あたしに触れた時…。あたし、感じたんだ。すごくたくさんの痛みと、たくさんの孤独を」
「……」
「あなたは、あたしを傷つけようとしていたけど、本当は、あなた自身がもっとずっと傷ついていた。叫んでるみたいだった。誰かあたしを止めて、って。誰かあたしをこの地獄から助け出して、って」
りんの目が見開かれる。
違う。そんなはずはない。あたしは強い。あたしは誰にも負けない。そのために心を殺してきたんだ。
なのに。
なぜこの女は、あたしの誰にも見せたことのない魂の“鎧”の、その奥の傷だらけの“素肌”をいとも簡単に見抜いてしまうんだ。
「だから…」
咲はそっとりんの前にしゃがみ込んだ。
そして、その手を差し伸べる。
「もしよかったら。あたしのおばあちゃんが作るだし巻き卵、すごく美味しいんだよ。今度一緒に食べないかな…って」
それは、勝利者から敗者への憐れみではなかった。
ただ一人の傷ついた人間が、もう一人の傷ついた人間に差し伸べる、あまりにも不器用で、あまりにも温かい救いの手だった。
りんはその手に触れることができなかった。
ただ差し伸べられたその、自分を打ち負かしたその温かい手を、涙に濡れた瞳で見つめることしかできなかった。
咲は静かにりんの部屋を後にした。
そして自分の支度部屋へと戻る。
その入り口で、一人静かに彼女の帰りを待っていた人物がいた。
祖母、撫子だった。
咲は何も言わなかった。
撫子も何も聞かなかった。
ただ、咲は駆け寄ると、その小さく、しかし誰よりも大きく感じられる祖母の体にその顔をうずめた。
しゃくりあげながら、嗚咽を漏らしながら、かろうじて一言だけその想いを伝える。
「おばあちゃん…。相撲を教えてくれて…、ありがとう…っ!」
その言葉に全ての想いが詰まっていた。
疑って、ごめんなさい。
信じています。
おばあちゃんの哀しみも苦しみも、あたしが全部受け止めるから。
ありがとう。
ありがとう。
撫子は、そんな孫娘の頭を、その皺の刻まれた温かい手でただ優しく、優しく撫でていた。
「…ああ」
そのたった一言だけを発し、あとはただ静かに孫娘の再生の涙を受け止め続けた。
毒婦が仕掛けた悪意に満ちた毒は、二人のあまりにも深く、そして強い絆の前で完全に浄化され、消え失せていた。
もはや二人の間に言葉は必要なかった。
土俵の外で、もう一つの長く、そして苦しい戦いが終わった。
毒は薬となり、傷は絆となった。
シンデレラはただの勝者ではない。敗者の痛みを知り、そして人を赦すことを知った本物の“強者”へと、また一つその階段を上ったのだった。