両国国技館は、いまだ先程の十六夜咲と毒島りんの一戦が残した凄まじい熱量と、感動と、そして一抹の禁忌的な興奮に包まれていた。観客たちは、誰もがあの壮絶な戦いの反芻(はんすう)をやめられない。
絶頂川アナ:「…いやあ、天知さん。とんでもない一番を見てしまいました…。純粋な生命力が悪意の毒を飲み込む瞬間…。マンコ相撲の新しい可能性の扉が開いた、そんな気さえします…!」
天知:「ええ。ですが、感傷に浸っている場合ではありませんよ、絶頂川さん。次の取り組みが始まります。準決勝のもう一つの山。…女王の土俵入りです」
天知の言葉に、観客たちはハッと我に返る。
そうだ、まだ終わっていない。この場所に君臨する絶対的な太陽が、これからその姿を現すのだ。
東の花道から、その女、龍炎寺貴和子が静かに姿を現す。
割れんばかりの歓声。だが、今日の彼女はどこか様子が違っていた。
貴和子は、己の支度部屋で静かにその身に纏わりつく“疲労”と戦っていた。
アナスタシアとのあの死闘。肉体の限界を超えて、ただ“執念”だけで掴み取った勝利の代償は、貴和子の完璧な肉体を内側から深く蝕んでいた。
腰にまだ鈍い痛みが残っている。体の芯にいつものような力がみなぎってこない。
(…少し、休みすぎたかしら)
先程の、咲とリンの戦いを彼女はモニターで見ていた。
そのあまりにも生々しく、あまりにも未熟で、しかしあまりにも強烈な魂のぶつかり合い。
それは、常に完璧で、常に“横綱”であることを自らに課してきた貴和子にとって、どこか眩しく、そして少しだけ苛立たしい光景でもあった。
「東、関脇、霧島カレン!」
「西、横綱、龍炎寺貴和子!」
対するは、関脇・霧島カレン。番付第三位の実力者だ。
彼女は派手な決まり手こそ持たないが、その無尽蔵のスタミナと、相手にねっとりと絡みつき、じわじわと体力を奪い尽くすその粘り強い相撲は、上位陣から最も“戦いたくない相手”として恐れられていた。
今の疲弊した貴和子にとって、まさに最悪の相手だった。
「はっけよい、のこった!」
試合開始。
貴和子は短期決戦を狙い、序盤から重い腰つきで霧島を押し込もうとする。
だが、霧島はまるで、するりとのれんをくぐるようにその攻撃をいなすと、自らの得意な密着した体勢へと貴和子を引きずり込んだ。
決まり手:『蟻地獄固め(ありじごくがため)』
一度捕らえたら二度と離れない。
霧島の腰が、まるで蟻地獄の砂のように貴和子の腰にねっとりと絡みついてくる。
それは相手を絶頂させるための動きではない。ただひたすらに相手の体力を奪い、その気力を削り、じわじわと泥沼の敗北へと引きずり込むための、陰湿で、しかし極めて効果的な戦術だった。
絶頂川アナ:「ああっと! いきなり霧島、得意の形に持ち込んだ! 横綱の腰が完全に蟻地獄に捕らえられている!」
天知:「まずいですね。アナスタシア戦のダメージが、明らかに横綱の体のキレを奪っている。いつもの彼女ならば、この程度の密着はその圧倒的な“圧”で弾き飛ばせるはず。しかし、今日の横綱にはその“圧”が足りない…!」
貴和子の呼吸が少しずつ乱れていく。
体が重い。
思うように腰に力が入らない。
霧島の粘着質な腰の動きが、まるで体中のエネルギーを少しずつ、少しずつ吸い取っていくようだった。
(この…私が…こんな格下の地味なだけの女に…)
焦りが貴和子の冷静な心を蝕んでいく。
観客席からもどよめきが起きる。
誰もが感じていた。
女王の絶対的な支配が今、揺らいでいるのを。
霧島はその勝機を見逃さなかった。
「…横綱。あなたももう歳ですわね」
その残酷な囁きと共に、霧島の腰の圧がさらに強まる。
貴和子の完璧なバランスがついに崩れ始めた。
土俵際へとじり、じりと追い詰められていく。
女王、まさかの敗北か。
国技館の誰もが、そのありえない結末を予感し始めていた。
女王、土俵際に追い詰められる。
そのありえない光景に、両国国技館は水を打ったように静まり返っていた。
龍炎寺貴和子の完璧に整えられた呼吸が乱れている。その雪のように白い肌に玉の汗が浮かんでいる。
関脇・霧島カレンの執拗な『蟻地獄固め』が、確実に女王の体力を、その生命力そのものを削り取っていた。
(…ここまで、か)
貴和子の意識が朦朧とし始める。
アナスタシアとの死闘で負ったダメージは、想像以上に深かった。体が鉛のように重い。
霧島の「もう、歳ですわね」という残酷な囁きが脳に木霊する。
ああ、そうかもしれない。
時代の波、そして寄る年波には、この私ですら勝てないというのか。
敗北。
その二文字が、貴和子の絶対的なプライドに初めて暗い影を落とそうとした、その瞬間だった。
ふと、彼女の目に国技館の天井から吊るされた巨大なオーロラビジョンが映った。
そこには、今場所のハイライトとして、先程行われたばかりの、あの壮絶な一番がスローモーションで繰り返し再生されていた。
――十六夜 咲 vs 毒島 りん――
画面の中で、心が壊れ人形のようだった咲が、最後の最後でその瞳に生命の光を取り戻す。
毒婦の禁じられた牙に自ら喰らいつき、その毒を快感の渦へと変えていく。
二人の女が、憎悪と絶望と、そして生の歓喜にぐちゃぐちゃになりながら、土俵の上でその魂を解き放っている。
それは相撲の“技”というより、もっと生の根源的な、生き物としての叫びだった。
貴和子はそれを見ていた。
自分の神聖な、一点の曇りもなく磨き上げてきた、この土俵の上で。
(……これは、何?)
貴和子の疲弊しきった心の、その一番奥底で何かがプツリと切れた。
それは消耗した気力や体力の色ではない。
彼女をこれまでずっと縛り付けてきた、“完璧な女王であらねばならない”という理性の“枷”が切れた音だった。
(…なんという醜態)
その口元に冷たい、冷たい笑みが浮かぶ。
(傷を舐め合う負け犬の遠吠え。己の未熟さを感情の爆発で誤魔化す幼稚な猿芝居。そして観客どもは、そんな見世物に熱狂している…)
(この龍炎寺貴和子の土俵の上で…!)
(…小娘どもが、好き勝手しおって…!)
その瞬間、貴和子の全身からこれまでとは全く異質の凄まじいオーラが立ち上った。
それは、もはや闘志ではない。
ただひたすらに純粋な“怒り”と“プライド”の炎だった。
「ひっ!?」
貴和子にねっとりと絡みついていた霧島が、その変化を肌で感じ取り悲鳴を上げる。
今までしがみついていたはずの女王の腰が、まるで灼熱の溶鉱炉のようにその身を焼こうとしている。
絶頂川アナ:「な、なんだァ!? 横綱の、横綱のオーラが変わった! 疲弊していたはずのその体から、凄まじい圧が放出されている! これは怒りだ! 女王の逆鱗に触れたのだ!」
貴和子の瞳が開く。
その瞳は、もはや対戦相手の霧島など見てはいなかった。
その視線は、この土俵で好き勝手に“青春”を謳歌したあの生意気な小娘たちへと向けられていた。
「…身の程をわきまえなさい。雑魚が」
地を這うような低い声。
そして貴和子は、もはや技を使うことすら放棄した。
ただその絶対的な“存在”そのもので、霧島の『蟻地獄固め』を内側から“破砕”したのだ。
天知:「信じられない…! 精神的な激昂を純粋な物理的パワーへと完全に転換させたというのか! 筋出力が、データの上でも平常時の30%以上跳ね上がっている! これが、これが“横綱”! 肉体の限界など、ただの“誇り”だけで超越してしまう、生物としての“格”の違いだ!」
蟻地獄からいとも簡単に脱出した貴和子は、もはや一瞬の猶予も与えない。
その怒りに燃える腰で、ただ前へ。
完璧な、あまりにも完璧な基本に忠実な『寄り切り』。
だが、その一撃の重さは、もはや先程までとは比べ物にならなかった。
霧島の体は、まるで巨大な壁に押し潰されるように、なすすべもなく土俵の外へと弾き飛ばされた。
勝負あり。
貴和子は荒い息をつきながらも、仁王立ちで土俵の中央に君臨する。
その姿は、疲弊した挑戦者ではなく、自らの領地を荒らした侵入者を完全に排除した絶対的な女王の姿だった。
絶頂川アナ:「かったァァァァァ! 横綱、龍炎寺貴和子! 土壇場からの圧巻の逆転勝利! これで決勝のカードが決定いたしましたァ!」
国技館のオーロラビジョンに、決勝戦の対戦カードが黄金の文字で映し出される。
【決勝戦:東・横綱 龍炎寺 貴和子 vs 西・前頭三枚目 十六夜 咲】
絶頂川アナ:「先場所の準決勝の再戦! 因縁の対決がついに決勝の舞台で実現します!」
天知:「…しかし。もはやこれは再戦などという生易しいものではない。女王は傷つき、そしてその誇りの炎を再燃させた。シンデレラは壊され、そして新しい生命へと再生した。全く別の生き物へと進化した二人の怪物が、今ここで雌雄を決するのです。…私のデータは、もはや何の役にも立ちません。これは予測不能な神話の戦いです」
国技館の熱狂が最高潮に達する。
全ての物語が今、一つの結末へと収束しようとしていた。