その日、両国国技館の空気は、もはやただの熱狂ではなかった。
一万五千の観客の視線は、これから始まるたった一つの取り組みに、祈るようにそして恋い焦がれるように注がれている。その視線の圧力だけで空間が歪むかのような神聖なまでの緊張感。
決勝戦。
そのあまりにも重い舞台に、二人の女神が舞い降りる。
東の花道から龍炎寺貴和子。
その身に纏うは、漆黒の地に金糸で翼を広げた国宝『鳳凰の化粧まわし』。だが、今日の彼女の表情に、いつものような絶対者としての孤独の色はない。ただ、これから始まる至高の戦いへの純粋な喜びに打ち震える一人の“挑戦者”の顔があった。
西の花道から十六夜咲。
その腰を彩るのは、地元商店街と友人たちの愛が詰まった、あのカオスで、しかし誇らしい『筋肉マグロとフリルレースの化粧まわし』。今日の彼女の表情にもはや気弱な少女の面影はない。ただ、最強の相手と魂の全てで語り合えることへの穏やかで澄み切った幸福感だけが浮かんでいた。
絶頂川アナ:「…ついにこの時がやってまいりました。先場所準決勝で女王がシンデレラをその力の差でねじ伏せた。あれから一月…。シンデレラは絶望の淵から新しい光をその身に宿した。女王は傷つき、そしてその誇りの炎を再燃させた。全く別の生き物へと生まれ変わった二人が今、この決勝という最高の舞台で再びまみえます!」
天知:「…ええ。もはや多くを語る必要はないでしょう。ただ我々はこれから起きる全ての瞬間をその目に焼き付けるだけです」
土俵の上で二人は向かい合う。
その距離数メートル。だが、その間には互いの魂から放たれる凄まじい気迫の火花がバチバチと音を立てて散っていた。
行司月詠愁がその中央に立つ。彼のいつもは憂いを帯びた瞳も、今日だけはこれから始まる神話の戦いを前に興奮に潤んでいた。
「はっけよい、のこった!」
ゴウッ!
だがそれはこれまでの試合のような正面からの激突ではなかった。
開始と同時に咲はその身を躍らせたのだ。
『渦潮』!
いきなりの必殺技。だがそれは相手を飲み込むための荒々しい渦ではない。
女王を自らの“世界”へと誘う、あまりにも優雅で、そして挑発的なダンスの誘いだった。
「…面白い!」
貴和子の口元に笑みが浮かぶ。
その誘いに女王は乗った。
咲の変幻自在の渦に貴和子は、その絶対的な経験と読みで完璧に対応していく。
咲が右に回れば貴和子も右に。
咲が吸い込もうとすれば貴和子は、その流れを逆に利用しいなす。
絶頂川アナ:「な、なんだこれは! 渦が渦を呼んでいる! 十六夜の予測不能な混沌の渦に、横綱が完璧に対応している! いや、違う! 対応しているだけじゃない! その渦を楽しんでいる! 二人の女神が土俵の上で戯れているかのようだ!」
咲は驚愕していた。
これまでの相手ならなすすべもなくその渦に飲み込まれていったはずなのに。
貴和子は、その渦の中心でまるで熟練のサーファーのように完璧にその流れを乗りこなしている。
それどころか咲の渦の、次の動き、次の展開を全て読み切っているかのようだった。
天知:「…これが横綱の“格”…! 十六夜関の『渦潮』は、確かに唯一無二の天才的な技です。しかし横綱には、これまで数千、数万の戦いをくぐり抜けてきた“経験”という膨大なデータベースがある。彼女は今この瞬間に咲の渦の全てのパターンをその体にインプットし、そしてその攻略法を導き出しているのです!」
咲の額に汗が浮かぶ。
(…すごい。あたしの渦が、通用しない…)
だが不思議と焦りはなかった。
むしろ楽しかった。
自分の全てを理解してくれる。自分の全力に応えてくれる。
そんな相手と出会えたことが心の底から嬉しかった。
(もっと…! もっと、深く!)
咲の渦がさらにその回転数を増していく。
それに応えるように貴和子の腰もさらにその輝きを増していく。
二人の戦いはもはや勝敗を超えた、互いの魂を高め合うための官能的な対話となっていた。
十六夜咲の『渦潮』がその勢いをさらに増していく。
彼女はもはやただ渦を巻いているのではなかった。その渦の中に無数の小さな渦を変幻自在に生み出し、龍炎寺貴和子の完璧な対応を乱しにかかる。
それはもはや相撲の決まり手というより自然現象そのもの。抗いがたい快感の嵐だった。
だが、その荒れ狂う嵐の中心で。
女王龍炎寺貴和子は驚くほど静かだった。
彼女は、その超人的な集中力で咲のその混沌の渦のさらに奥深くにある“核”を見極めようとしていた。
(…なるほど。面白い渦だわ。あたしの力を逆用し、それを回転エネルギーへと変換している。だからあたしが力でねじ伏せようとすればするほど、この渦は勢いを増す)
貴和子の脳はスーパーコンピューターをも凌ぐ速度で、この未知の現象を解析していく。
(…ならば。この渦を止める方法は一つしかない)
貴和子の口元に絶対的な自信に満ちた女王の笑みが再び浮かんだ。
(この渦を力で破壊するのではない。この渦と完全に一つになるのよ…!)
次の瞬間。
国技館の誰もが我が目を疑う信じられない光景が繰り広げられた。
龍炎寺貴和子が咲の渦に抵抗するのをやめたのだ。
それどころか彼女は自らの腰を咲のその荒れ狂う渦の回転と完全に“同調”させ始めたのだ。
絶頂川アナ:「な、ななな、ななな、何が起こっているんだァーッ!? よ、横綱が! 十六夜の渦と同じ方向に同じ速度で腰を回している!?」
天知:「…まさか…。解(と)いたというのか…! あの予測不能なカオス力学の塊である『渦潮』の、その完全なる“解法”をこの土俵の上で見つけ出したというのか!」
貴和子の腰は咲の動きを寸分の狂いもなくトレースしていく。
咲が速く回れば貴和子も速く。
咲が緩めれば貴和子も緩める。
やがて二人の体は、まるで一つの生き物のように完全にシンクロし、土俵の上で美しく、そして官能的な円舞を踊り始めた。
荒れ狂っていたはずの『渦潮』は、その抵抗する力を失い、ただ穏やかで心地よい快感の“ゆらぎ”へと変わっていく。
咲は戦慄していた。
自分の全てを懸けた必殺の奥義がいとも簡単に無力化されていく。
いや、違う。
無力化されたのではない。
自分の相撲を、この女王は完全に“理解”し、そして“受け入れ”てくれたのだ。
その事実に咲の体は喜びで打ち震えた。
そしてその感情は貴和子もまた同じだった。
孤独な玉座で忘れかけていた魂が燃えるような感覚。
己の全てをぶつけることができる好敵手との出会い。
二人の間には、もはや敵意などひとかけらも存在しなかった。
ただ互いの存在をその腰を通して祝福し合い、そしてその魂を高め合っている。
放送席で絶頂川アナは、そのあまりにも神々しく、そして官能的な光景に涙を流していた。
絶頂川アナ:「ああ…、ああ…。もう私には分かりません…。これはもはや戦いではない…。勝敗などどうでもいい…。これは二人の女神がその腰と腰で互いの魂を奏で合う至高の芸術です! もはやこれは相撲ではない! 腰と腰で奏でる協奏曲(コンチェルト)だァァァァァッ!!」
やがて二人の回転がゆっくりと止まる。
そして名残を惜しむかのようにそっとその腰が離れた。
土俵の中央。
二人は汗だくのまま見つめ合う。
その顔には疲労の色などどこにもない。
ただ最高の“対話”を終えた最高の“好敵手”だけが浮かべる、晴れやかで満ち足りた笑顔があった。
貴和子が静かに頷く。
それは挑戦者への最大限の敬意。
咲もまたその生涯で最高の笑顔で頷き返した。
序曲は終わった。
互いの技と魂は確かめ合った。
ここから先は、もう小手先の探り合いはない。
二人は再びゆっくりと腰を落とす。
それぞれの魂の全てを懸けた最後の“奥義”を解き放つために。
国技館の空気が再び張り詰める。
神話の最終楽章が今、始まろうとしていた。