龍炎寺貴和子と十六夜咲。二人の女神が奏でた官能の協奏曲(コンチェルト)。
そのあまりにも美しすぎる“静”の時間は終わりを告げた。
再び両者の間合いが詰まる。
だが、そこから繰り広げられたのは、先程までの互いを確かめ合うような優雅な舞ではない。
互いの全てを削り合う消耗戦。
肉と肉が、魂と魂が正面からぶつかり合う、あまりにも激しい“動”の戦いだった。
「だぁっ!」
「せいっ!」
重い、重い腰の応酬。
一発一発が、常人ならばそれだけで意識を刈り取られるほどの凄まじい威力。
だが二人は一歩も引かない。
咲の『渦潮』も貴和子の『明鏡止水』も、もはや通用しない。
互いが互いの全てを知り尽くした今、残されているのは純粋な地力の比べ合いだけだった。
絶頂川アナ:「コンチェルトは終わった! 第二楽章はヘビーメタルだ! 技の応酬から魂の殴り合いへと、試合はその様相を完全に変えました!」
天知:「…しかし、この展開は横綱に有利です。純粋な持久戦となれば、やはりそのキャリアに裏打ちされた体力の絶対量で横綱が上回る。ご覧ください。十六夜関の潮(しお)の量が徐々に減り始めています」
天知の冷静な分析通りだった。
咲の体は、このあまりにもレベルの高い戦いに悲鳴を上げ始めていた。
呼吸が苦しい。足が震える。そして何より、あれほど無限に湧き出てくるかと思われた快感の“泉”が枯渇し始めていた。
(…ダメだ。このままじゃ、じり貧に…!)
咲は、この泥沼の消耗戦を断ち切るための最後の“賭け”に出ることを決意した。
それは、祖母とのあの地獄の修行で、そのほんの入り口だけを垣間見た、『濡』の究極のコントロール。
咲は一度大きく息を吸うと、その残り少ない“潮”の全てを解放するかのように見せかけた。
それは、力士が自らの最後の一撃を放つか、あるいは完全な絶頂を迎える寸前に見せる予備動作。
(…来たわね、小娘!)
貴和子は、その動きを見逃さなかった。百戦錬磨の経験が告げている。これが咲の最後の一撃だと。
貴和子は、その身に全神経を集中させ、完璧な防御の体勢を取った。
どんな攻撃が来ようとも全てを受け止め、そしてその隙を突いてとどめを刺すための、絶対王者としての完璧なカウンターの構え。
だが、それが女王のたった一つの、そして致命的な“誤算”だった。
咲が最初に放った潮の奔流は“偽り”。
それは全エネルギーのほんの三割程度を放出しただけの、ただの“おとり”だったのだ。
貴和子の完璧な防御体勢が、その“偽りの潮”を受け止めるために完全に固定された、そのコンマ一秒にも満たない刹那の“隙”。
咲はそこに、自らの本当の“全て”を叩き込んだ。
奥義:『二段濡らし(にだんぬらし)』!
絶頂川アナ:「なっ…! なんだとー!? 潮が二段階で放たれた! フェイントだ! 潮でフェイントをかけたというのかーっ!」
天知:「…馬鹿な…。自らの絶頂のタイミングを完全に分離させ、コントロールしている…! あれは…! あれこそが、かつて十六夜撫子が土俵を去るきっかけとなった、あの禁じ手…『八岐大蛇』の、その片鱗…!」
完璧な防御の裏をかかれた貴和子の体勢が、初めて大きく崩れる。
「くっ…!」
女王のその美しい顔に、初めて本物の焦りの色が浮かんだ。
勝機。
咲の全身が叫んでいた。
今、この瞬間を逃せば二度と勝利はない。
咲は、体勢を崩した貴和子に向かい、この試合で最大で、そして最後となるであろう『渦潮』を、その魂の全てを懸けて解き放った。
女王のその完璧な体を、今、混沌の渦が完全に飲み込もうとしていた。
勝機。
その千載一遇の好機を十六夜咲は見逃さなかった。
『二段濡らし』によって初めて体勢を崩した女王、龍炎寺貴和子。そのほんの一瞬生まれた完璧なまでの“隙”。
咲はそこに、自らの魂の全てを懸けた最大にして最後となるであろう『渦潮』を叩き込んだ。
ゴオオオオオオオオオオオッ!
それはもはやただの渦ではなかった。
咲のこれまでの戦いの全て、喜びも悲しみも屈辱も、そして乗り越えた絶望も、その全てを飲み込み凝縮した生命そのものの巨大な奔流だった。
絶頂川アナ:「いったァァァァァ! 決まったか! 十六夜咲、起死回生の一撃! シンデレラの渦が、ついに絶対女王を飲み込むかァァァッ!」
誰もが新女王の誕生を確信した。
だが。
その全てを飲み込むはずだった渦の中心で。
龍炎寺貴和子は驚くほど静かだった。
その美しい顔に浮かんでいたのは、焦りでも絶望でもない。
全てを悟ったかのような、あまりにも穏やかな女神の微笑みだった。
(…そう。これなのね、小娘。あんたの魂の“形”は)
貴和子の脳裏にこれまでの全てが駆け巡る。
最強であるが故の孤独。
女としての渇望。
そして、目の前のこのあまりにも眩しい新しい“光”。
(…いいでしょう。ならば見せてあげる)
彼女の心の声が静かに響く。
(技でも力でも執念でもない。そのさらに先にあるもの)
(この国の神話の始まりから続く、母なるもののその本当の“力”というものを!)
貴和子は抵抗するのをやめた。
それどころか彼女は自らの体を、その最後の砦を完全に“開いた”のだ。
咲の荒れ狂う『渦潮』が貴和子の体へと流れ込む。
だが、それは飲み込んだという感覚ではなかった。
まるで大海へと注ぎ込む一筋の川のように。
咲のその全てを懸けた渦は、貴和子のあまりにも広く、そしてあまりにも深く、どこまでも温かい“器”の中へと、ただ吸い込まれ溶けていく。
天知:「…これは…。なんという光景だ…。横綱は渦を受け止めているのではない。渦をその身の内側へと“招き入れている”…。まるで我が子をその胎内へと迎え入れる母のように…!」
咲は戦慄していた。
自分の最大の力が跡形もなく消えていく。
そして、貴和子の体内で、自分の力が貴和子のあの底知れない“執念”の炎と混じり合い、融合し、全く別の、そして何倍にも増幅された神々しいまでの巨大なエネルギーへと変貌していくのを、肌で、魂で感じていた。
やがて貴和子の瞳がゆっくりと開かれる。
その瞳はもはや人間のそれではなかった。
慈愛に満ち、そしてこの世の全てをその身の内に抱く“母神”そのものの瞳だった。
「…お返しするわ、小娘。あなたのその美しい魂ごとね」
貴和子の腰が一度だけゆっくりと、しかし星々を動かすかのように雄大に動いた。
最終奥義:『天岩戸(あまのいわと)』
次の瞬間。
咲の体を凄まじい光の津波が襲った。
それは彼女自身の『渦潮』。しかし、その力は貴和子の母なる力によって百倍、千倍にも増幅されていた。
自分の魂に抱きしめられるかのような究極の快感。
「あ…」
咲の思考が溶けていく。
ああ、なんて温かいんだろう。
なんて気持ちいいんだろう。
これが横綱…。
これがこの国の母…。
敗北の悔しさなどひとかけらもなかった。
ただこのあまりにも偉大で、あまりにも美しい究極の快感に出会えたことへの感謝と幸福感だけがその身を満たしていく。
「…あ…りが、とう…」
その最後の感謝の言葉と共に。
十六夜咲の体は、その生涯で最高に、そして最も幸福な絶頂の光に包まれ、ゆっくりと土俵の上へと崩れ落ちた。
その顔には満ち足りた安らかな微笑みだけが浮かんでいた。
勝負あり。
国技館は死んだように静まり返っていた。
ただ誰もが涙を流していた。
そのあまりにも神々しい戦いの結末に。
放送席で絶頂川アナは、声を出すこともできず、ただ嗚咽を漏らしている。
天知は、そのキャリアで初めて自らの眼鏡を外し、その潤んだ瞳で土俵を見つめていた。
天知:「…私のデータも理論も…。あの神話の前では全てが無意味だ。あれはもはや技ではない。奇跡です。我々は今、この土俵の上で新しい宇宙が生まれる瞬間を目撃したのです…」
やがて行司の月詠愁が、その震える手で軍配を天へと掲げた。
「…しょ、勝者、東、横綱…、龍炎寺、貴和子…!」
その声が静寂を破る。
次の瞬間、国技館はこの国が揺れるほどの感謝と祝福の大歓声に包まれた。
土俵の中央には、ただ一人全てを出し尽くし、かろうじてその場に立つ女王の姿があった。
その顔は、もはや完璧な女王ではない。
ただ神話の戦いを生き抜いた、一人の美しい“女”の顔をしていた。