十一月場所、初日。
両国国技館は、新たな季節の始まりを告げる独特の熱気に満ちていた。
その土俵の脇に一人の男が静かに佇んでいる。
今場所の行司を務める音無 響(おとなし ひびき)。
その涼やかな切れ長の目は固く閉じられている。彼は生まれつき光を知らない。全盲だった。
だが、その代わりに神は彼に人智を超えた“耳”を与えた。
絶対音感ならぬ、『絶対感声(ぜったいかんせい)』。
彼にとってこの世界は光と影ではなく、無数の“音”の集合体だった。
(…Cメジャーの和音。素晴らしい、期待に満ちた観客たちの“声”だ)
響の耳には、一万五千人の観客のざわめきの一つ一つが完璧なハーモニーとなって聞こえていた。建物の構造、観客の配置、その全てが音の反響によって、彼の脳内に三次元の“風景”として完璧に描き出されていく。
やがて、呼び出しの声と共に力士たちが花道から姿を現す。
響にはその姿は見えない。
だが聞こえる。
まわしの絹が肌と擦れる繊細な高音(ハイノート)。
土俵を踏みしめる重い足音の一人一人、全く違うリズムと音圧。
そして高揚する彼女たちの心臓の鼓動。そのBPM(テンポ)の変化。
それだけで響には、今土俵に上がってきた力士のコンディション、精神状態、その全てが手に取るように分かった。
「はっけよい、のこった!」
一番目の取り組みが始まった。
響は目を閉じたまま、その“戦いの旋律”に耳を澄ます。
ドン! という腰と腰がぶつかり合う重低音(バスドラム)。
肌と肌が汗で滑り、擦れ合うブラシシンバルのような摩擦音。
苦しげに漏れる喘ぎ声の微妙なピッチの揺らぎ。
(…東の力士、心拍数が140を超えた。リズムが乱れている。…西の力士はまだ85をキープ。呼吸も深い。…勝負は見えたな)
響の予測通り、数秒後、東の力士の腰が砕け、勝負は決した。
そして、始まる『子種拝領の儀』。
響にとって、それはこのマンコ相撲の中で最も美しく、そして最も官能的な“音楽”が奏でられる時間だった。
勝者と敗者ではない。
雄と雌。
二つの全く違う“楽器”が、一つの新しい“楽曲”を生み出そうとする即興演奏(インプロヴィゼーション)。
次第に速くなっていく二つの心臓の鼓動。
重なり合い、乱れ、そして高まっていく喘ぎ声のハーモニー。
やがて、その不協和音寸前の緊張感が最高潮に達し、そして一つの完璧な絶頂の“和音”となって解き放たれる。
(…ブラボー。見事な演奏だった)
響は、その完璧な生命の音楽の余韻に静かに浸っていた。
彼にとってこの土俵は戦場ではない。
世界で最も官能的で、そして美しい音楽が生まれるコンサートホールなのだ。
全ての音が彼にとっては美しい。
ただ一つを除いては。
(…また今日も聞こえなかったか)
響の脳裏に焼き付いて離れない一つの“音”。
それは数年前に亡くなった彼の恋人。
彼女もまた有望な力士だった。
だが、ある日の試合で、“事故”に見せかけられてその命を落とした。
その彼女が最後に発した苦痛に満ちた絶頂の声。
そして、その声に混じっていた、本来そこにあるはずのない不協和音(ディスコード)。
その“音”の正体を探すため。
そして、彼女が奏でた最後の哀しい旋律を超える、本物の“魂の音楽”を聴くために。
音無響は今日もこの音の洪水の中で、ただ静かに耳を澄ましている。
まだ誰も知らない哀しい宿命を、その盲目の瞳の奥に隠して。
一番、また一番と音無響は淡々と土俵を裁き続けていた。
ある取り組みは情熱的なヴァイオリンの二重奏のようだった。
ある取り組みは力と力がぶつかり合うティンパニの重厚な連打のようだった。
その全てが彼にとっては美しく、そして愛おしい“音楽”。
だが、その完璧なコンサートホールに突如響き渡ったのだ。
世界でただ一つだけ彼が聞きたくなかった、そして聞きたかった、その“音”が。
その取り組みは中堅力士同士の凡戦だった。技のキレも潮の量も二流。響にとっては退屈な練習曲のような一番。
やがて勝負は呆気なく決した。敗者は悔しそうに土俵に膝をつく。
その時だった。
西側の力士の控える土俵下から、一つの野次とも激励ともつかない野太い声が飛んだ。
「おい、アキコ! 何やってんだ、バカヤロウ! 気合が足りねえんだよ、気合が!」
そのありふれた下品な声。
だが、その“声紋”、その“周波数”、その喉の奥にこびりついた僅かな“ノイズ”。
それを捉えた瞬間。
響の全身の血が凍り付いた。
(…あ)
世界から音が消える。
観客の歓声も絶頂川アナの絶叫も何もかもが遠のいていく。
ただ彼の脳内に、あの日の記憶が鮮明な“音”となって蘇る。
(回想:数年前)
響には将来を誓い合った恋人がいた。
名を美冬(みふゆ)といった。彼女もまた将来を嘱望されたマンコ相負の力士だった。
彼女の笑い声は夏の風鈴のように涼やかだった。
彼女の稽古中の四股を踏む音は力強く大地を揺らした。
そして二人きりの夜に、響の腕の中で彼女が奏でる愛の喘ぎ声は、どんなチェロのヴィブラートよりも官能的で、そして美しかった。
あの日も、響は行司として彼女の試合を裁いていた。
相手は格上の大関。美冬は明らかに追い詰められていた。
響の耳には聞こえていた。
彼女の乱れる呼吸。速くなる心拍数。そして骨と肉が軋む悲鳴のような音。
(…まずい。このままでは壊される…)
響がそう思った瞬間だった。
相手の大関が、明らかに禁じ手に近い危険な角度で美冬を土俵際へと押し込んだ。
ゴッ!
鈍い、硬い、嫌な“音”。
人体の柔らかい肉がぶつかる音ではない。硬い何かに叩きつけられたような破壊の音。
そして。
「…きゃ、あああああああああああああああああああっ!」
美冬の最後の絶叫。
それは快感と苦痛と、そして絶望がぐちゃぐちゃに混ざり合った、あまりにも哀しい最後の“和音”だった。
公式記録は、「取り組み中の不慮の事故」。
だが、響の耳は聞いていたのだ。
その美冬の最後の絶叫に混じって響いた一つの異質な“音”を。
(…ふん、ざまあみやがれ…)
それはほんの一瞬。誰にも聞き取れないほどの小さな、小さな呟き。
だが、その声には、人間の最も醜い感情…相手の不幸を心から喜ぶ、“嘲笑”の響きが確かに含まれていた。
その不協和音(ディスコード)の声の主。
それが今、あの土俵下から聞こえた声と寸分の狂いもなく一致したのだ。
「…おい、響! どうした、ぼさっとするな!」
協会の役員の怒声で、響はハッと我に返る。
いつの間にか、『子種拝領の儀』も終わり、次の力士たちが土俵へと上がってきていた。
だが、もはや響の耳には何の音も入ってこなかった。
彼の研ぎ澄まされた聴覚は、ただ一点だけを捉えている。
西側の土俵下。
先程、野次を飛ばした中年のコーチの男。
響の脳内には、その男の声紋データが完全にロックオンされていた。
(…見つけた)
彼の血の気のない唇が微かに動く。
(…美冬。聞こえるかい…?)
(…やっと見つけたよ)
(…お前の美しい音楽を汚した、あの雑音(ノイズ)を…)
その盲目の瞳の奥で、静かな、しかし決して消えることのない復讐の炎が燃え上がっていた。
周りの誰もがまだ気づいていない。
この穏やかで美しい盲目の天才が、その胸の内にあまりにも深く、そして哀しい闇を隠していることを。
新たなる復讐の物語の、その最初の“一音”が今、確かに奏でられたのだ。