マンコ相撲の世界には鉄の掟がある。
稽古と同じくらい、いやそれ以上に重要とされる、力士の体を作る聖餐――「ちゃんこ鍋」。
本来、その調理を担当するのは、番付が下の幕下力士の役目である。兄弟子たちのために感謝と尊敬を込めて巨大な鍋をかき混ぜる。それが古き良き相撲部屋の美しい伝統だ。
だが。
我らが十六夜部屋は違う。
何しろ、この部屋に所属する力士はたったの二人。師匠である元大関・十六夜撫子と、その孫娘であり今や幕内上位力士となった十六夜咲、ただそれだけである。
よって、この零細部屋においては、花の女子高生にして幕内力士である咲が、必然的にちゃんこ番を務めることになるのだった。
「だから! なんで鶏ガラと豚骨と煮干しで取った、このギットギトの出汁に、さらに豚バラ肉と鶏団子と油揚げを全部入れる必要があるの!?」
その日の夕方。十六夜部屋の台所では、咲の悲痛な叫びが響き渡っていた。
目の前の巨大な土鍋の中では、茶色く濁った液体がボコボコと地獄のように煮え滾っている。そこから立ち上るのは、濃厚で男らしい、あまりにも男らしい獣のような匂い。
これぞ、十六夜部屋に代々伝わる伝統の「鶏豚魚介(とりぶたぎょかい)・トリプルスープ・こってり醤油ちゃんこ」である。
「馬鹿だね、咲。力士の体は資本なんだよ。脂と塩分とタンパク質。この三つを、脳が『もう勘弁してください』と悲鳴を上げるまで体に叩き込んでこそ、あの分厚い腰が出来上がるんさ」
縁側で茶をすすりながら、撫子はこともなげに言う。
「もう、時代が違うのおばあちゃん! 今は令和なの! 体重管理! カロリー計算! アスリートはみんな、もっとヘルシーでサイエンティフィックな食事をしてるんだよ!」
咲はファッション雑誌の特集ページを撫子の前に叩きつけた。
そこには、「人気モデルの菌活&デトックス・スープ」と題された、見るからに体に良さそうな、しかし腹の足しには到底なりそうにない透明なスープの写真が載っていた。
「き、菌活…? でとっくす…?」
撫子は、その呪文のような言葉に眉をひそめる。
「なんだい、そりゃあ。そんなうさぎのエサみたいな汁物で、横綱の腰が受け止められるとでも思ってんのかい?」
「そうだよ! これからはただ太るんじゃなくて、しなやかなインナーマッスルを鍛える時代なの! だから今日のちゃんこはあたしが作る! 伝統へのリスペクトはしつつも、現代的なアプローチで全く新しいちゃんこを生み出してみせる!」
咲はそう宣言すると、どこからかエプロンとスマホを取り出した。スマホの画面には、人気料理研究家のオシャレなレシピ動画が映し出されている。
こうして、伝統と革新、昭和と令和、そして祖母と孫娘の仁義なき「ちゃんこ戦争」の火蓋が切って落とされたのである。
ちゃんこ戦争、勃発!
まず、咲が取り出したのはトマトとアボカドだった。
「第一に、抗酸化作用! リコピンとビタミンEで、稽古で傷ついた細胞を内側から修復するの!」
「と、とまと…? あの酸っぱい水っぽい夏野菜を鍋に…?」
撫子の顔が引きつる。
次に、咲は鶏のささみとたっぷりのきのこを鍋に投入した。
「高タンパク、低カロリー、そして食物繊維! これで腸内環境を整え、デトックス効果を促進する!」
「さ、ささみ…だと…? あのパサパサした出がらしみたいな肉を…? 脂はどこだい、脂は!」
そして仕上げに、咲が自信満々で取り出したのは。
“追いチーズ”と“タバスコ”だった。
「発酵食品であるチーズでさらなる菌活! そしてタバスコのカプサイシンで脂肪燃焼効果をプラスする! どう! これぞ二十一世紀のアスリートのためのビューティーちゃんこ!」
「ち、ちーず…? たばすこ…?」
もはや撫子の理解の範疇を完全に超えていた。
完成した、咲特製「鶏ささみとアボカドの、トマトチーズ・タバスコちゃんこ」。
その真っ赤なスープからは、イタリアンのようなメキシカンのような、しかしどこにも属さない前衛的な香りが立ち上っている。
「…さあ、おばあちゃん、食べてみてよ!」
咲は自信満々で、その赤いちゃんこを撫子の前に差し出した。
撫子は、その未知の物体を前に箸を持ったまま五分ほど固まっていた。
そして意を決すると、その赤いスープをほんの少しだけ口に含んだ。
「………」
長い、長い沈黙。
咲はごくりと唾を飲む。
やがて撫子はゆっくりとその顔を上げた。
その深く刻まれた皺の奥の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「…咲や」
「は、はい!」
「…あたしは明日死ぬのかい…?」
「なんで!?」
「こんな…こんな酸っぱくて辛くてわけのわからないハイカラなものを最後の晩餐に食べさせるなんて…。お前さんは、このばあさんを一体どうしたいんだい…?」
「違うよ! 美味しいでしょ!?」
「美味いとか不味いとかそういう次元の話じゃないんだよ! これはちゃんこじゃない! 魂が震えないんだよ、魂が!」
結局、その夜。
二人は別々の鍋をつつくことになった。
台所の右側では、咲がオシャレなトマトチーズちゃんこをスマホを見ながら楽しんでいる。
左側では、撫子が一人寂しく、ギットギトの伝統の醤油ちゃんこをすすっている。
「…やっぱり、ちゃんこはこうじゃなくっちゃねぇ…」
「…チーズ、とろとろで美味しい…」
その決して交わることのない二人の呟きは、誰の耳にも届くことなく。
ただ十六夜部屋の、平和な、しかしどこまでもジェネレーションギャップに満ちた夜に溶けて消えていくのだった。