神話と呼ばれた九月場所が終わった。
日本中を巻き込んだ熱狂は、まるで嵐が過ぎ去った後のように穏やかな、しかし確かな“変化”を人々の心に残していった。
そして、次なる十一月場所の開幕を前に、女神たちはそれぞれの新しい“日常”を歩み始めていた。
【十六夜咲の甘くてカオスな日常】
「だから! なんであたしの『渦潮』の回転に、ロシアの合理主義と奈落のサディズムを同時に取り入れる必要があるんですかーっ!?」
放課後。
咲の悲痛な叫びが、なんとあの龍炎寺部屋の神聖な土俵に響き渡っていた。
九月場所を経て、咲を取り巻く環境は激変した。
今や、彼女の専属コーチはなぜか二人。
一人は、元・毒婦、現・十六夜部屋コーチ見習いの毒島りん。
そして、もう一人は、女王の懐刀にして最強の稽古相手、アナスタシア・イヴァノワである。
「甘いわよ、サキ!」
りんがその蛇のような目で、咲の腰つきをねっとりと見つめる。
「あんたの渦は優しすぎるのよ! 相手を気持ちよくさせるだけじゃ三流だわ! 快感の中に、ほんの一滴、相手の魂を内側から焼き尽くすような“毒”を混ぜ込むの! そうすれば、相手はあんたの渦の虜になる!」
「違う。非効率だ」
その隣でアナスタシアがタブレットのデータを指でなぞりながら冷たく言い放つ。
「サキの渦の最大の弱点は、感情に出力が左右されること。感情という不確定な変数を排除しろ。骨盤の角度、回転速度、潮の放出量。その全てを完璧なデータに基づいて制御するのだ。そうすれば、お前の渦は兵器になる」
「毒を盛れ!」「データを取れ!」「情熱よ!」「合理性だ!」
「あああああ、もう、どっちなんですかーっ!」
あまりにも対極すぎる二人の天才からの超スパルタ指導。
だが、このカオスな稽古の中で、咲の『渦潮』は優しさだけではない、毒婦の“狡猾さ”と女帝の“合理性”を少しずつその身に取り込み始めていた。
学校でも彼女の日常は変わった。
休み時間になれば、親友のミカと由美がスマホを片手に、次の対戦相手の徹底的な分析をプレゼンしてくる。
「次の相手、関脇の霧島カレン! ファンサイトの情報によると、彼女の弱点は甘いものに目がないこと!」
「だから、試合前に差し入れと称して、大量のケーキを送りつけて血糖値を爆上げさせるのよ!」
「それ、ただの嫌がらせだよ!?」
公私にわたり、少し騒がしくなった日常。
だが、その騒がしさの中心で、咲は確かに笑っていた。
【龍炎寺貴和子と月詠愁の甘くない秘密の日常】
都内、最高級ホテルのペントハウス。
表向きは、「優勝者と行司の同棲妊活」の場。
しかし、その実態は、マンコ相撲協会の闇を暴くための「秘密作戦本部」と化していた。
その夜も、リビングの巨大なホワイトボードには、協会の幹部たちの相関図と金の流れがびっしりと書き込まれている。
「…次のターゲットは、この経理担当理事、姫川派の人間だ。奴を落とせば、金の流れの本丸に近づける」
愁の冷静な声が響く。
貴和子は、その張り詰めた会議の合間に、ふと窓の外の夜景へと目をやった。
その完璧な横顔に、隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。
アナスタシアとの死闘。そして咲との魂の戦い。そのダメージは、まだ女王の体を深く蝕んでいた。
「…少し休憩にしたらどうだ」
愁がそっと温かいハーブティーを貴和子の前に置いた。
「…余計なお世話よ。調査官さん」
貴和子は、そうぶっきらぼうに答えながらも、その湯呑みを手に取った。
その指先がほんの少しだけ触れ合う。
二人を包む穏やかな沈黙。
それは、決して甘い恋人たちのそれではない。
だが、巨大な敵へと共に立ち向かう“共犯者”たちの、静かで、そしてどこか温かい絆の時間だった。
【天童ひなの中学校の退屈な日常】
「はぁ…」
中学校の数学の授業。
天童ひなは、机に頬杖をつき、心底退屈そうに窓の外を眺めていた。
教師が黒板に、凡人には理解不能な高等な数式を書き連ねていく。
クラスメイトたちがうんうんと頭を悩ませている。
そのあまりにも平和で退屈な光景に、ひなはまた一つ大きな溜息をついた。
(…つまんない。こんな分かりきったこと、なんでいちいち証明しないといけないわけ?)
彼女の頭脳は、もはや教師や教科書の遥か先を行っていた。
彼女は授業を聞くふりをしながら、その小さな手のひらをじっと見つめている。
その頭の中では、先場所の貴和子と咲のあの神話の戦いが完璧にリプレイされていた。
そして、その神々の戦いの全ての動きを因数分解し、最適解を導き出し、そして再構築していく。
(…なるほどね。女王の『天岩戸』は、要するに相手のエネルギーをベクトル変換して増幅させてるだけ。なら、その変換の瞬間にゼロコンマゼロゼロ一秒以下の位相のズレを生じさせれば、内側から自壊させられる)
教師がひなを指名した。
「…じゃあ、天童さん。この問題の答えは分かるかな?」
ひなは一瞬きょとんとした顔で黒板を見上げると、一秒も考えることなくそのあまりにも複雑な数式の答えを完璧に言い当てた。
そしてまた何事もなかったかのように、自分の手のひらを見つめる思考の海へと戻っていく。
彼女の周りだけ、世界の流れる速度がまるで違っている。
その小さな少女の頭脳が、マンコ相撲の全ての“常識”を過去のものにする、恐るべき“兵器”であることに、まだ誰も気づいてはいなかった。
様々な思惑が交錯する中、新たなる戦いの幕が今、静かに上がろうとしていた。
それぞれの新たなる日常。
だが、その穏やかな時間は長くは続かない。
全ての力士たちの元に、十一月場所の開幕を告げる知らせが届く。
シンデレラはさらなる“進化”のその腕試しを。
女王はしばしの休息を終え、再びその“誇り”を土俵の上で示すために。
そして怪物は、そのあまりにも退屈な日常を終わらせるための“遊び”を求めて。