音無響にとって、この世界は無数の“音”でできている。
一万五千の観客の熱狂は、彼にとっては壮大な交響曲(シンフォニー)。力士たちの激しいぶつかり合いは、心を揺さぶる協奏曲(コンチェルト)。そして、勝利の後に奏でられる雄と雌の交合の儀式は、官能的な二重奏(デュエット)。
その全ての音楽を彼は愛していた。
だが、彼のその記憶のレコード盤には、決して消すことのできない一つの傷が深く刻まれている。
それは数年前に亡くなった彼の恋人の“歌”。
彼女の名を美冬(みふゆ)といった。
響と同じように音のない世界で育った少女。彼女もまた将来を嘱望されたマンコ相撲の力士だった。
響にとって彼女の存在そのものが“音楽”だった。
彼女の笑い声は澄み切った銀の鈴のようだった。
彼女の歩く足音は軽やかなピアノのスタッカートのようだった。
そして何より、響が愛してやまなかったのは、彼女が土俵の上で奏でるその唯一無二の“喘ぎ声”の旋律(メロディ)だった。
美冬の相撲は特別だった。
彼女の必殺の決まり手は、『月光の奏鳴曲(ソナタ)』。
それはまるでベートーヴェンのあの有名な楽曲のように、三つの楽章から成り立っていた。
第一楽章は、静かに寄せては返す波のような優しい腰つきで相手を心地よい微睡(まどろみ)へと誘う。
第二楽章で、そのリズムは一転、激しさを増し、相手を情熱的な快感の渦へと巻き込んでいく。
そして最後の第三楽章。
全ての感情を解き放つそのクライマックス。
彼女が絶頂のその瞬間に奏でる“声”はいつも決まっていた。
ハ長調(Cメジャー)のアルペジオ(分散和音)で駆け上がり、そして最高音の嬰ハ音(Cシャープ)で一瞬の静寂(フェルマータ)を置いた後、柔らかな吐息と共にゆっくりと下降していく。
そのあまりにも美しく、そしてあまりにも官能的なその“旋律”は、彼女だけの魂の“指紋”。響は、その世界でただ一つの“歌”を誰よりも愛していた。
だが、あの日。
その美しい音楽は無残に引き裂かれた。
あれは美冬にとって初の横綱戦だった。
相手の横綱は強く、そして残酷だった。
響の耳には聞こえていた。
美冬の体が、骨が軋む不快なノイズ。
彼女の心臓が恐怖に悲鳴を上げる不規則なビート。
そして最後の一撃。
相手の横綱が、明らかに禁じ手に近い危険な角度で美冬を土俵際へと叩きつけた。
ゴッ! という鈍い、硬い、嫌な“音”。
人体の柔らかい肉がぶつかる音ではない。硬い何かに叩きつけられたような破壊の音。
「…きゃ、あああああああああああああああああっ!」
美冬の最後の絶叫。
それはいつもの、あの美しい『月光の奏鳴曲』だった。
だが、その旋律は途切れ途切れで苦痛に歪み、そして音が外れていた。
美しいストラディバリウスが無残に壊されながら最後の音を奏でるかのような、あまりにも哀しい断末魔の“歌”。
そして、その哀しい歌に混じって響いた一つの異質な“音”。
(…ふん、ざまあみやがれ…)
相手のセコンドについていた誰かのその悪意に満ちた“嘲笑”の不協和音。
公式記録は、「取り組み中の不慮の事故」。
だが、響は知っていた。
あれは事故ではない。
**“殺人”**だ、と。
それ以来、響の時間は止まった。
彼は来る日も来る日も、この音の洪水の中で、ただ二つの音を探し続けている。
あの日聞いた下品な“嘲笑”の声の主。
そして二度と聞くことはないと諦めていた亡き恋人のあの美しい“歌”。
その耳に、まさか今日その片方が流れ込んでくるなどとは。
この時の音無響は、まだ知る由もなかった。
音無響の時は止まっていた。
あの日、恋人・美冬がその哀しい最後の“歌”を奏でて絶命した、あの瞬間から。
彼は来る日も来る日も、この官能の音楽が渦巻く土俵の上で、ただ耳を澄ましてきた。
彼女の死の真相に繋がる、あの下品な“不協和音”と。
二度と聞くことはないと諦めていた彼女のあの美しい“旋律”を探して。
そして、その日はあまりにも突然に訪れた。
その日の第五番取り組み。
東から登場したのは、今場所彗星の如く現れた新進気鋭の部屋、『黒百合部屋』に所属する影縫 桔梗(かげぬい ききょう)。
その名の通り、影のように薄い存在感と、相手の長所を縫い殺すかのような粘り強い相撲を得意とする技巧派の力士だった。
対戦相手は中堅の実力者。
取り組みはどちらかと言えば地味な展開だった。派手な技の応酬はない。ただ互いのスタミナと集中力を削り合う玄人好みの静かな一番。
響は、その単調な“音楽”をただ静かに聴いていた。
だが、試合が終盤に差し掛かったその時だった。
影縫 桔梗が勝機を見出した。
彼女は相手を土俵際へと追い詰めると、これまで見せなかった優雅で、そして流れるような腰つきで最後の仕上げに入った。
決まり手:『影縫いのセレナーデ』
それはまるで子守唄のように優しく、そして抗いがたい快感の連続波。
相手力士は、その心地よい快感の揺りかごの中で、ゆっくりと戦意を溶かされ、やがて美しい絶頂の瞬間を迎える。
「んっ…、はぁ…、あああああああああんっ!」
その喘ぎ声が響き渡った瞬間。
音無響の全身が凍り付いた。
(…え…?)
脳が理解を拒む。
今聞こえた“声”は。
今奏でられた“旋律”は。
ハ長調(Cメジャー)のアルペジオ(分散和音)で駆け上がり、そして最高音の嬰ハ音(Cシャープ)で一瞬の静寂(フェルマータ)を置いた後、柔らかな吐息と共にゆっくりと下降していく。
(…み、ふゆ…?)
違う。
ありえない。
これは幻聴だ。
あまりにも彼女を想いすぎるが故に、俺の脳が作り出した幻の音楽だ。
そう必死に自分に言い聞かせようとした。
だが、彼の神に与えられた“耳”は決して彼を騙しはしない。
あれは幻聴などではない。
今、確かにこの土俵で**“あの歌”が奏でられたのだ。
寸分の狂いもなく。
一音のズレもなく。
完璧に、“模倣”**されて。
響の血の気が引いていく。
全身が冷たい氷水に浸されたかのように震え始めた。
もしあれが模倣だとしたら。
もし美冬のあの魂の“歌”が他人に再現可能な“技術”だったとしたら。
彼女の死の意味が全く変わってくる。
あれはただの事故や過剰な暴力の結果ではなかった。
美冬がその身に宿した唯一無二の“才能(うた)”。それを誰かが**“盗む”ために仕組んだ計画的な“殺人”**だったのではないのか。
絶頂川アナ:「おおっと! なんという美しい絶頂の声! まるでオペラ歌手のアリアを聴いているかのようだ! 影縫 桔梗、見事な勝利であります!」
天知:「…興味深い。彼女の声紋データを分析しましたが、あれはもはやアスリートの声帯の使い方ではない。完璧に訓練された音楽家のそれです。あの黒百合部屋の親方はよほど優秀な指導者なのでしょう。力士の声の出し方まで徹底的に指導しているようだ」
その天知の何気ない一言が響の心臓に突き刺さった。
(…黒百合部屋…)
その名前を響は自らの記憶に深く刻み込んだ。
『子種拝領の儀』が始まる。
響は、その職務をただ無心でこなした。
目の前の勝者の体の音も心の音も、もはや彼の耳には入ってこない。
彼の頭の中では、ただ一つ、あの美しく、そして無残に引き裂かれた亡き恋人の最後の“歌”だけが、何度も、何度もリフレインしていた。
取り組みが終わる。
観客は次の試合へとその興味を移していく。
だが響だけは、その場に立ち尽くしていた。
(…美冬)
彼の盲目の瞳から一筋、涙がこぼれ落ちた。
(…今、行くよ)
(…お前の歌を盗んだ偽物の歌姫を)
(…そしてお前の命を奪った、あの雑音の主を)
(…この俺が必ず見つけ出してやるから)
哀しい復讐の旋律は、その明確な“標的”を見出した。
盲目の天才の、静かな、しかし決して終わることのない戦いが今、本当の意味でその幕を開けたのだった。