九月場所が終わりを告げ数週間。
表向きは「優勝者と行司の甘い一ヶ月の同棲妊活」を終えた龍炎寺貴和子と月詠愁。
だが、その水面下で二人は“共犯者”として密かにその絆を深めていた。
彼らの密会の場所は、都心にひっそりと佇む高級料亭の一室。貴和子の龍炎寺家が古くから懇意にしている、決して情報の漏れることのない安全地帯(セーフハウス)だ。
「…見つけたわ。金の流れの不自然な歪みを」
貴和子は、その美しい指で秘密裏に入手した協会の内部会計資料をなぞる。
「毎場所、多額の“使途不明金”が、この『黒百合芸能』というダミーカンパニーへと流れている。そして、この会社の登記上の代表は…」
「…闇マンコ相撲の賭場を仕切っている、“ブローカー”と呼ばれる男。間違いありません」
愁がその言葉を引き継ぐ。彼は、彼の調査官としての人脈を使い、裏社会との繋がりを調査していた。
「奴は協会の、ある大物幹部の懐刀とも言われています。その幹部こそが、おそらくあなたの妹君を陥れた…」
「…黒幕、ね」
貴和子の瞳が冷たく光る。
「証拠はまだ掴めていない。だが、金の流れと人の流れはほぼ特定できた。…次の一手は」
「私がその“ブローカー”と接触します。尻尾を掴んでみせますよ」
二人の調査は着実に核心へと近づいていた。
だが、それは同時に巨大な“悪”の逆鱗に触れることでもあった。
その数日後。
事件は起きた。
龍炎寺部屋に激震が走る。
部屋の若手力士が血相を変えて貴和子の元へと駆け込んできた。
「よ、横綱! 大変です! これを!」
差し出されたのは、明日発売されるゴシップ週刊誌のゲラ刷りだった。
そこに印刷されていたのは、あまりにも扇情的な見出し。
【スクープ! 龍炎寺貴和子、行司と結託し、“闇遺伝子売買”か!?】
【若手力士の“初物”を、裏社会の富裕層に斡旋していた!?】
記事には、貴和子と愁が料亭で密会していた写真が巧みに使われていた。
そして、あたかも貴和子がその横綱としての地位を利用し、まだ誰の子種も受け入れていないうら若い力士たちの“最初の権利”を、愁を仲介役として裏社会の顧客へと高値で売りさばいていたかのように、悪意に満ちた筆致で書きたてられていたのだ。
もちろん全てが完全な捏造。
だが、そのあまりにもセンセーショナルな内容は、一度世に出れば龍炎寺貴和子の、そして部屋全体の名誉を地に貶めるには十分すぎるほどの破壊力を持っていた。
「…ふん。ずいぶんと古臭い手を使ってくるじゃないの」
だが、貴和子は少しも動じなかった。
その顔に浮かんでいたのは、怒りよりもむしろ憐れみ。そして侮蔑だった。
「…この程度で、この龍炎寺貴和子を潰せるとでも思ったのかしら。愚かね」
彼女は静かに一本の電話をかけた。
相手は、ネオジャパンのメディア界を牛耳る巨大コングロマリットの総帥。龍炎寺家とは古くからの付き合いがある男だった。
「…ええ、わたくしですわ、貴和子です。…大したことではありませんの。ただ明日、あなたの傘下の出版社から出る予定の雑誌。そこに少しだけ“虫”が湧いているようなので。…ええ。お分かりになりますわね? …そう。その“虫”を編集部ごと“駆除”してくださらないかしら」
電話が切れる。
その翌日。
そのゴシップ週刊誌が店頭に並ぶことはなかった。
「印刷機の不調」という不可解な理由で発売は無期限の延期。
そして、その記事を担当した編集長と記者は業界から忽然と姿を消した。
黒幕が放った最初の一撃は、女王のあまりにも絶対的な権力の前で、その音すらも立てずに完全に握り潰されたのだ。
その夜。
再び料亭で向かい合う龍と月。
「…奴ら、我々の動きに気づいたようね。これは警告だわ」
「ええ。そしてあまりにも稚拙な警告だ。だが、それは我々が“本丸”に近づいている何よりの証拠。奴らは焦っている」
貴和子の瞳が鋭く光る。
「ならばこちらも手を緩める必要はないわね」
「…はい」
「愁。あんたの、あの“ブローカー”への接触。…予定通り決行なさい」
貴和子のその静かな、しかし有無を言わせぬ言葉に愁は頷いた。
「…ですが、気をつけなさい」
貴和子は最後にそう付け加えた。
「…奴らの次の手は、もうこんな“お上品”では済まないでしょうから」
その女王の不吉な予感が的中することになるまで、あとわずか数時間しか残されていなかった。
その夜。
首都のネオンが欲望を爛々と照らし出す歓楽街。
月詠愁は、その闇に紛れるように息を潜めていた。
彼の視線の先には、ターゲットである“ブローカー”の男。愁は数日間に及ぶ追跡の末、ついに男が闇マンコ相撲の関係者と接触するアジトを突き止めたのだ。
雨がアスファルトを濡らしている。ネオンの光が水たまりに滲んで歪んでいた。
ブローカーは、まるで愁の尾行に気づいているかのように、ひょいひょいと人混みを抜け、やがて一本の薄暗い裏路地へと入っていく。
(…罠、か)
愁は確信していた。だが、退くという選択肢はない。
彼は静かにその闇の入り口へと足を踏み入れた。
路地の行き止まり。
ブローカーはそこに立っていた。その下品な顔に余裕な笑みを浮かべて。
「…ご苦労なこったな、お役人さん。こんなドブの中まで追いかけてくるとは、よ」
「お前が誰の犬なのか。それを吐いてもらいに来ただけだ」
愁の冷静な言葉。
「犬、ねぇ。まあ、いいだろう。紹介してやるよ。俺のとっておきの、“番犬”をな」
ブローカーが指を鳴らす。
その瞬間、愁の背後。ゴミ集積所の影からぬるりと一つの人影が現れた。
小柄で痩身。フードを深く被り、その顔は見えない。
だが、その猫のようにしなやかな動きと、全身から発せられる野生の獣のような殺気。
愁は瞬時に理解した。
こいつはプロだ。闇マンコ相撲の世界で殺しを専門とする“刺客”。
「…“野良猫(のらねこ)”の異名を持つ、ウチのエースだ。なあに、心配するな。てめえのその綺麗な顔は残してやるよ。ただ二度と歩けなくなるだけだ」
ブローカーが下品に笑う。
刺客、“野良猫”がフードを脱いだ。
現れたのは、まだ十代後半にも見える少女だった。だが、その瞳には何の光もない。ただ命令のままに獲物を狩る獣の瞳。
彼女は構えた。
その構えはマンコ相撲のそれ。だが、そこには神聖さなどひとかけらもない。ただ相手を効率的に破壊するためだけの路上戦闘術(ストリートファイト)へと進化した歪んだ“闇の相撲”だった。
「…!」
野良猫が動いた。
凄まじいスピード。
彼女は壁を蹴り、その三角跳びの勢いを利用して愁の死角から強烈な腰つき(ヒップアタック)を叩き込んできた!
並の人間ならばその一撃で肋骨を砕かれていただろう。
だが、愁もまたただの男ではない。
彼はその攻撃を最小限の動きでいなすと、合気道のような流麗な体捌きでその力を受け流す。
「ほう…」
野良猫の瞳が、初めてわずかに見開かれた。
そこから凄絶な死闘が始まった。
野良猫の予測不能な三次元の攻撃。
愁の全ての攻撃を無力化する完璧な守りの動き。
それはもはや官能的な腰の応酬ではない。
互いの命を削り合う本物の殺し合いだった。
やがて、愁が一瞬の勝機を見出した。
野良猫が次なる大技を繰り出すべく、一瞬だけその動きを止めたその刹那。
愁はその懐へと踏み込むと、相手の足を取り、その体勢を崩した。
だが、野良猫もただでは倒れない。
崩れ落ちるその寸前に、彼女の尻の間に隠し持っていたナイフがきらりと光り、愁の腕を深く切り裂いた。
「ぐっ…!」
激痛に顔を歪める愁。
その隙に野良猫は体勢を立て直し、距離を取る。
だが、勝負はついていた。
愁の一撃は確実に彼女の体の自由を奪っていた。
ブローカーがその予想外の展開に舌打ちする。
「…ちっ。使えねえ、雌猫だ。まあ、いい。てめえはここで死ね!」
ブローカーが懐から拳銃を取り出そうとしたその時だった。
―――シュッ。
乾いた小さな音。
ブローカーの眉間に小さな赤い点が浮かんだ。
彼は何が起こったのか理解できぬままその場に崩れ落ちる。
愁はハッと息をのんだ。
路地の入り口。そのビルの屋上。
そこに一瞬だけライフルのスコープの光が反射したのを彼は見逃さなかった。
(…スナイパー…! 口封じか…!)
追跡しようにも腕の傷が深い。
野良猫もいつの間にか闇の中へと姿を消していた。
雨がアスファルトに流れるブローカーの血を静かに洗い流していく。
またしても尻尾を掴む寸前で逃げられた。
【龍炎寺貴和子のペントハウス】
「…手当は済んだわ」
貴和子は、愁の傷ついた腕に手慣れた様子で包帯を巻きながら静かに言った。
愁はその一部始終を報告する。
「…そうですか。ブローカーは消された、と。…やはり奴らは我々が思う以上に根が深いようですね」
「ええ。ですが、女王陛下。これは奴らが我々を本気で恐れている何よりの証拠。…我々は正しい道を進んでいる」
貴和子は窓の外の雨に濡れた夜景を見つめていた。
その女王の瞳に、初めて迷いのない決意の炎が燃え上がる。
「…ええ、そうね。もう小手先の調査は終わりよ。…こちらも全てを懸けるわ」
彼女は愁へと向き直ると、その絶対者としての声で宣告した。
「この腐った協会の、大掃除。それを成し遂げる舞台は一つしかない」
「…来年開催される、年に一度の最大のトーナメント…」
愁もまたその意味を理解する。
「『天下一番(てんかいちばん)相撲会』。その決勝の土俵の上で。全ての国民が見つめる前で、あの黒幕の首を取ってみせるわ」
それはマンコ相撲の未来を懸けた、あまりにも壮大で、そしてあまりにも危険な“戦争”の宣戦布告だった。