楽しい楽しい地方巡業が終わった。
十六夜咲はそのファンとの濃厚なふれあいの中で、改めて自らの立場を自覚していた。
もはや自分はただの無名な挑戦者ではない。
多くの人々の期待をその一身に背負う幕内上位力士。
そして何より、あの史上最凶の“怪物”、天童ひなが君臨するこの新しい土俵で、人々が希望を託す“最後の砦”のような存在になっている、と。
「…怖い、ですか」
その日の稽古の後。
珍しくりんが真剣な面持ちで咲に問いかけた。
「次のトーナメント。順当に勝ち進めば、あんたはいずれあの“怪物”…天童ひなと当たることになる。正直に言いなさい。怖いんでしょ?」
咲は黙って頷いた。
怖い。
もちろん怖い。
あの天童ひなの初陣。あの戦慄の“三秒殺”の光景は、今も脳裏に焼き付いて離れない。
あれはもはや相撲ではなかった。ただの一方的な解体ショー。
今の自分の『渦潮』が、あの神速の三点突きに通用するとは到底思えなかった。
だが。
咲の瞳の奥には、恐怖と同じくらい強い光が宿っていた。
「…でも」
咲はゆっくりと顔を上げた。
「あたしは逃げません」
「…ほう」
りんが、その蛇のような目で咲の覚悟のほどを見定める。
「あのひなちゃんの相撲。すごく強くてすごく怖い。でも、あの子の相撲からは何の“音”も聞こえてこないんです」
咲は続ける。
「喜びも悲しみも悔しさも…。ただ空っぽの音がする。まるで誰かに、『あたしはここにいるよ』って叫んでるみたいで…。すごく寂しい音がするんです」
それは毒島りんとのあの死闘を経て、咲が手に入れた新しい“力”だった。
相手の腰つきから、その魂の“声”を聴く力。
「だからあたしは受け止めなきゃいけないんです。あの小さな体の中にある大きな、大きな孤独を。あたしが全部受け止めて、そして教えてあげなきゃいけない」
「…何をだい?」
咲はにこりと聖母のように微笑んだ。
「一緒に相撲を取るって、こんなに気持ちよくてこんなに楽しいんだよ、って」
そのあまりにも真っ直ぐで、あまりにもお人好しな宣戦布告。
りんは一瞬呆気に取られたが、やがてふっとその口元を緩めた。
「…ばーか。あんた、本当のお人好しか、ただのドMの変態だわ」
その悪態は、しかしどこか温かかった。
「…いいでしょう。そこまで言うなら、あたしも付き合ってあげるわよ。あのクソガキの神速の三点突きを破るための“秘策”にね」
「ひ、秘策!?」
「ええ。あたしが奈落で培った全ての“悪意”と“狡猾さ”を、あんたのそのお花畑のような『渦潮』に注入してあげる。題して…」
りんの瞳が妖しく光る。
「『対・怪物用最終兵器・毒入り渦潮』開発計画よ…!」
【その頃:天童ひなの中学校】
天童ひなは相変わらず退屈だった。
授業も部活もクラスメイトとのおしゃべりも。その全てが彼女にとっては、あまりにも幼稚で退屈なお遊戯に過ぎなかった。
彼女の唯一の楽しみは。
放課後、一人部室に残り、タブレットで十六夜咲の過去の全ての試合映像を繰り返し、繰り返し見ることだけだった。
(…面白い)
ひなのその無感情な瞳が、ほんの少しだけ輝きを宿す。
(…この十六夜咲という生命体は面白い)
ひなのその規格外の頭脳は、咲のその戦いの中での“進化”の全てを完璧に理解していた。
最初はただの才能任せのまぐれ技。
それが女王との戦いを経て、意識的な“技”へと変わり。
そして毒婦との死闘の果てに、相手の“悪意”すら飲み込む“器”を手に入れた。
戦うたびに強くなる。
まるでロールプレイングゲームの主人公のように。
(…でも)
ひなの指が、タブレットの一時停止ボタンを押す。
画面には、咲が満面の笑みを浮かべている顔が映し出されていた。
(…その笑顔がムカつく)
ひなには理解できなかった。
なぜこの女は、こんな非効率で無駄の多い“戦い”を心の底から楽しんでいるのか。
なぜあんな弱くて汚い毒婦のような存在を赦すのか。
なぜあんな馬鹿みたいに笑っているのか。
その“感情”というあまりにも非合理なシステムエラーが、ひなの完璧な論理回路を苛立たせる。
(…壊して、みたい)
その純粋な子供のような好奇心。
いや、それはもはや好奇心というより、“探究心”と“破壊衝動”に近かった。
この十六夜咲という興味深い生命サンプル。
その一番の特徴である、“心”という未知の臓器。
それに最大級の負荷をかけた時。
それがぐちゃぐちゃに壊れて悲鳴を上げた時。
この生命体は一体どんな“反応”を示すのだろうか。
ひなはタブレットの電源を切ると、静かに立ち上がった。
そして、次のトーナメントの組み合わせ表へと歩み寄る。
そこには、すでに彼女が勝ち進んだ先に待ち受ける対戦相手の名前が書かれていた。
【準々決勝(予定):十六夜 咲 vs 天童 ひな】
ひなは、その文字をその小さな指先でそっとなぞった。
そして、その無垢な唇に初めて悪魔のような笑みを浮かべた。
「…早く、解剖させてよ」
その呟きは誰の耳にも届かない。
「…お姉さん」
世代交代の波ではない。
捕食者と被食者。
悪魔の探究心と聖母の母性。
二つの決して交わることのない摂理が、今土俵の上で激突しようとしていた。