準々決勝、第四試合。
その日、両国国技館の空気はこれまでにない異様な緊張感に支配されていた。
西から土俵に上がるのは、我らがシンデレラ、十六夜咲。その顔には恐怖も気負いもない。ただ、目の前の小さな挑戦者をその全てで受け止めるという聖母のような覚悟が浮かんでいた。
対する東。
「…ちぇっ。かったるい」
棒付きキャンディを口の中でころころと転がしながら、その“怪物”、天童ひなは億劫そうに土俵へとその小さな足を踏み入れた。
絶頂川アナ:「さあ、始まりました! 世代交代の波か! それとも超えるべき“壁”の証明か! 事実上の決勝戦との呼び声も高い、今場所最大の一番です!」
天知:「…いいえ、絶頂川さん。これは果たして勝負になるのでしょうか。データの上ではあまりにも一方的です。十六夜関が、あの驚異的な反応速度と予測不能なひな関の動きに対応できる確率は…」
天知はそこで言葉を飲み込んだ。
そのあまりにも絶望的な数字を口にすることを躊躇ったのだ。
「はっけよい、のこった!」
試合開始。
その瞬間。
ひなの姿が消えた。
いや、違う。
人間の動体視力が捉えきれないほどの神速。
咲が反応するそのコンマ一秒前に。
ひなはすでに咲の懐へと潜り込み、そしてその無慈悲な“お遊戯”を始めていた。
「ひっ…!?」
咲の体に衝撃が走る。
速い。
速すぎる。
これまでのどの相手とも違う。まるで瞬間移動でもしているかのような不可解な動き。
咲は得意の『渦潮』を発動しようとするが、その渦の中心を定めることができない。ひなはまるで咲の思考を先読みするかのように、その攻撃の予備動作を全て見切り、そのさらに先を行く。
絶頂川アナ:「ああっと! 速い! 速すぎる! 十六夜、全くついていけていない! これは一方的だ! まるで大人が子供を相手にするかのような残酷な鬼ごっこだ!」
ひなの小さな腰が、まるで蜂のように咲の体の四方八方から的確に急所を打ち続ける。
それは絶頂を狙うものではない。
ただひたすらに相手の体力、気力、そして心を削り取るための冷徹な攻撃。
咲は防戦一方だった。
歯を食いしばり、ただ耐える。
(…これが天童ひな…! なんて速さ…なんて正確さ…!)
だが、それ以上に咲が感じていたのは。
ひなのその完璧な腰つきから伝わってくるあまりにも冷たい“虚無”だった。
喜びも怒りも何もない。ただ目の前の“作業”をこなしているだけ。
やがて、そのお遊戯に飽きたのだろう。
ひなはふいと咲の耳元に、その無垢な唇を寄せた。
そしてその残酷な言葉を囁きかけた。
「…ねえ」
「…なんで、イかないの?」
「…早く、鳴いてよ。つまんない」
その言葉が引き金だった。
ひなの瞳から感情が消える。
そして、その小さな体にこれまでとは比較にならないほどの禍々しいオーラが凝縮されていく。
遊びは終わりだ。
ここからは“解体”の時間。
絶頂川アナ:「まずい! ひなの目が変わった! 来るぞ! あの戦慄の三秒殺! 『神速三点突き』が来るぞォォォッ!」
ひなの体が消える。
そして次の瞬間。
咲の体に三つの閃光が突き刺さった。
――第一の突き。
足の自由を奪う一撃。
――第二の突き。
脳髄を痺れさせる一撃。
――そして第三の突き。
魂の芯を砕く最後の一撃。
「きゃあああああああああああああっ!」
咲の口から悲鳴が迸る。
体が言うことを聞かない。
意識が焼けるような快感と苦痛の奔流に飲み込まれていく。
ああ、ダメだ。
あたしはここでこの“怪物”に壊されるんだ。
誰もがそう確信したその絶望の淵で。
咲の脳裏に一つの光景が蘇った。
それはあの毒婦、毒島りんの哀しい魂の“声”だった。
十六夜咲の悲鳴が国技館に響き渡る。
天童ひなの非情なる『神速三点突き』がその柔らかな体を完全に捉えた。
足の自由が奪われる。
脳が痺れる。
魂の芯が砕かれる。
咲の意識は焼けるような快感と苦痛の奔流に飲み込まれ、急速に白く染まっていく。
ああ、ダメだ。
あたしはここでこの“怪物”に壊されるんだ。
誰もがそう確信したその絶望の淵の底で。
咲の脳裏に一つの光景が蘇った。
それはあの毒婦、毒島りんの哀しい魂の“声”。
そして、そのりんを包み込んだ自分の『渦潮』の、あの温かい感触だった。
(…そうか)
咲の意識が反転する。
(…この子も同じなんだ)
ひなのこのあまりにも完璧で、あまりにも残酷な腰つき。
それは憎悪でも悪意でもない。
ただ寂しくて寂しくて仕方のない子供の叫び声なんだ。
「あたしはここにいるよ」
「誰かあたしを見てよ」
「誰かあたしを叱ってよ」
「誰かあたしを…、抱きしめてよ」
という不器用で歪んでしまった魂のSOSなんだ。
その声がはっきりと聞こえてしまった今。
咲の心は決まった。
(…もう、いいや)
(…勝てなくてもいい)
(…この子を壊させない。あたしがこの子の最後の“壁”になって、この子の全ての“叫び”を受け止めてあげるんだ)
次の瞬間。
咲はありえない行動に出た。
崩れ落ちるはずだったその体を、最後の精神力だけで無理矢理支える。
そして全ての防御を捨てた。
自らの体を大きく広げ、まるで「さあ、おいで」とでも言うかのように、ひなの全ての攻撃を受け入れる“無防備”な体勢を取ったのだ。
「…!」
ひなは、そのありえない光景に一瞬動きを止める。
だが、すぐにその無垢な唇に残酷な笑みを浮かべた。
(…ばかなの? 壊して、って言ってるの?)
ひなは容赦なくその無防備な肉体へと追撃の神速の連打を叩き込む。
だが。
ひなは、その身を戦慄させた。
自分の腰が咲の体に触れたその感触。
それはこれまで感じたことのない異質なものだった。
硬い、抵抗がない。
鋭い、手応えもない。
ただ、どこまでもどこまでも柔らかく、そして温かい“何か”に、自分の全ての攻撃が、憎悪が、孤独が吸い込まれ溶かされていく。
咲は、その身に『渦潮』を纏っていた。
だが、それはもはや相手を飲み込む攻撃の“渦”ではない。
荒れ狂う赤子を優しくあやす“揺りかご(ゆりかご)”だった。
「…だいじょうぶよ」
咲は微笑んでいた。
血の気の引いた青白い顔で、しかし確かに聖母のように微笑んでいた。
「…もう、一人で叫ばなくてもいいんだよ」
ひなの完璧な攻撃のリズムが狂い始める。
(…なんだ、これ。なんだ、これ、なんだ、これ!)
(…あたしの攻撃が効かない…!)
(…違う! 効かないんじゃない! この女…! あたしの攻撃を全部“気持ちいい”って感じてるんだ!)
ひなの論理回路がショートする。
自分の最強の“兵器”が、目の前の女にはただの“マッサージ”にしか、なっていなかったのだ。
絶頂川アナ:「な、な、な、何が起こっているんだー!? 十六夜が怪物の全ての攻撃をその身に受けながら微笑んでいる! そしてひなの、あの神速の動きが明らかに乱れているぞ!」
天知:「…戦略を変更したというのか…。攻撃でも防御でもない。第三の選択…。これはもはや相撲ではない…。十六夜咲は、この土俵の上で目の前の怪物を“母”として抱きしめようとしている…! なんという、なんという相撲…! これを名付けるならば…!」
天知は、その戦慄に声を震わせた。
「…『母性防御(マターナル・ディフェンス)』…!」
ひなは混乱していた。
生まれて初めて自分の理解を超える現象に遭遇していた。
目の前の女が怖い。
自分の全てを見透かし、そして赦そうとするその慈愛に満ちた瞳が、何よりも怖い。
ひなは、その恐怖から逃れるように、さらにめちゃくちゃにその腰を咲へとぶつけていく。
だが、その全ての攻撃は、ただ咲のその温かい母性の“揺りかご”を揺らす心地よいリズムとなるだけだった。
土俵の上の力関係が完全に逆転した。
最強の怪物はただ駄々をこねる赤子となり。
絶望の淵にいたはずのシンデレラは、その全てを受け止める巨大な聖母へと変貌していた。
このあまりにも奇妙で、そしてあまりにも美しい戦いの結末は。
もはや誰にも予測ができなかった。