【天下一番相撲会・四回戦】
トーナメントはベスト16を決める四回戦へと駒を進めていた。土俵の上では連日、女神たちの壮絶な戦いが繰り広げられている。だが、その全ての取り組みを裁きながら、行司・音無響の意識は全く別の場所にあり、彼の神に与えられた“耳”は、もはや力士たちの喘ぎ声の旋律には集中していなかった。それはまるで高性能の指向性マイクのように、この国技館という巨大なコンサートホールの隅々までをスキャンし、たった一つの“異音”を、探し求めていたのだ。
(…どこだ)
響の脳内には、この国技館の完璧な三次元の“音響マップ”が構築されている。観客席の一人一人の咳払いや囁き声。記者席のキーボードを叩く音。そして土俵下、東西に陣取る各部屋の親方やコーチたちの声。その全ての“音”を、彼は記憶し、フィルタリングし、そしてあの日の“不協和音”の声紋データと照合し続けていた。
(…いないのか。この会場には…)
数日が過ぎていた。あの十一月場所で確かに捉えたはずの、恋人・美冬を嘲笑ったあの下品な声の主。そして美冬の“歌”を盗んだ、『黒百合部屋』の関係者。響は、その二つの音の交差点を必死に探し続けていたが、今場所になってから、そのどちらの“音”もぴたりと鳴りを潜めていた。まるで響のその異常なまでの聴覚を警戒するかのように。
焦りが響の心を蝕む。その時だった。
四回戦、第三試合。ベテラン力士同士の地味な一番。東の力士が土俵際へと追い詰められる。その瞬間。東の土俵下。セコンドについていた一人のコーチが叫んだ。
「まだだ! こらえろ、タエコ! 相手の潮が尽きるまで耐えるんだ!」
そのありふれた激励の声。だが、その“声”が響の鼓膜を震わせた刹那。響の世界から全ての音が消えた。
(…あ)
脳が理解を拒む。だが、耳が、魂が覚えている。この声。この独特のしゃがれた響き。この喉の奥にこびりついた僅かなノイズ。間違いない。これはあの日の不協和音。美冬の最後の絶叫に混じって響いた、あの下品な“嘲笑”の声だ。
響の全身が凍り付く。だが、彼の脳は冷静だった。その超人的な聴覚で声の主の正確な位置を特定する。東の土俵下。前から三番目。そこにいる中年のコーチ。所属は…『武蔵丸部屋』。(…黒百合部屋の人間ではない…?)だが、そんなことはどうでもよかった。今この瞬間に、誰よりも憎むべき仇がすぐそこにいる。
試合が終わる。響はその職務を完璧にこなした。その顔には何の感情も浮かんでいない。だが、その固く閉じられた瞳の奥で。彼はその男の姿を、心臓の鼓動の音を、その汗の匂いさえも、自らの記憶に深く深く刻み込んでいた。
(…見つけた)
響は静かに思った。
(…今夜)
(…お前が奏でる、“断末魔の音楽”を)
(…俺は聴きに行くよ)
盲目の狩人は、ついにその長年追い求めてきた獲物を、その射程に捉えたのだ。その静かな、しかしあまりにも絶対的な殺意に、まだ誰も気づいてはいない。
その同じ夜。龍炎寺貴和子のペントハウスは、もはや“作戦本部”というより、“戦争司令室”の様相を呈していた。月詠愁がもたらしたその情報は、あまりにも衝撃的だった。
「…間違いありません。黒幕…『黒百合部屋』の親方の最終目的が判明しました」
愁は、そのいつもは憂いを帯びた顔を、これまでにないほど険しく歪めていた。
「奴らの狙いは、トーナメントの最終日。その混乱に乗じて、“天覧行司”を誘拐することです」
「…なんですって?」
さすがの貴和子もその言葉に眉をひそめる。
「あの神聖な象徴を誘拐する? 何のために。ただの身代金目的とは思えませんわね」
「ええ。奴らの目的は、金ではありません。“国家”そのものです」
愁は続ける。
「天覧行司は、単なる優秀な遺伝子の持ち主ではない。このマンコ相撲という国策を司る、最高の“権威”の象徴。彼を手中に収めることは、即ちこの国の根幹を揺るがす最強のカードを手に入れること。協会を、そしてその背後にある政府すらも意のままに操ろうという、壮大な…“クーデター”計画なのです」
貴和子の背筋に冷たいものが走る。自分たちが追っていた闇は、想像を遥かに超える巨大なものだった。
「…さらに厄介な情報が」
愁は一枚の資料をテーブルに置いた。
「奴らはその計画の実行部隊として、自分たちの息のかかった人間は使わない。報酬で雇った、“傭兵”を使います。…闇マンコ相撲の世界で最も危険とされる、“テロリスト集団”です。彼女たちは、すでに観客を装い、この国技館のどこかに潜伏していると」
陽動のためのテロ。そして、その混乱に乗じた国家の象徴の誘拐。あまりにも完璧で、そしてあまりにも邪悪な計画。
「…警察に通報は?」
「できません。我々の動きが表沙汰になれば、月詠愁という存在は消される。そして何より、大パニックを引き起こし、その混乱の中で、奴らは必ず計画を成功させるでしょう。…我々だけで止めるしかないのです」
絶望的な状況。だが貴和子は少しも動じなかった。彼女は静かに立ち上がると、窓の外に広がる首都の夜景を見下ろした。その女王の背中からは、もはや迷いも恐怖も感じられない。ただこの国を、この土俵を、その一身に背負う絶対者としての覚悟だけがあった。
「…ええ、そうね。その通りよ、愁」
彼女はゆっくりと振り返る。その美しい顔に浮かんでいたのは、龍神の如き獰猛な笑みだった。
「奴らが我々の神聖な祭りを戦場に変えるというのなら。…こちらも相応のもてなしで迎えてあげなくてはならないわね」
「貴和子さん…?」
「天覧行司を狙う本隊は」
貴和子は、その指で自分自身を指し示した。
「…この土俵の守護神である、このあたしが直々に潰してあげるわ」
「無茶です! あなた一人では!」
「一人じゃないわよ」
貴和子はふふ、と妖しく笑う。彼女は司令室の巨大なモニターに、現在のトーナメントの勝ち残り表を映し出した。そこには、自分と、そしてこれから準決勝、決勝で戦うであろう女神たちの顔が並んでいる。
十六夜 咲。
アナスタシア・イヴァノワ。
愛内 きらら。
矢倉 理詰。
そして、あの天童 ひな。
「…確かに、こいつらはあたしの首を狙う生意気な小娘ども。…だが、それ以前に、この土俵を愛し、その誇りを知る、“力士”でもある」
「…この神聖な土俵そのものを汚そうとする外道を前にして。奴らが黙っているはずないでしょう?」
貴和子の瞳が鋭く光る。
「…面白いじゃないの。年に一度の天下一番相つまみ会。その決勝の舞台裏で、“裏の天下一番”も同時に開催してやろうじゃないの」
「…集めるのですか。あの“怪物”たちを」
「ええ」
貴和子は、その唇に絶対的な自信の笑みを浮かべた。「あの小娘どもが、果たしてあたしという“女王”の指揮下で牙を剥かずにいられるか。…見ものだわ」
それは、マンコ相撲の未来を懸けた、あまりにも壮大で、そしてあまりにも危険な、“戦争”の始まり。そしてありえないはずの、“ドリームチーム”結成の狼煙だった。