※この作品はR-18です。

マンコ相撲〜土俵際の乙女たち〜   作:ろくさん

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【第三十八話】 聞き覚えのある不協和音

 

【天下一番相撲会・四回戦】

 

トーナメントはベスト16を決める四回戦へと駒を進めていた。土俵の上では連日、女神たちの壮絶な戦いが繰り広げられている。だが、その全ての取り組みを裁きながら、行司・音無響の意識は全く別の場所にあり、彼の神に与えられた“耳”は、もはや力士たちの喘ぎ声の旋律には集中していなかった。それはまるで高性能の指向性マイクのように、この国技館という巨大なコンサートホールの隅々までをスキャンし、たった一つの“異音”を、探し求めていたのだ。

 

(…どこだ)

 

響の脳内には、この国技館の完璧な三次元の“音響マップ”が構築されている。観客席の一人一人の咳払いや囁き声。記者席のキーボードを叩く音。そして土俵下、東西に陣取る各部屋の親方やコーチたちの声。その全ての“音”を、彼は記憶し、フィルタリングし、そしてあの日の“不協和音”の声紋データと照合し続けていた。

 

(…いないのか。この会場には…)

 

数日が過ぎていた。あの十一月場所で確かに捉えたはずの、恋人・美冬を嘲笑ったあの下品な声の主。そして美冬の“歌”を盗んだ、『黒百合部屋』の関係者。響は、その二つの音の交差点を必死に探し続けていたが、今場所になってから、そのどちらの“音”もぴたりと鳴りを潜めていた。まるで響のその異常なまでの聴覚を警戒するかのように。

 

焦りが響の心を蝕む。その時だった。

 

四回戦、第三試合。ベテラン力士同士の地味な一番。東の力士が土俵際へと追い詰められる。その瞬間。東の土俵下。セコンドについていた一人のコーチが叫んだ。

 

「まだだ! こらえろ、タエコ! 相手の潮が尽きるまで耐えるんだ!」

 

そのありふれた激励の声。だが、その“声”が響の鼓膜を震わせた刹那。響の世界から全ての音が消えた。

 

(…あ)

 

脳が理解を拒む。だが、耳が、魂が覚えている。この声。この独特のしゃがれた響き。この喉の奥にこびりついた僅かなノイズ。間違いない。これはあの日の不協和音。美冬の最後の絶叫に混じって響いた、あの下品な“嘲笑”の声だ。

 

響の全身が凍り付く。だが、彼の脳は冷静だった。その超人的な聴覚で声の主の正確な位置を特定する。東の土俵下。前から三番目。そこにいる中年のコーチ。所属は…『武蔵丸部屋』。(…黒百合部屋の人間ではない…?)だが、そんなことはどうでもよかった。今この瞬間に、誰よりも憎むべき仇がすぐそこにいる。

 

試合が終わる。響はその職務を完璧にこなした。その顔には何の感情も浮かんでいない。だが、その固く閉じられた瞳の奥で。彼はその男の姿を、心臓の鼓動の音を、その汗の匂いさえも、自らの記憶に深く深く刻み込んでいた。

 

(…見つけた)

響は静かに思った。

 

(…今夜)

(…お前が奏でる、“断末魔の音楽”を)

(…俺は聴きに行くよ)

 

盲目の狩人は、ついにその長年追い求めてきた獲物を、その射程に捉えたのだ。その静かな、しかしあまりにも絶対的な殺意に、まだ誰も気づいてはいない。

 

その同じ夜。龍炎寺貴和子のペントハウスは、もはや“作戦本部”というより、“戦争司令室”の様相を呈していた。月詠愁がもたらしたその情報は、あまりにも衝撃的だった。

 

「…間違いありません。黒幕…『黒百合部屋』の親方の最終目的が判明しました」

 

愁は、そのいつもは憂いを帯びた顔を、これまでにないほど険しく歪めていた。

 

「奴らの狙いは、トーナメントの最終日。その混乱に乗じて、“天覧行司”を誘拐することです」

「…なんですって?」

 

さすがの貴和子もその言葉に眉をひそめる。

 

「あの神聖な象徴を誘拐する? 何のために。ただの身代金目的とは思えませんわね」

「ええ。奴らの目的は、金ではありません。“国家”そのものです」

 

愁は続ける。

 

「天覧行司は、単なる優秀な遺伝子の持ち主ではない。このマンコ相撲という国策を司る、最高の“権威”の象徴。彼を手中に収めることは、即ちこの国の根幹を揺るがす最強のカードを手に入れること。協会を、そしてその背後にある政府すらも意のままに操ろうという、壮大な…“クーデター”計画なのです」

 

貴和子の背筋に冷たいものが走る。自分たちが追っていた闇は、想像を遥かに超える巨大なものだった。

 

「…さらに厄介な情報が」

 

愁は一枚の資料をテーブルに置いた。

 

「奴らはその計画の実行部隊として、自分たちの息のかかった人間は使わない。報酬で雇った、“傭兵”を使います。…闇マンコ相撲の世界で最も危険とされる、“テロリスト集団”です。彼女たちは、すでに観客を装い、この国技館のどこかに潜伏していると」

 

陽動のためのテロ。そして、その混乱に乗じた国家の象徴の誘拐。あまりにも完璧で、そしてあまりにも邪悪な計画。

 

「…警察に通報は?」

「できません。我々の動きが表沙汰になれば、月詠愁という存在は消される。そして何より、大パニックを引き起こし、その混乱の中で、奴らは必ず計画を成功させるでしょう。…我々だけで止めるしかないのです」

 

絶望的な状況。だが貴和子は少しも動じなかった。彼女は静かに立ち上がると、窓の外に広がる首都の夜景を見下ろした。その女王の背中からは、もはや迷いも恐怖も感じられない。ただこの国を、この土俵を、その一身に背負う絶対者としての覚悟だけがあった。

 

「…ええ、そうね。その通りよ、愁」

 

彼女はゆっくりと振り返る。その美しい顔に浮かんでいたのは、龍神の如き獰猛な笑みだった。

 

「奴らが我々の神聖な祭りを戦場に変えるというのなら。…こちらも相応のもてなしで迎えてあげなくてはならないわね」

「貴和子さん…?」

 

「天覧行司を狙う本隊は」

 

貴和子は、その指で自分自身を指し示した。

 

「…この土俵の守護神である、このあたしが直々に潰してあげるわ」

「無茶です! あなた一人では!」

「一人じゃないわよ」

 

貴和子はふふ、と妖しく笑う。彼女は司令室の巨大なモニターに、現在のトーナメントの勝ち残り表を映し出した。そこには、自分と、そしてこれから準決勝、決勝で戦うであろう女神たちの顔が並んでいる。

 

十六夜 咲。

アナスタシア・イヴァノワ。

愛内 きらら。

矢倉 理詰。

そして、あの天童 ひな。

 

「…確かに、こいつらはあたしの首を狙う生意気な小娘ども。…だが、それ以前に、この土俵を愛し、その誇りを知る、“力士”でもある」

「…この神聖な土俵そのものを汚そうとする外道を前にして。奴らが黙っているはずないでしょう?」

 

貴和子の瞳が鋭く光る。

 

「…面白いじゃないの。年に一度の天下一番相つまみ会。その決勝の舞台裏で、“裏の天下一番”も同時に開催してやろうじゃないの」

「…集めるのですか。あの“怪物”たちを」

「ええ」

 

貴和子は、その唇に絶対的な自信の笑みを浮かべた。「あの小娘どもが、果たしてあたしという“女王”の指揮下で牙を剥かずにいられるか。…見ものだわ」

 

それは、マンコ相撲の未来を懸けた、あまりにも壮大で、そしてあまりにも危険な、“戦争”の始まり。そしてありえないはずの、“ドリームチーム”結成の狼煙だった。

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