「……は?」
悠真は、困惑していた。当然の事ではあるが。
自宅のベッドで猫に踏まれながら寝てみれば、目が覚めたのは知らない診療台の上。困惑しない方が異常であろう。
「え、はっ? ……夢……?」
大体正解である。恐らく彼が想像しているそれとは大きく異なるものだろうが。
痛む頭を押さえながら、診療台から降りる。木製の床を踏むと、コツ、と音がした。
「えっ」
音でようやく気が付いた。靴を履いている。それどころか、服も寝間着ではなく、仕事用のスーツであった。ハチマキも巻いている。
だが、武器だけが無い。周りを見渡しても、武器として活用できそうなものすら無い。
「一体、どうなって……」
知らない場所に、武器も無しに、一人。流石の悠真でも、恐怖を感じていた。
だが、一歩踏み出した瞬間、その恐怖は何千倍にも膨れ上がることとなった。
「──っ! そんなっ……!」
呼吸が止まりかけ、身体が硬直する。この感触は、この感覚は──。
夢ではない、現実だ。確信と同時に、全身から汗が噴き出す。
なぜ。いつ。あらゆる疑問が、悠真の精神を蝕んでいく。
落ち着け。必死に自分に言い聞かせ、少しずつ呼吸を整えていく。
まずは、武器を探さねば。何をするにしても、まずはそこからだ。
なんとか気持ちを落ち着かせ、ギイギイと軋む床を踏みしめていくと、椅子の上に走り書きが置いてあることに気が付いた。同時に、それが己の字であることにも。
恐る恐る、中身を読んでみる。やはり己のそれと一致した文体で、たったの一文、なぐり書きが載っているのみだった。
「青ざめた血を求めよ……?」
考えても仕方が無いか。諦めをつけ、最寄りのドアを開く。意外に重たく、体重を乗せる必要があった。
後ろ側のドアも開けようとしたが、開かなかった。無理矢理ぶち破ることも不可能ではないだろうが、後が怖い。
結局、最初に開けたドアから出ていくことにした。長い階段を一歩一歩慎重に降りていくと、すぐに違和感に気付いた。
音。オノマトペで表すなら、くちゃくちゃ、と言った具合であろうか。
何かを、乱暴に貪る音。気がかりなのは、同時に聞こえてくる吐息が人間のそれにしてはあまりに生々しいことだ。
床へ近づくにつれ、臭いも増していった。鉄と糞の臭いである。悠真の脳裏に、初めて狩人と出会った時の光景がよぎった。
まさか。嫌な想像を振り払おうと、首を横に振る。だが残りの段差が少なくなる度に、想像はその解像度を増していった。
シャツは、もう汗でびしょ濡れになっていた。そこで、また一つ気が付いた。
寒いのだ。震える呼吸が白い息となって可視化されていく。
季節まで違うなど、本当に一体どこへ来てしまったのだ。頼むから夢であってくれと珍しく神に祈った。
遂に、段差を下り終えた。アーチ状の入り口越しに見えた床に、思わず息を呑む。
床が、抉られていた。剥がされた床板がそこら中に散乱している。
そうっとその部屋を通り過ぎると、悠真の目が動くものを捉えた。目を凝らしてみるが、その正体に気付いた瞬間、喉まで出た叫び声を押し殺した。
狼、なのだろうか。音と臭いの正体であろう。くちゃくちゃと咀嚼されているのは、毛むくじゃらの、人。シリオンであろうか。
息を殺し、静かに後退る。この建物の持ち主には悪いが、先ほど開かなかったドアをぶち破ることにしよう。命の方が大切だ。
ぱりん。
悠真の全身が凍りついた。薬品の入った瓶を踏んだのだ。ひっ、と思わず声が漏れ、すぐに己の口を塞ぐ。
が、無駄な事であった。狼というにはあまりに大きく、かつ邪悪過ぎる見た目をしたそれは、新しい獲物へゆっくりと視線を向けた。
真っ白な瞳と、目が合った。同時に、背筋に走る電流。
躊躇いもなく、全力で逃げ出した。無我夢中、死にたくない一心で階段を駆け上がる。
だが獣の速度は常軌を逸しており、あっという間に左足を掴まれてしまった。階段に倒れ込み仰向けになると、右足で獣の顔を蹴り飛ばす。
「離せっ! はな──」
ぐしゃ。
音の意味が、理解出来なかった。それが己の左足の千切れ飛ぶ音だと気付くのに、一瞬の時間を要したのだ。
理解と同時に襲い来る、想像を絶する激痛。堪らず、絶叫。
悲痛な声を愉しむかのように、獣は悠真のシャツを引きちぎり、その素肌を暴いた。引き締まった美麗な腹へ、鋭い爪が押し当てられる。
「待っ」
待ってくれる道理などある筈もなく、ほんのりくびれを帯びた扇情的なその腹は、カッターで切断されるビニール袋が如く縦にすっぱりと引き裂かれてしまった。
抵抗する間も無く両腕を突っ込まれ、ぱっくりと腹部の皮膚を剥がされる。その病的な程に白い皮膚の下からは、美しい内臓達がごちそうとして獣の目に現れた。
「かはっ……!!」
あまりの痛みに叫ぶことすら叶わず、代わりにその華奢な身体はぐりんと仰け反り、その弾力のある愛らしい唇はぱくぱくと痙攣した。限界まで見開かれた瞼から、じんわりと涙が溢れ出る。
視界がぼやけ始めた。失血のショックからか、涙からか、はたまた両方か。どれが正解なのか、悠真には分からなかった。
遂には意識が朦朧としはじめた。苦痛から意識が逃れようとしたその瞬間。
じゅぷん。
獣が、悠真の内臓に思い切り顔をうずめる。激痛が彼の意識を呼び起こした。
獣は、彼が苦しみのない微睡みの中へ逃げることを許してはくれなかったのだ。
ぽきん。
悠真の心の中で、何かが折れる音がした。遂に、恥も外聞もなく、泣き叫ぶ。
全身の痛覚神経を電気信号が焼き尽くす地獄の感覚に耐えられず、悠真の鼻からはどろりとした血が流れ始めた。
血と涙と鼻水に塗れた顔は止むことのない苦痛によりその歪みを増し続け、握られた拳は脊髄反射に突き動かされるがまま獣を殴りつける。
が、返ってくるのは山を押している様な無力感と、報復の様に勢いを増す残忍な程の苦しみであった。
臓物が噛み砕かれる度、脊椎から全身まで突き抜ける激痛に悠真が顔を仰け反らせる。
ごめんなさい。どうか、夢なら覚めて下さい。今まで行ってきた大なり小なり全ての数少ない罪を、彼は心の奥底から懺悔した。
だがそれでも苦しみと痛みは強まっていく一方で、悠真の絶望もますます確固たるものとなっていった。
なんで。どうして。耐えることなどとても不可能なその激痛に喉を枯らして咽び泣き、返ってくる事のない問いを居るのかも分からない神へと投げかける。
肋骨を剥がされた。露出したピンク色の肺を貪られ、遂に呼吸すら封じられた。
地獄以外の何物でもない痛みに窒息の苦しみまで付け足されても、もはや腕を振る力も残されていない悠真には、ただただ絶望に打ちひしがれながら泣くのがせいぜいといったところであった。
「がっ、ぼっ、や……めっ、うっ……ふぐっ……」
肺から昇ってきた己の血に溺れ、弱々しく獣の皮膚を掻き毟りながら、通じる筈もない命乞い。
仮に今更獣が食事を止めても、助かる見込みなど毛ほども無いことは彼自身にも分かっていた。
瞼を開いているのに暗くなっていく視界の中、悠真は様々なものを見た。
自分を捨てた生みの親。代わりに育ての親となり色々な事を教えてくれた、師匠。
柳、雅、そして蒼角。もう会えないのかと思うと、途端に恋しくなった。
いよいよ死を間近にして、悠真の心は寂しさで一杯であった。こんな所で、一人孤独に、誰にも知られず死んでゆくのだ。
みんな、悲しんでくれるだろうか。死んだ後くらいは、ひとりぼっちじゃないといいな。虚ろな目で、天井を眺める。
──ごめん、
口腔から溢れ出す血と、喰い破られては啜られていく臓物。その暗い底へと埋もれていく意識の中で、最期に浮かんだ言葉であった。
目が、覚めた。ぼんやりと脳内にかかる霧が晴れると、背中に走るごつごつとした固く丸い岩の感触に飛び起きた。
起きるや否や、石畳に胃の中身をぶち撒けた。吐瀉物をなんとか避ける様に倒れ込むと、今度はただひたすらに咽び泣いた。
生きたまま腹を喰い破られる激痛。肺を潰される苦しみ。人類が長らく忘れていた被食者の恐怖。そして、逃れられぬ死への冷たい絶望。
その全ての感覚と感情は、悠真の体内に未だ残り香として尾を引いていたのだ。
全てを無に帰す圧倒的な恐怖と苦しみの余韻から逃れようと、止まらぬ動悸のままただひたすらに泣いていた。
「Why is it so annoyin──WHY THE FUCK ARE YOU HERE!?」
石畳に連なる階段の先、洋館の扉から、見知った影が飛び出してきた。悠真を見るなり驚いた様子で叫んでいる。
だが、産まれて初めての「死」を経験した悠真に、そんな事を認識出来る余裕は無かった。
そのまま数時間程ただ恐怖と錯乱のままに喉と涙を枯らしていると、ようやく少し落ち着きを取り戻し、視界に映っていたのが狩人であることに気が付いた。
言葉を話すことも出来ないまま、洋館へ招かれる。扉をくぐると、悠真の目は心配そうにきょろきょろと辺りを見渡し始めた。
テーブル前の椅子に座ると、湯気の立つ紅茶を出された。そっとティーカップの持ち手を掴み、キャラメル色のそれを啜る。
温かい。守られているという感覚が、少しずつ悠真の正気を取り戻していった。
そこにあることを確かめる為しきりに腹をさする悠真を前に、ようやく狩人が口を開いた。
「もう話せそうだな。なぜここに居るのか、聞かせてもらえるかな」
「……分からない」
暖炉から鳴るぱちぱちという音を除きこれでもかと言う程静かな洋館の中に、しゃがれた声が消えていった。
そうか。長い沈黙の後、悠真は何が起こったのかを聞かれた。
「……分からない。夜、ベッドで寝たら、起きたのは診療台の上で……」
診療台という言葉を聞いた瞬間、狩人が立ち上がる。びくりと震える悠真の両腕を掴み袖を捲ると、その白い肌をじっくりと眺めた。
「……輸血は受けていないようだな。となると、余計にわけが分からんが」
狩人が乱暴な行為に謝罪しゆっくりと手を離すと、悠真の腕はそのままテーブルの上に置かれた。
頭を悩ませる狩人に、恐る恐る悠真が聞いた。
「これってさ……もしかして、夢……? あんたが言ってた、あの……」
「ああ、そうだ。輸血も無しに何故貴公がこんな所にいるのか、全く不思議でならん」
ぶっきらぼうに答える狩人。あまりに呆気ない回答に、悠真は茫然とした。
ふと、そういえばと言って狩人が聞いてきた。
「貴公、病を患っているだろう」
「えっ」
見破られた。何故だと狼狽える悠真に、港で彼の瞳をじっくりと眺めた時に気が付いたのだと狩人が答える。
「瞳孔は蕩けていないが、それでも分かる。いつ自分が化物に成り果てるのかと怯える目だ。ヤーナムで腐る程見てきたものでな」
降参だと言う様に、悠真は己の抱える不治の病、その病名を明かした。
エーテル適性減退症候群。人より高いエーテル適性を持って産まれるが、代わりに一部臓器は寧ろその適性が皆無となり、ホロウ外でも虚弱となる。悠真の場合、それは肺と心臓であった。
だが最も恐ろしいのは、その末路。ある時突然臓器不全を起こし、激痛と共に死ぬこととなるのだ。
そして、その時が来た時にホロウ内に居れば、一瞬で
「一番長く生きた人でも、二十六歳で亡くなってる……僕も、諦めないようにはしてるけど……」
悠真の心に、ずしりと重たいものがのしかかる。恐怖である。
あれが、死なのか。いつか必ず、あれをまた味わうことになるのか。身体の震えを押さえつけ、地面を眺める。
その時、なるほど合点がいったと狩人が頷く。顔を上げる悠真に、あくまで仮説だがと前置きをしてから語り始めた。
「恐らくだが、夢が共鳴したのだろう」
「共……鳴……?」
困惑を露わにする悠真に、狩人が説明する。曰く、怪物になりたくないという恐怖と、常日頃見る悪夢が災いし、一時的に意識が狩人の夢と繋がってしまったのだという。
あくまで仮説だが、と狩人が繰り返す。突拍子もない無い話だが、他により良い説があるわけでもないので、悠真は渋々頷いた。
「ところでさ……僕のこと、どう思ってるの?」
ふと、悠真が聞いた。獣に成り果てた人間を狩るのなら、自分もその対象なのだろうか。そう続ける悠真の顔には、恐れが浮かんでいた。
「もちろん」
たった一言。瞳に絶望が宿った悠真に、顔色一つ変えずに狩人が続ける。
「成り果てれば、きちんと狩ってやるさ。貴公としても、怪物になったまま永遠にホロウの中など望む所では無かろう」
「……ありがとう」
悠真の表情が、柔らかいものとなった。浮かべた笑みには、安心が現れていた。
もう、身体の震えは止まっていた。
「けど、その武器はやめて欲しいなぁ〜……なんて」
狩人の右手に握られていたノコギリ鉈を見ながら冗談を飛ばすと、努力はしよう、と狩人も笑った。
「そういえばなんだけどさ、あそこに
「
動きもしない人形を……? 憐れむような視線を向けると、狩人は打って変わって不機嫌になった。
ふと、身体が透け始めた。今度は一体何だと目に焦燥が浮かび始めた悠真に、狩人が伝える。
「目覚めが近いのだろう。起きてまだ記憶があれば、真っすぐに血液検査を受けにいきたまえ。実は寄生虫が潜んでいました、など洒落にもならん」
頷きながら、沈んでいく意識へと身を任せる。こうして、悠真の人生で最も短く最も長い七時間は終わった。
目が、覚めた。柔らかいベッド、その背中を包み込む感触の安堵感に感極まり、胸いっぱいに息を吸い込みながら静かに涙を流した。
身体を起こしてみれば、寝間着はたっぷりと汗を吸い重くなっていた。愛猫は既に起きていたようで、リビングの方から鳴き声が聞こえてきた。
ぐしょ濡れの寝間着を脱ぎ下着姿になると、それでも肌に纏わりつく不快感から上半身は裸になった。
白いパンツ一丁で鏡の前に立ち歯を磨いていると、頬に残る泣き腫らした跡に気付いた。目玉も充血している。
「血液検査……か……」
記憶は残っていた。タオルを手に取り、シャワーを浴びる。目を閉じると瞼の裏に獣が映りそうで、いつもの三倍近く時間がかかった。
猫にエサをやり自分も朝食を食べ終えると、職場に休暇の連絡を入れた。
幸いまだ有給が残っているようで、すんなりと受諾された。
大の字になりベッドへ横たわると、もう一度、光る板に電話番号を打ち込んでいく。その宛先は、職場でも無ければ病院でも無かった。
「もしもし、相棒?」
「おや。誰かと思えば、悠真じゃないか。こんな朝早くに珍しいな」
一体どうしたのだと聞いてくる声に、言葉を返す。
「いや、たださ……酷い夢を見たもんでね。あんたの声を聞いときたいなって」
「……悠真、本当に大丈夫かい? まさか……」
あらぬ心配をする
「大丈夫だって! それよりさぁ、僕、今日有給取っちゃったんだ〜。だからさ、あんたが良いって言うなら……」
「ああ、構わないよ。丁度、今日は客の入りが壊滅的でね。早めの店じまいとしよう」
悠真の胸が沸き踊る。ルミナスクエアで会う約束をすると、すぐさま普段着に着替え、チョーカーを巻く。
ゲームセンターや映画館で一日中時間を潰しながら、自分の見た夢を語った。
「そうか……それは、また随分と……」
「可哀想でしょ〜、僕! あんなに泣いたの、いつぶりだっけな……」
笑っていると、携帯が鳴った。無視しようとも思ったが、随分しつこいものだったので名前も確認せずに出た。
「もしもし? 悪いけど、僕有給取ってるんで──」
「狩人だ。血液検査は受けたか」
夢では無かった。完全に忘れていた、今思い出したよと感謝すると、すぐに電話を切りアキラにその旨を伝えた。
……付き添ってくれるそうだ。ほっと胸を撫で下ろし、常連と化した病院へ足を運んでいった。
相棒の顔は、どこまでも優しかった。
よく読んでくれた。残念だが、本来の意味での夢小説など初めからない。だまして悪いが、性癖なんでな。死んでもらおう。
はい、私が悠真くんのリョナを書きたかっただけです。いきなり性欲の発散に付き合わせてしまい本当に申し訳ない。
時系列的にはエージェント秘話後、平和に日常送ってる頃です。大分先の話ですね。アキラとの信頼度はカンスト済み。
ただ悠真のエージェント秘話も書きたいのでもしかしたら今回はIFの話になるかも。元からIFだろと言われればそうではあるけど。
この一夜共鳴しちゃったというだけの話なのでどうかご安心を。悠真を獣だのエーテリアスだのにさせるつもりはありません。本編では。
愛してるぞ悠真。一生生きろ。